川勝広次

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川勝広次
時代 江戸時代中期 - 江戸時代後期
生誕 延享元年(1744年
死没 文化元年3月22日1804年5月1日
別名 龜蔵、次郎作、靱負、齋宮(通称)
戒名 圓指(法名)
墓所 東京都港区の青龍寺
官位 布衣(六位)
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家治家斉
氏族 川勝氏
父母 父:藤堂良徳、母:吉良義俊の娘
養父:川勝広勝
兄弟 広次
正室:川勝広勝の娘
広英、女子(橘元春室)
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川勝 広次(かわかつ ひろつぐ)は、江戸時代中期から後期の旗本。広氏流川勝家の5代当主。

生涯[編集]

延享元年(1744年)、藤堂良徳の二男として江戸に生まれ、後に川勝広勝の婿養子となった。明和元年(1764年)10月15日、初めて将軍徳川家治に謁見した。安永2年(1773年)12月27日、義父広勝の死去により、その家督(丹波国氷上郡内700石)を継いだ。

安永3年(1774年)2月25日、小姓組に列した。天明4年(1784年)11月18日、小納戸に進み、同年12月16日に布衣を着る事を許された。天明6年(1786年)3月7日、年賀のとき目貫と鍔を賜った。同年9月18日に将軍徳川家治が薨去し、同年10月26日、御遺物として刀掛を拝賜した。寛政7年(1795年)5月21日、将軍徳川家斉親筆「岩に蘭」の御絵を賜った。寛政9年(1797年)3月14日、二丸留守居となった。享和3年(1803年)閏正月25日、病気のため退職を許され、寄合に列した。文化元年(1804年)3月22日、61歳で没した。

嫡男の広英が25歳で早世していたため、家督は広英の嫡男の川勝広峰が継いだ。


脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
  • 『川勝家文書』東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年


先代
広勝
川勝継氏系広氏流
5代:1773年 - 1804年
次代
広峰