小林三夫

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小林 三夫(こばやし みつお、生没年不詳)は、日本の俳優である。サイレント映画時代の昭和初年に少年役者として活躍し、トーキー時代にも出演しているあどけなさの残る青年バイプレイヤーであったが、第二次世界大戦以前の記録しか残っておらず、戦後の消息は不明である。

来歴・人物[編集]

生年生地、前歴不明であるが、俳優としてのキャリア(1928年ころ - 1942年ころ)は10代前半から20代半ば、あるいは後半の年齢であったと推測されている。

1928年(昭和3年)にマキノ・プロダクションから独立した片岡千恵蔵が設立した「片岡千恵蔵プロダクション」(千恵プロ)に入社、当時子役に近いローティーンの脇役からキャリアを始める。初めてクレジットに登場するのは、同プロダクションの正月映画『続万花地獄 第一篇』である。同作はその前月に俳優・脚本家から映画監督に転向してデビューした当時28歳の伊丹万作の監督第2作であり、伊丹を片岡に紹介した伊藤大輔[1]が「演出指導」として補佐を固めている。また同作には伊丹が「青山七造」名義で出演もしており、のちの東映の大プロデューサーとなる俳優時代の玉木潤一郎も出演している。同作は3部作で、翌1929年(昭和4年)2月15日公開の第3作『続万花地獄 完結篇』で完結するが、小林は3作ともに同じ役で出演した。

また同年、当時27歳の井上金太郎が「秋篠珊次郎」名義でオリジナル脚本を書き下ろして監督した『火陣』にも、「倅」役で出演している。同作には片岡の相手役川上弥生をはじめ、葛木香一沢村春子らの俳優が日活太秦撮影所からレンタルされ、出演した作品である。

1930年(昭和5年)の伊丹万作のオリジナル脚本による監督作『春風の彼方へ』で片岡の次にクレジットされるという重要な役を経て、翌1931年(昭和6年)、日活太秦撮影所にレンタルされ、徳永フランク監督の現代劇『少年選手』の主役に抜擢される。

1937年(昭和12年)、片岡は千恵プロを畳み日活京都撮影所に入社するが、小林もこれに同行する。サイレントの時代は終わり、同撮影所ではすでにトーキーである。1939年(昭和14年)暮れ、日活がテイチクレコードと組んだ、片岡主演のミュージカル時代劇『鴛鴦歌合戦』に出演、千恵プロ出身のヴェテラン香川良介演じる「香川屋宗七」の店の奉公人で、テイチクのスター歌手服部富子演じる香川屋のひとり娘「おとみ」のわがままを聞く、人のよい付き人の役を演じた。

以降は、嵐寛寿郎や『鴛鴦歌合戦』で片岡の相手役だった市川春代の主演映画に、多くの旧千恵プロ、日活京都のおなじみのバイプレイヤーたちとともに顔を出している。

1942年(昭和17年)1月の日活の戦時統合による大映への合併以降小林の消息は明らかになっていないが、同年ごろは20代半ばから後半であったとみられるため、現在存命であれば90歳前後の年齢である。

フィルモグラフィ[編集]

片岡千恵蔵プロダクション、無声時代[編集]

日活京都撮影所、トーキー時代[編集]

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  1. ^ 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「香川良介」の項(p.140)を参照。同項執筆は磯田啓二奥田久司

外部リンク[編集]