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大山郁夫

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大山 郁夫
おおやま いくお
生年月日 (1880-09-20) 1880年9月20日
出生地 日本の旗 日本 兵庫県赤穂郡若狭野村(現相生市
没年月日 (1955-11-30) 1955年11月30日(75歳没)
出身校 早稲田大学
前職 早稲田大学教授
所属政党労働農民党→)
労働者農民党→)
新労農党→)
無所属

選挙区 京都府選挙区
当選回数 1回
在任期間 1950年6月5日 - 1955年11月30日

選挙区 東京府第5区
当選回数 1回
在任期間 1930年2月21日 - 1932年
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大山 郁夫(おおやま いくお、1880年明治13年)9月20日 - 1955年昭和30年)11月30日)は、日本政治家政治学者

来歴・人物

兵庫県赤穂郡若狭野村(現相生市)に福本郁夫として生まれる。17歳の時に養子縁組により大山姓となる。東京専門学校に入学し、在学中に早稲田大学政治経済学部に改組され、1905年に同学部を首席で卒業。1914年に早稲田大学教授(政治学)。1917年朝日新聞社に入社するが、翌年白虹事件により辞職。1919年長谷川如是閑らと雑誌『我等』を創刊するとともに大正デモクラシーを唱道する黎明会に参加。1921年に早稲田大学教授に復帰。

その後左派無産政党である労働農民党の委員長となり、「輝ける委員長」の愛称が付く。1928年第16回衆議院議員総選挙田中義一内閣大蔵大臣だった三土忠造と同じ香川県から立候補するが、官憲の激しい選挙干渉に遭い落選。1930年総選挙新労農党より立候補し当選するが、この際「合法政党無用論」をとり同党の結成に反対した共産党系勢力(かつて労農党からの立候補時には組織的支援を与えていた)からは「大山師」(大山氏のもじり)と悪罵を投げかけられた。そして2年後にアメリカに亡命。ノースウェスタン大学政治学部研究嘱託。

戦後、1947年に帰国。1950年参院選日本社会党日本共産党などで構成される全京都民主戦線統一会議(民統)の支援を得て立候補、途中社会党が馬谷憲太郎を擁立して戦線に乱れが生じるものの当選する(馬谷は落選)。なお、同年には京都府知事京都市長の選挙も行われ、それぞれ民統が推した蜷川虎三高山義三が当選している。1951年の12月にスターリン国際平和賞受賞。参院議員在職中の1955年に硬膜下血腫のため死去[1]

著書

  • 『大山郁夫著作集―大正デモクラシー期の政治・文化・社会 全7巻』 岩波書店 1988年

脚注

  1. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)6頁

外部リンク

先代
(結成)
労働者農民党委員長
初代:1928年
次代
(結社禁止)
先代
(結成)
労農党委員長
初代:1929年 – 1931年
次代
(解散)