山田余四郎

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山田余四郎
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:余四郎
官位 中務丞
主君 毛利輝元
氏族 山田氏
父母 父:山田言輔
八兵衛
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山田 余四郎(やまだ よしろう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長門国大津郡国人で、毛利氏家臣。は不明。

生涯[編集]

毛利氏に属した長門国国人である山田言輔の子として生まれる。

天正5年(1578年3月6日毛利輝元から中務丞官途を与えられた。

天正13年(1585年6月3日伊予国野間郡菊万における合戦で敵1人を討ち取る武功を挙げたことを輝元から賞される。

天正16年(1588年5月6日、輝元から長門国大津郡内の河原・倉小田・新別名などで、従来の所領に加えて勝屋采女豊田肥前守の先給地などを与えられ、合わせて約80石の給地を有する大津郡内でも有力な給領主へと成長した。

没年は不明。

その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、毛利氏が周防国と長門国に減封されると山田氏は長州藩士となり、山田八兵衛山田就直山田太郎左衛門山田忠直と続いたが、正徳年間(1711年 - 1716年)に山田氏は断絶した。そのため、『閥閲録』編纂の際には、山田氏に関する書状類は三吉雅信(与一右衛門)によって提出され、巻109に「三吉与一右衛門」に続いて収録されている。

参考文献[編集]