宝戒寺
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宝戒寺 | |
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本堂 (2009年8月4日撮影) | |
所在地 | 神奈川県鎌倉市小町3-5 |
位置 | 北緯35度19分19.9秒 東経139度33分28.8秒 / 北緯35.322194度 東経139.558000度座標: 北緯35度19分19.9秒 東経139度33分28.8秒 / 北緯35.322194度 東経139.558000度 |
山号 | 金龍山(金竜山)[1] |
院号 | 釋滿院(釈満院)[2] |
宗派 | 天台宗[2] |
本尊 | 地蔵菩薩[3] |
創建年 | 伝・1335年(建武2年)[2] |
開山 | 円観[1] |
開基 | 伝・後醍醐天皇 |
正式名 |
金龍山釈満院円頓宝戒寺 (歴史的・非略体)金龍山釋滿院圓頓寶戒寺(寳戒寺) |
別称 | 萩の寺 |
札所等 |
鎌倉江の島七福神(毘沙門天) 鎌倉観音霊場第二番 鎌倉地蔵尊霊場第一番 |
文化財 | 本文参照 |
法人番号 | 7021005001966 |
宝戒寺(ほうかいじ)は、神奈川県鎌倉市小町にある天台宗の寺院。山号は金龍山。詳名を金龍山釈満院 円頓宝戒寺と称し、本尊は地蔵菩薩。萩(ハギ)の名所として知られ、「萩の寺」とも呼ばれる。
歴史
宝戒寺は鶴岡八幡宮三の鳥居前の道(横大路)を右に行った突き当りに位置する。寺域は北条義時以来の歴代の北条得宗家の屋敷北條執権邸地跡と伝える。
得宗家9代目当主で鎌倉幕府元執権(第14代)の北条高時は、元弘3年5月22日(1333年7月4日)、新田義貞の軍に追い詰められて葛西ヶ谷(かさいがやつ、宝戒寺の裏山)の東勝寺で自害、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡した。宝戒寺蔵の建武2年3月28日(同1335年4月22日)付の足利尊氏寄進状に、同寺は「北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立した」旨の記述があり、後醍醐天皇が天台宗の高僧・円観慧鎮を開山としてこの寺を造営しようとしていたことは事実と思われる。しかし、実際の造営は、後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、同天皇が没した後に足利尊氏らによって行なわれたと推定されている。
建武2年寄進状から17年後の1352年(観応3年)に作成された足利尊氏寄進状案には、宝戒寺の造営料として上総国武射郡小松村(現千葉県山武市)と、出羽国小田島庄(現山形県東北部)の土地を寄進するとあり、この頃ようやく宝戒寺の造営が本格化したことがわかる。「惟賢灌頂授与記」という文書によると、2世住持の惟賢によって灌頂が宝戒寺で初めて行われたのが1354年(文和3年)であり、この頃にようやく寺観が整ったものと思われる
文化財
- 木造地蔵菩薩坐像 - 1365年(貞治4年)、仏師憲円の作。
- 木造歓喜天立像 - 秘仏で一般には公開されていない。歓喜天は聖天(しょうでん)とも称し、象頭人身の2神が相抱擁する形に造形される。歓喜天像は一般に小像が多いが、宝戒寺像は像高155cmの大作として珍しい。川端康成の妻は自ら聖天信者を名乗り、行者の予言でこの像の存在を知り、ノーベル賞受賞前に足しげく参詣していたという[4]。
- 木造惟賢和尚坐像 - 当寺第2世の肖像。1372年(応安5年)造立の寿像(生前につくる肖像)
神奈川県指定文化財
- 絹本著色仏涅槃図
- 木造梵天・帝釈天立像
前後の札所
ギャラリー
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門前入口(2009年8月4日撮影)
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門前(2009年8月4日撮影)
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門前(2009年8月4日撮影)
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聖徳太子堂(2009年8月4日撮影)
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宝戒寺の白萩
脚注
- ^ a b 新編鎌倉志 1915, p. 119.
- ^ a b c 新編相模国風土記稿 小町村 寳戒寺.
- ^ 新編鎌倉志 1915, p. 120.
- ^ 「川端康成を囲んで」(III)川端の執心と三島 『三島由紀夫の総合研究』会報307号(三島由紀夫研究会 2009.2.27)
参考文献
- 『国史大辞典』吉川弘文館
- 『角川日本地名大事典 神奈川県』角川書店
- 『日本歴史地名大系 神奈川県の地名』平凡社
- 河井恒久 等編 編「巻之七 宝戒寺」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、119-121頁。NDLJP:952770/74。
- 「山之内庄小町村寳戒寺」『大日本地誌大系』 第39巻新編相模国風土記稿4巻之88村里部鎌倉郡巻之20、雄山閣、1932年8月、307-311頁。NDLJP:1179229/159。