折井次昌

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折井次昌
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文2年(1533年
死没 天正18年8月4日1590年9月2日
別名 五郎次郎、淡路守、市左衛門
戒名 道白、道伯
墓所 宗心寺(埼玉県嵐山町
主君 武田信玄勝頼徳川家康
氏族 武田氏甲斐一条氏族折井氏
父母 折井次久
兄弟 次昌次重入戸野門安
青木信立の娘
次忠次吉伊藤重次室、坂本貞吉室、曾雌定政室、多田正長室、小尾光重室、曲淵正吉
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折井 次昌(おりい つぐまさ)は、戦国時代から安土桃山時代武将武川衆

生涯[編集]

弘治2年(1556年)から武田信玄足軽大将として仕える。元亀元年(1570年花沢城の戦いなど、各地の戦いで活躍した。天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐により、武田勝頼の代に武田氏が滅ぶと、米倉忠継とともに徳川家康を頼って遠江桐山に隠れ住む。6月の本能寺の変で信長が死去して天正壬午の乱が起こると家康の命を受けて忠継とともに甲斐へと先行し、武川衆を徳川方につける。また同じく甲斐に侵出した北条氏直の誘いを断り、小沼小屋で北条軍を破った。これらの功により忠継とともに武川衆の指揮を任される。その後も甲斐・信濃で各地を転戦。

天正12年(1584年小牧・長久手の戦いでは途中で召喚され、長久手の合戦で敵兵岡本次郎を討ち取る武功を立て、楽田城の防衛線にも参戦した。天正13年(1585年)第一次上田合戦では大久保忠世の配下として出陣し、殿軍として敵兵成沢甚右衛門を討ち取るなどの武功を立てた。天正17年(1589年)これまでの武功を称されて甲斐国内に730石を領した。翌年には加増を受けて1130石となるが、同年の小田原征伐に従軍した際に陣没した。

出典[編集]