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徳川十六神将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう)は、徳川家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を顕彰した呼称。江戸時代には家康と十六神将の姿を描いた図像が東照宮信仰において好まれた。

概要

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近世には仏教絵画の集合図像に模して、戦国大名家の供養や顕彰を目的とした集団肖像画が製作されている。16の数字が選ばれた理由は明らかではないが、16という名数は、(賢劫)十六尊、十六善神十六羅漢、十六善神、十六社など宗教、特に仏教でよく用いられる。近世には筆頭の酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政の4名を特に「徳川四天王」と呼ぶ場合もあることから、東照大権現の神号を持つ家康を権現)に見立て仏教四天王十二神将の数字を合計して「十六神将」としたと考えられているが、更に12人の功臣を加えた呼称を徳川二十八神将と呼びこの28人は日光東照宮に配祀されている。

武将の選出について

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まず、この画像の研究を最も早く行ったのは名古屋城管理事務所学芸員の奥出賢治である。奥出は「人選の基準は不明だが、大部分は三河時代からの家臣で、領土拡張期に家康と共に戦場で活躍した武功派の武将たちである。このことから世が治まり吏僚派の家臣が台頭する中で、創業期の苦しみや活躍を後世に伝えるために選ばれたと考えられる。」とした。[1]この奥出説はこれ以外にこの画像の研究がなかったために通説化した。

経営史学者の菊地浩之は、奥出説では説明できないことが多いとして、下記の疑問を上げている。

  • 徳川家臣の中で実際に有力だった人物と、無名の人物が混在しており選定の基準がよくわからない。
  • 人物の名前に誤字が多い。
  • 武断派の顕彰という奥出説が正しいのであれば、豊臣家の十六将なども無ければおかしいが、江戸初期に徳川十六将以外の顕彰がない為成立しない。

菊地は複数の画像や文献を調査し、最終的には「徳川十六神将を考案したのは渡辺守綱であり、渡辺が若くして戦死した自分の友人鳥居忠広を顕彰するために鳥居と同格の無名の武将も付け加えてしまった」「渡辺守綱は尾張藩付家老だったため、尾張藩の前に清洲城主だった松平忠吉を顕彰する目的で家康のそばに忠吉を描く形式を作ったが、後世の絵の流伝時に松平忠吉が似た名前の松平康忠・松平家忠と混同され、通称の『松平甚太郎』で描かれたために意図が分からなくなってしまった」と結論づけている。 なお、菊地の研究によれば、まれに藤堂高虎石川数正本多正信らが含まれているケースも存在している。[2]

該当者

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(以上を徳川四天王、本多・榊原・井伊の3人を三傑という)

徳川二十四将に入る武将

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参考文献

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  • 奥出賢治 「徳川十六将図再考」『名古屋市博物館研究紀要』第25号、2002年3月31日、pp.1-21

脚注

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  1. ^ 奥出賢治 「徳川十六将図再考」『名古屋市博物館研究紀要』第25号、2002年3月31日、pp.1-21
  2. ^ 菊地浩之『徳川十六将 伝説と実態』KADOKAWA・角川新書・2022

関連項目

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外部リンク

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