大槌城

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本丸跡地にある石碑(2017年6月)


大槌城(おおつちじょう)とは、岩手県上閉伊郡大槌町にかつて存在した日本の城山城)。代々、大槌氏が城主を担当した。室町時代に大槌次郎によって築造されたといわれている[1]浜崎城とも呼称されていた。規模は東西が700m、南北が100mに及ぶ。

概要[編集]

本丸跡地東側にある二の郭跡
(2017年6月)

1334年から1338年頃、現在の大槌町の背後にある山の上に築造された[2]。砦と4つの郭から構成され、砦は堀で囲まれている。

1437年永享9年)、大槌孫三郎が岳波太郎に呼応して阿曽沼氏を攻めた際、阿曽沼氏を支援した南部氏に大槌城は攻撃を受けた。しかし、城の両側を流れる川など、天然の要害を生かして攻撃を巧妙に防ぎ、遂には流れ矢によって敵将南部守行を討ち取ったという。

戦国末期の阿曽沼広郷の代に阿曽沼氏は遠野十二郷を支配する大勢力に成長し、この頃、大槌氏はふたたび阿曽沼氏の支配下に組み込まれ、天正19年(1591年)の九戸の乱で大槌孫八郎広信は阿曽沼広長とともに三戸城主南部信直方に参陣した。慶長5年(1600年)、鱒沢館主鱒沢広勝による遠野制圧で、阿曽沼広長は遠野を追われ世田米に居住したが、大槌孫八郎は広長支持の姿勢を崩さず、伊達政宗の支援を受けて遠野奪還を目指した広長とともに遠野郷に侵攻した。しかし南部氏の支援を受けた鱒沢氏に敗れ大槌城に退却、大槌城は南部勢に包囲されたが、孫三郎は徹底抗戦の構えを見せ、南部利直の懐柔策で降伏し、自らは伊達領に落ちていった。孫三郎の跡は「稗貫・和賀一揆」で活躍した大槌政貞(広信の子?・一族説あり?)が継いだが、元和3年(1616年)南部利直の謀略で自害に追い込まれ大槌氏は改易となった。

大槌氏の滅亡後、派遣された南部氏城代もこの城を居城としていたが、寛永九年(1632年)南部藩の代官が置かれ、代官所は山麓の旧大槌小学校(現大槌町市役場)に設けられた。 南の平田村から北の豊間根村、内陸方面小国村江繋村に至る「大槌通り」23ヶ村を統治させ、代官は盛岡より派遣された。 大槌城は万治二年(1659年)南部藩によって取り壊された。 明治二年(1869年)代官所は廃止され備品は入札にかけられ払い下げられた。平成四年(1992年)9月4日、県の史跡に指定された。

参考文献[編集]

  • 「青森・岩手・秋田の城郭」(日本城郭大系・新人物往来社)

脚注[編集]

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  1. ^ 大槌城跡城山公園”. 大槌商工会. 2011年4月28日閲覧。
  2. ^ 大槌城

座標: 北緯39度21分42.7秒 東経141度53分46.1秒 / 北緯39.361861度 東経141.896139度 / 39.361861; 141.896139