堀井新治郎

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初代 堀井 新治郎(〈しょだい〉ほりい しんじろう、1856年10月14日安政3年9月16日) - 1932年昭和7年)7月19日)は、明治大正時代の日本発明家謄写版(ガリ版)印刷機の開発者である。堀井家当主の座を一子・耕造(のちの 堀井 仁紀)に譲って「新治郎(2代目堀井新治郎)」を襲名させた後は、堀井 元紀 を名乗った。近江国蒲生郡駕輿丁村(現・滋賀県蒲生郡竜王町駕輿丁)出身。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

略歴[編集]

幕末のただなかにあたる安政3年9月16日新暦換算:1856年10月14日)、近江国蒲生郡駕輿丁村(1889年以降の苗村駕輿丁。現・滋賀県蒲生郡竜王町駕輿丁)の、菱田弥左衛門の次男として生まれた。

内務省勧農局紅茶伝習所に入り、緑茶再生法伝習所等を経て、1879年明治12年)8月13日、岐阜県御用係となり、その後、農商務省製茶巡回教師になる。1883年(明治16年)8月、滋賀県蒲生郡岡本村(後の朝日野村。現・東近江市蒲生岡本町)で代々醸造業を営む堀井家の養子となり、亡夫と儲けた一児(その名は耕造、のちの2代目堀井新治郎、さらにのちの堀井仁紀)を連れた堀井ヒデと結婚して、第38代堀井家の家主・新治郎(後に元紀と称す)となる[1][2]

滋賀県勧業委員や米質改良委員などを歴任した後、1893年(明治26年)1月、新治郎(元紀)は簡易印刷方法研究のため官職を退く。巡回教師活動は多くの資料を複数部用意する必要があるが、当時の印刷は高く一般が利用できる金額でないことから、同文を一括して印刷できる簡易な印刷方法の必要性を仕事を通じて痛感していた。仕事を通じて欧米で簡易印刷について調査していたことから、開発の方向性は見え始めていた。なお、子息・耕造も同時期に勤務先である三井物産を退職し、父と行動を共にし簡易印刷方法の研究に邁進することとなった[1]

当時日本で行われた簡易印刷としてはコンニャク版印刷があったが、多くて20枚の印刷が限界で、企業や役所・学校はより多数の同文書類を必要とすることが多く、質の高い簡易印刷は様々な活動において強く求められていた。簡易印刷の方向性が纏まりかけて来たことから、1893年(明治26年)3月、シカゴ万博視察を兼ねて印刷技術の先進国であるアメリカ合衆国に簡易印刷方法の情報収集・技術習得に出向く[3]。アメリカではエジソン孔版印刷ミメオグラフ(謄写版)の理論を1861年に開発し、新次郎が渡米した頃、エジソンは原型を完成させた。その間、日本では、度重なる研究開発費に渡米費用等の資金を捻出するため、子息・耕造は蒲生郡の自宅を含め、仏壇を除く資産を売却し、1893年(明治26年)4月、その資金で一家は東京府東京市神田鍛冶町(現・東京都千代田区神田鍛冶町)に転居した。家族の生活は極貧の状態であった[4]。同年10月、視察を終えた新治郎は日本に帰国した[3]

1894年(明治27年)1月、新治郎親子は「蠟引きした原紙をやすり上におき、鉄筆で書いて製版する方法」を発明し、「謄写版」と命名し、発表した。この頃、謄写堂と社名を称する。また、速やかに特許出願を行うが、資金がなく自力申請した結果、書類に不備があって特許受理には至らなかった。堀井家にとっては早々の資金化が必要なことから、同年7月、ジャパン・ウィークリー・メイル(横浜居留地にて発行された在日外国人向けの新聞、明治維新期から近代化する日本の情報を世界に発信しつづけた英字紙)に謄写版の広告を出し、大きな反響を得ることができた[2]。また、東京帝国大学講師ウエングステンからも優秀な発明との賞賛を得、横浜のモルフ商会他在日外国商社等から資金支援の申し出があったが、条件面での不満があって、これらの申し出を謝絶したく[5]

営業は主に耕造が担当したが、当時は簡易印刷への期待の高さから詐欺的営業も多く、堀井の謄写版に対しても世間の信頼を得ることはできなかった。1894年(明治27年)7月、日清戦争が勃発すると、簡易印刷機は軍部においても必要なものであることから、陸軍省より堀井親子に多量の謄写版発注があった。製造途中において火災に遭い、印刷紙の多くを消失するなどの問題が生じたものの、新治郎親子の昼夜を厭わない作業により、期限内に完納することができた。1895年(明治28年)3月12日、2499号にて特許(謄写印刷紙)が認められた[6]、加えて、軍への納入は世間に十分信用証明するものであったことから、以後は役所等より多くの注文を得るに至った。新治郎親子も営業に注力すべく行商活動する従業員を雇って販売を広げながらも、掛売りの焦げ付きなどから資金面では厳しい展開が続いた。それでも、堀井親子の謄写版が簡易印刷の主流となるに及んだ。

1897年(明治30年)3月、耕造が結婚し、5月には博覧会創設25年記念博覧会(京都)において賞杯を受ける[2]1904年(明治37年)4月、新次郎は病に倒れて隠居し、子息・耕造が第39代堀井家家主となる[5]1916年大正5年)5月8日に緑綬褒章を受章し、翌年、新次郎は「新治郎」の名を息子・耕造に襲名させ、自らは「元紀」と名を改めた。1922年(大正11年)4月29日に帝国発明協会優等賞を、1926年(大正15年)9月17日には帝国発明協会最高賞である帝国表彰を、1929年(昭和4年)10月16日には特等賞を受賞した。また、1929年(昭和4年)11月30日には産業貿易功労者として子息・新次郎が表彰された[7]

1932年(昭和7年)7月19日、新治郎(元紀)は目白台の自邸にて永眠する。生前特許出願数は647件、内特許件数433件(日本特許394件、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアでの特許39件)に達する。

年譜[編集]

内容[8][2]

  • 1月 - 官職を退任し、簡易印刷研究に専念する。
  • 3月 - 渡米する。
  • 4月 - 耕造は自宅等資産を処分して上京し、東京神田鍛冶町に転居する。
  • 1月 - 謄写版を発明する。
  • 7月 - 「ジャパン・ウィークリー・メール」に広告。
  • 8月 - 日清戦争の勃発。
  • 1895年(明治28年)3月12日 - 陸軍省からの発注を得る。同日、謄写版印刷紙について特許を獲得。
  • 1896年(明治29年) - 官庁・大学・新聞社・通信社で謄写版が採用される。
  • 1897年(明治30年)
  • 3月 - 子息・耕造が結婚する。
  • 5月 - 博覧会創設25周年記念博覧会において受賞。
  • 1899年(明治32年) - 海外への輸出が本格化する。
  • 1904年(明治37年)
  • 2月 - 日露戦争の勃発。
  • 4月 - 病より隠居を表明し、子息・耕造が後を継ぐ。
  • 1910年(明治43年) - 耕造により堀井輪転謄写機(第一単胴式)完成し、特許第18065号を受ける。
  • 1914年(大正3年) - 耕造によりタイプライター用原紙としてミリアタイプ印刷紙が開発される。
  • 1915年(大正4年) - 耕造により謄写堂を「堀井謄写堂本店」と改称する。
  • 1916年(大正5年)5月8日 - 新治郎が緑綬褒章を受章する。
  • 1917年(大正6年) - 新治郎が「元紀」と改名し、息子の耕造が「新治郎」を名乗る(襲名する)。
  • 1922年(大正11年)4月29日 - 帝国発明協会優等賞を受賞する。
  • 1926年(大正15年)
  • 月日不詳 - 堀井謄写版、台盤移動式から原紙枠移動式に改良される。
  • 9月17日 - 帝国発明協会最高賞である帝国表彰を受ける。
  • 1927年(昭和2年) - 堀井謄写堂タイプ原紙(コロジオン)を完成する。
  • 1929年(昭和4年)
  • 10月16日 - 帝国発明協会特等賞を受賞する。
  • 11月30日 - 産業貿易功労者として子息・新次郎が表彰される。
  • 1930年(昭和5年) - 堀井謄写堂、堀井双胴式輪転謄写機を発売、堀井超紀元式謄写機を発売する。東京謄写版印刷協同組合を結成する。
  • 1932年(昭和7年)7月19日 - 堀井第38代新治郎・元紀が死去する。

エピソード[編集]

ガリ版
謄写版印刷を行う際、印刷紙を鉄筆で記入する時にガリガリとの音がすることから、通称ガリ版と言われるようになった。

家族[編集]

実父 菱田弥左衛門
妻 堀井ヒデ
子息 堀井耕造(後に第39代新治郎・仁紀)
同妻 堀井コト

脚注[編集]

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  1. ^ a b 「謄写版の発明家堀井新治郎苦闘伝 堀井謄写版発明の動機」(日統社編 日統社 1932年)
  2. ^ a b c d 「謄写印刷(ガリ版印刷)の歴史 堀井新治郎親子」(山形謄写印刷資料館(山形ガリ版資料館))
  3. ^ a b 「謄写版の発明家堀井新治郎苦闘伝 元紀翁研究の為め渡米」(日統社編 日統社 1932年)
  4. ^ 「謄写版の発明家堀井新治郎苦闘伝 堀井新次郎氏と発明完成への苦心」(日統社編 日統社 1932年)
  5. ^ a b 「謄写版の発明家堀井新治郎苦闘伝 謄写版の実施とその普及」(日統社編 日統社 1932年)
  6. ^ 官報第3521号 明治28年3月29日
  7. ^ 「謄写版の発明家堀井新治郎苦闘伝 光栄と栄誉の数々」(日統社編 日統社 1932年)
  8. ^ 「謄写版の発明家堀井新治郎苦闘伝 光栄と栄誉の数々」(日統社編 日統社 1932年)

参考文献[編集]

  • 日統社 編 『謄写版の発明家堀井新治郎苦闘伝』 日統社、2009年3月

堀井新治郎(元紀)に関連する文献[編集]

  • 奈良繁太郎 「堀井新治郎氏」『日本発明家伝』 帝国発明学会、1936年、964-977頁。
  • 府立東京商工奨励館等 編 「堀井新治郎」『化学機械及製品展覧講演会講演要録並展示品概説 第5回』 府立東京商工奨励館、1938年
  • 堀井新治郎 『堀井新治郎経歴書』 堀井新治郎、1941年
  • 堀井新治郎 「最近の特許と新案」『印刷雑誌』25(9)、印刷学会、1942年9月、49頁。
  • 三条杜夫他 編集 『ガリ版百年 : 堀井新治郎父子、日本型軽便印刷器発明より百年目によせて』 ガリ版の灯を守る会、1993年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]