山本五郎左衛門

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『稲生物怪録絵巻』。向かって左が山本五郎左衛門。向き合っているのは平太郎、その上には彼を守る冠装束の氏神の姿が見える。

山本五郎左衛門(さんもと ごろうざえもん)は、江戸時代中期の日本の妖怪物語『稲生物怪録』に登場する妖怪

姓の「山本」は、『稲生物怪録』を描いた古典の絵巻のうち、『稲生物怪録絵巻』を始めとする絵巻7作品によるもので[1][2][3]、広島県立歴史民俗資料館所蔵『稲亭物怪録』には「山ン本五郎左衛門」とある[1]。また、『稲生物怪録』の主人公・稲生平太郎自身が遺したとされる『三次実録物語』では「山本太郎左衛門」とされる[4]

概要[編集]

同絵巻より、五郎左衛門と妖怪たちの帰還の場面。駕籠からはみ出している巨大な毛むくじゃらの脚が、魔王としての五郎左衛門の真の姿と見られている[5]

妖怪の眷属たちを引き連れる頭領であり、魔王に属するものとされる[2]。平田神社所蔵の妖怪画では、三つの目を持つ烏天狗の姿として描かれているが、天明3年刊『稲亭物怪録』(慶應義塾大学三田メディアセンター所蔵)によれば、自分は天狗の類でも狐狸の類でもないと語っている[1]

寛永2年(1625年)、備後国三次(現在の広島県三次市)において、稲生平太郎(三次藩の実在の藩士・稲生武太夫の幼名)を、30日間におよび様々な怪異を起こして脅し続けたが、平太郎は耐え続けた。そして7月30日に1ヶ月間の怪異の締めくくりとして、裃を着た40歳ほどの武士の姿で平太郎の前に姿を現して名を名乗り、神野悪五郎(しんの あくごろう)と魔王の頭(かしら)の座をかけて、勇気のある少年を100人驚かせるという賭けをしており、インド、中国、日本と渡り歩いて、その86人目として平太郎を驚ろかそうとしたが、平太郎が動じなかったことで夢が破れ、最初からやり直しであると、平太郎の気丈さを褒めたたえた。そして、もう怪異を起こすことはないが、悪五郎が来たときにはこれを使えば自分が助力するといい、木槌を遺し、妖怪たちを引き連れて去って行った[2]。この槌は広島市東区の国前寺に寺宝として後に伝えられている[6]

類話[編集]

広島にはこの類話が複数ある。根岸鎮衛随筆耳嚢』によれば、芸州(現・広島県西部)の比熊山に「三本五郎左衛門(さんぼんごろうざえもん)」という妖怪がいたとある。それによれば、稲生武太夫が引馬山で一晩を過ごして帰宅した後、家に様々な妖怪が現れるようになったが、武太夫は決して動じなかった。16日後、彼のもとに五郎左衛門が現れて彼の豪胆さを称え、その後は怪異もなくなったという[7]

また同じく『耳嚢』に、以下のような類話がある。文化5年。五太夫という者が石川悪四郎という妖怪を見物するために真定山へ登り、山中で夜を過ごした後に帰宅すると、家に頻繁に妖怪が現れるようになった。しかし五太夫は決して怯まなかった。数日後、悪四郎は僧侶に姿を変えて五太夫のもとを訪れ、彼の勇敢さを称え、山から去ると告げた。五太夫が話合いの証拠を求めたところ、悪四郎は3尺(約90cm)ほどの用途不明のねじ棒を残して姿を消したという[8]

石川悪四郎の話は五太夫の体験談として『耳嚢』に記述されているが、内容は『稲生物怪録』とほぼ同じのため、鎮衛が書き誤ったか、もしくは五太夫が『稲生物怪録』を脚色して鎮衛に語ったとの説もある[9]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 杉本編 2004, pp. 212-215
  2. ^ a b c 杉本編 2004, pp. 82-85
  3. ^ 杉本編 2004, pp. 288-291
  4. ^ 杉本編 2004, p. 5.
  5. ^ 香川雅信 「化物屋敷絵巻」『妖怪絵巻 日本の異界をのぞく』 平凡社〈別冊太陽〉、2010年、84頁。ISBN 978-4-582-92170-0
  6. ^ 東雅夫 『妖怪伝説奇聞』 学習研究社2005年、18-38頁。ISBN 978-4-05-402719-0
  7. ^ 根岸鎮衛 「芸州引馬山妖怪の事の事」『耳嚢』中、長谷川強校注、岩波書店岩波文庫〉、1991年、220-22頁。ISBN 978-4-00-302612-0
  8. ^ 根岸鎮衛 「怪棒の事」『耳嚢』下、長谷川強校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1991年、361-363頁。ISBN 978-4-00-302613-7
  9. ^ 村上健司編著 『妖怪事典』 毎日新聞社2000年、32-33頁。ISBN 978-4-620-31428-0

参考文献[編集]

関連項目[編集]