呉鶴齢

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呉鶴齢 (ウネンバヤン)
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1896年光緒22年)[1]
死去: 1980年
出身地: 内モンゴル ジェリム盟ホルチン右翼旗
職業: 政治家
各種表記
繁体字 吳鶴齡 (烏尼伯英)
簡体字 吴鹤龄 (乌尼伯英)
拼音 Wú Hèlíng
ラテン字 Wu Ho-ling (Ünenbayal)
和名表記: ご かくれい (ウネンバヤン)
発音転記: ウー ホーリン
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呉 鶴齢(ご かくれい)は中華民国の政治家。モンゴル族。モンゴル名は、ウネンバヤンᠦᠨᠡᠨᠪᠠᠶᠠᠷ、転写:Ünenbayal)。梅軒

事跡[編集]

呉鶴齢別影(『最新支那要人伝』1941年)

熱河承徳師範を経て、1917年民国6年)、北京政法大学を卒業した。その翌年には北京大学に入学した。その一方で北京政府内務部に勤務し、ホルチン(科爾沁)右旗王グンサンノルブ(貢桑諾爾布)の蒙蔵事務処での職務も補佐した。さらに、北京高等師範学校でも勤務し、北京基督教青年会副総幹事もつとめている。1926年(民国15年)、北京大学を卒業し、まもなく中国国民党に加入した。

1929年(民国18年)4月、蒙旗駐北平弁事処主任兼国民政府蒙蔵委員会参事となる。翌年1月、蒙蔵委員会蒙事処処長に異動した(1932年6月より参事に戻る)。1934年(民国23年)3月、蒙古地方自治政務委員会委員兼蒙蔵委員会委員に任命される。9月、蒙古地方自治政務委員会参事庁参事長に任ぜられた。

1936年(民国25年)5月、ユンデン・ワンチュク(雲王)、デムチュクドンロブ(徳王)らが蒙古軍政府を樹立すると、呉鶴齢もこれに参加する。参議部部長兼総裁幇弁に任命され、総裁のデムチュクドンロブを補佐した。また、蒙古生計会会長にも任ぜられている。翌年10月、蒙古聯盟自治政府参議会議長に任命された。

1939年(民国28年)9月、蒙古聯合自治政府(蒙疆聯合自治政府)参議会参議となる。翌年、李守信の後任として議長に昇格した。1941年(民国30年)春には、蒙古自治邦政府政務院院長に任ぜられている。その後、蒙古留日予備学校校長もつとめた。

日本敗北後は、国民政府に復帰し、軍事委員会蒙古宣動団主任に任命されている。1949年(民国38年)、西モンゴル自治運動に参加したが、後に台湾へ逃れた。

1980年、死去。享年85。

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  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』651頁、蒙古文化網站による。『最新支那要人伝』51頁は、1895年(光緒21年)生まれ、Who's Who in China 5th ed., p.261は1894年生まれとしている。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 近代蒙古族歴史人物「呉鶴齢」 蒙古文化網站
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  蒙古聯合自治政府(蒙疆聯合自治政府、蒙古自治邦)
先代
李守信
参議会議長
1940年 - 1941年6月
次代
チョトパジャップ
先代
チョトパジャップ
政務院長
1941年6月 - 1945年8月
次代
(廃止)