山岡景命
山岡 景命(やまおか かげのぶ、弘化2年(1845年) - 大正12年(1923年)9月15日)は、滋賀県最初の新聞『滋賀新聞』創刊者の一人。 [1]
略歴[編集]
山岡景命は、弘化2年(1845年)に近江国膳所中庄(滋賀県大津市中庄)の膳所藩士山岡景重の子として生まれ[1][2]、幼児より聡明で工夫改良を行うことが好きだったと伝えられる[1]。京都の岩垣月洲に師事し、月洲門下には西川吉輔・黒田麹廬・杉浦正臣重剛兄弟・川島宇一郎・鵜飼退蔵・山崎友親・大音龍太郎・富岡鉄斎・富田嘉則・河上市蔵・浅田徳則・永元愿蔵など錚々たる顔ぶれがそろっていた[3]。
明治5年(1872年)2月野洲郡守山村(現滋賀県守山市)の人民共立学校の訓道に招かれ[2]、10月地方新聞としては全国に先駆けて発行された『滋賀新聞』の編集者となった[2]。当時、京都・東京・大阪・神戸・長崎の5都市しか新聞が発行されておらず、大津は新聞社を持つ全国6番目の町となり、最初は京都新聞の分社として設立し後に独立した[1]。元士族を印刷のため雇ったとも伝えられ、新聞名は「淡海新聞」・「滋賀日報」・「淡海日報」・「江越日報」と変遷し、この間山岡景命が社主となり、県下で最初の活版印刷の新聞、日刊の新聞をつぎつぎと刊行した[2]。この後滋賀県庁の御用印刷所としての役割も担った[1]。
明治15年(1882年)、自由民権運動が盛んになる中大津でも大津自由党が結成され、2月10日大津自由党第一次会において党規約が決定され仮会長に山岡景命、常務委員に宇野保太郎・富田毎千代・酒井有が就任した[4]。国会開設へと向かう中、この年新聞は経営不振により廃刊となった[2]。山岡景命は大正12年(1923年)9月15日横浜で死去したと伝えられる。
関連事項[編集]
- 著作・編書
- 「単語篇図識」(滋賀県 1874年)
- 「單語篇圖識 初篇・2編・3編」(滋賀縣 1874年)
- 「公用書式文例 郡区改正鼇頭注解」(立憲書房 1879年)
- 「改正徴兵令俗解」(松栢書房 1884年)
- 「西陣織物沿革提要」(三景堂 1891年)
- 「特許取消審判始末 定紋織出」(1893年)