大口清信

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大口清信
時代 江戸時代中期
生誕 不詳
死没 享保16年(1731年8月10日
改名 長太郎→茂右衛門
別名 通称:茂右衛門 / 幼名:長太郎
姓名:藤原清信
幕府 江戸幕府
主君 蜂須賀家
阿波徳島藩
氏族 藤原秀郷大口氏
父母 大口清行山田権左衛門
兄弟 大口清信飯沼長高先山親行室、梯政休佐野利重
黒部市郎左衛門
大口清紀、大口清紀室
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大口 清信(おおぐち きよのぶ、生年不詳 - 享保16年(1731年8月10日)は、江戸時代中期ごろの武将[1]通称茂右衛門[1]。仕阿波徳島藩大口氏4代当主[1]

経歴[編集]

清信は、阿波徳島藩家臣の大口清行長男に生まれる[1]山田権左衛門[1]幼名大口長太郎といい、元服して大口茂右衛門清信と名乗った[1]の清行とともに阿波徳島藩蜂須賀家に仕えた[1]

寛文10年(1670年11月6日、父の清行が病死すると、同11年(1671年1月1日家督を継ぐ[1]。阿波大口家の4代目当主となって、蜂須賀家の城下に弐百五十石(250石)を領した[1]。蜂須賀家の小姓であったともいう[1]。清信は男子が生まれなかったため、山田宗充三男に嫁がせて養子に迎え入れた[1]。享保16年(1731年)8月10日、病死した。

氏族[編集]

大口氏は、藤原鎌足(中臣鎌足)子孫である藤原秀郷末裔とされ、伊勢国大口郷(現在の三重県松阪市大口町付近)に本拠を置く土豪となった[1]。つまり本姓藤原であるため、正式な姓名藤原清信である。阿波大口家は代々阿波徳島藩に仕えた[1]。清信の後を継いだ大口清紀は養子であるため、男系の系統は清信の代で断絶した[1]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『蜂須賀家家臣成立書并系図』徳島大学附属図書館蔵