大平俊堅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大平俊堅
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄8年(1565年[1]
死没 寛永19年2月2日1642年3月2日
別名 角助、角右衛門
戒名 宗祐
墓所 海蔵寺東京都文京区
幕府 江戸幕府広敷番
主君 織田信孝徳川秀忠
氏族 橘氏流大平氏
父母 大平家次
増田次右衛門の娘
虎松、吉蔵、俊宗室、富沢治部右衛門室、坂本久政室、二女
俊宗
テンプレートを表示

大平 俊堅(おおひら としかた)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将

生涯[編集]

祖父俊家近江国甲賀郡岩室に住んだため岩室氏を称したが、父家次の代に大平氏に戻した。祖父は足利義輝に仕えたが、永禄の変の際に戦死。そのため父は甲賀に退去していた。後に父は織田信孝に仕えたため、自身も同じく信孝の家臣となった。天正11年(1583年)織田信孝が死去すると父と共に甲賀に隠退したが、後に九鬼嘉隆池田景雄青山忠成の客将となっている。後に父は徳川家康に仕えたが、自身は文禄元年(1592年徳川秀忠の側衆となった。

慶長5年(1600年会津征伐に従軍して宇都宮城まで従ったが、後に主命を帯びて山岡景友と共に近江で一揆の先導を命じられ、甲賀へと赴いた。大坂の陣にも従軍し、慶長20年(1615年)夏の陣では坂崎直盛隊の先駆けとなって功名をあげ、秀忠に賞された。この後、直盛と行軍の前後をめぐって論争を起こしている。戦後は褒章として黄金を与えられたが、本多正信はこの黄金を感状にも等しいものであると説いている。元和9年(1623年大奥広敷番を命じられる。所領は大坂の陣後、上野国に200石を与えられていたが、家光の代に武蔵国児玉郡に移された。寛永11年(1638年)老齢をもって辞職。子は夭折していたため、服部氏から婿養子をとって家督を継がせた。

注釈[編集]

  1. ^ 永禄7年(1564年)とする説もある。

出典[編集]