尊珍法親王
尊珍法親王 | |
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続柄 | 亀山上皇皇子 |
身位 | 法親王、准三宮 |
出生 |
嘉元4年(1306年) |
死去 |
元徳3年(1331年)ごろ? |
父親 | 亀山上皇 |
母親 | 民部卿三位 |
役職 |
聖護院門跡 園城寺長吏 |
尊珍法親王(そんちんほっしんのう)は、鎌倉時代後期の法親王。静尊法親王(じょうそんほっしんのう)[注釈 1]あるいは恵尊法親王(えそんほっしんのう)とも。聖護院門跡・園城寺長吏・准三宮。亀山上皇の皇子で、母は民部卿三位。征夷大将軍護良親王の異父兄。
後醍醐天皇の義理の息子(血筋上の叔父)に当たるが、『太平記』では実子として登場し、また護良の同父同母弟という設定になっている。
経歴
[編集]系譜
[編集]尊珍の続柄に関する有力な記録は、『金沢文庫文書』所収の前執権金沢貞顕書状(元徳元年(1329年)12月11日付)で、「民部卿三品」という女性が「梨下門主宮〔当代御子〕」(後醍醐天皇皇子で梶井門跡である人物)と「聖護院准宮〔亀山院御子〕」の母だったと言及されている[2]。一方、『増鏡』「むら時雨」では、「民部卿三位」が護良親王の母であり、それより前に亀山上皇の皇子を産んでいたことが言及される[3]。
これらによって、尊珍が亀山上皇と民部卿三位の皇子であること、天台座主尊雲法親王(のちの征夷大将軍護良親王)の異父兄であることがわかる[4]。
生涯
[編集]嘉元4年(1306年)に誕生[5]。生年については記録が2つあり、園城寺長吏補任時に数え20歳(「寺門伝記補録第十四」)を逆算して1307年とするものと、覚助入室時に数え19歳(『道平公記』)を逆算して1306年とするものがある。しかし、亀山上皇は嘉元3年9月15日(1305年10月4日)に崩御しているから(『増鏡』「さしぐし」)、亀山皇子であれば、1306年しかないことになる[5]。
養君(乳父のことか)には、大覚寺統の重臣である北畠親房が当てられた(『道平公記』元亨4年(1324年)8月22日条)[6]。
元亨4年(1324年)8月22日夜、聖護院二品覚助法親王に入室(『道平公記』『続史愚抄』)[6]。覚助は亀山の弟なので、尊珍の叔父に当たる[7]。
嘉暦元年(1326年)5月、一身阿闍梨の宣を授かり、園城寺長吏に補任(『大日本仏教全書』第127冊「寺門伝記補録第十四」)[8]。
ところが、元徳2年(1330年)12月、鎌倉幕府に捕らわれて越前国(福井県)に配流となった(『鎌倉年代記』)[7][9]。理由は不明だが、森は、鎌倉幕府との戦い元弘の乱が始まる前年という時期を考えて、後醍醐の討幕計画と何か関係があったのではないか、としている[7]。
流刑先の越前国で薨去した(「諸門跡譜」)[7]。
『本朝皇胤紹運録』
[編集]『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年))のうち、亀山天皇の系図では「寺 尊珍法親王〔准宮。長吏。聖護院。於配所入滅。母准位資子〕」とある[10]。
一方、後醍醐天皇の系図では、「寺 静尊法親王〔聖護院。改恵尊又改尊珍。母同世良〕」とあり[11]、聖護院尊珍法親王の記述について錯乱が見られる。#『太平記』も参照。
『太平記』
[編集]軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)では、流布本巻1「儲王の御事」に、後醍醐天皇の「四宮」(第四皇子)の聖護院門跡として登場(名前は言及されず)[12]。後醍醐と民部卿三位の子で、「三宮」の護良親王とは同父同母弟とされる[12]。
元弘の乱前半戦で後醍醐勢力が敗北した後は、流布本巻4「笠置囚人死罪流刑事附藤房卿事」では、但馬国(兵庫県北部)に流刑になり、但馬守護太田守延に預けられたという[13]。
流布本巻8「主上自令修金輪法給ふ事附千種殿京合戦」では、「六宮」(第六皇子)として登場[14]。初登場時は「四宮」だったので、矛盾がある。太田守延は後醍醐勢力に好意的な武士だったので、六宮を上将軍として鎌倉幕府に反旗を翻した[14]。そして、京都の六波羅探題攻めに苦戦する千種忠顕の軍勢に合流・加勢した、と描かれる[14]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 森 2007, pp. 32–35.
- ^ 森 2007, pp. 233–234.
- ^ 森 2007, p. 231.
- ^ 森 2007, pp. 231–234.
- ^ a b 森 2007, pp. 32–33.
- ^ a b 森 2007, pp. 33–34.
- ^ a b c d 森 2007, p. 34.
- ^ 森 2007, pp. 32–34.
- ^ 吉川弘文館『日本史年表』
- ^ 本朝皇胤紹運録 1930, p. 448.
- ^ 本朝皇胤紹運録 1930, p. 450.
- ^ a b 博文館編輯局 1913, pp. 5–6.
- ^ 博文館編輯局 1913, pp. 75–80.
- ^ a b c 博文館編輯局 1913, pp. 75–80.
参考文献
[編集]- 井上宗雄『増鏡』 下、講談社〈講談社学術文庫〉、1983年。ISBN 978-4061584501。
- 近藤瓶城; 近藤圭造 編「北条九代記」『改訂史籍集覧』 5巻(4版)、近藤出版部、1925年。NDLJP:3431172/6 。
- 内外書籍株式会社 編「本朝皇胤紹運録」『新校群書類従』 4巻、内外書籍、1930年、379–498頁。NDLJP:1879733/214 。
- 博文館編輯局 編『校訂 太平記』(21版)博文館〈続帝国文庫 11〉、1913年。doi:10.11501/1885211。NDLJP:1885211 。
- 森茂暁『皇子たちの南北朝――後醍醐天皇の分身』中央公論社〈中公新書 886〉、1988年。ISBN 978-4121008862。
- 森茂暁『皇子たちの南北朝――後醍醐天皇の分身』中央公論社〈中公文庫〉、2007年。ISBN 978-4122049307。 - 上記の文庫化