吉良城

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吉良城
高知県
別名 吉良峰城
城郭構造 平山城
築城主 土佐吉良氏
築城年 不明
主な城主 土佐吉良氏本山氏長宗我部氏
廃城年  不明
遺構 本丸・土塁・空堀・屋敷跡
指定文化財 市の史跡
再建造物 なし

吉良城(きらじょう)は、土佐国(現高知県高知市春野町 (高知県)弘岡上)にあった中世日本の城。 別名・吉良峰城。

概要[編集]

吉良城は、前方には吾南平野が一望でき、後方には250mの吉良ヵ峰がそびえるの要害の城である。土佐南学発祥の地。 土佐吉良氏の代々の居城として知られるが、築城年は不明である。築城主は吉良氏と云われる。

歴史[編集]

吉良氏は平治の乱の後、土佐に配流された源希義子孫といわれ、その子、吉良八郎が築いた平山城だと伝えられる。 吉良宣常の頃が全盛で、周防から南村梅軒を招き、土佐南学の礎を築くなど文武両道、温和聡明な城主として名が高かった。

吉良宣直が5千領し、戦国時代土佐七雄の1人に数えられた。

天文9年(1540年)本山城拠点に持つ本山氏は吉良城から僅か10km北に朝倉城を築いた。それにおそれた宣直は土佐一条家を頼り、一条氏は森山を築いて、本山氏に対抗。2月本山茂辰は宣直が仁淀川で鮎漁に興じる隙を見て奇襲。吉良城は落城し、仁淀川の如来堂[要曖昧さ回避]で宣直は落命し、名門吉良氏は滅亡した。

吾南を手にした本山氏は吉良姓を名乗り(吉良式部少輔茂辰)、森山、秋山を含めて土佐中央部を支配する。しかし、東方で勢力を拡大した長宗我部氏の勢力に押される。両氏の対立は長浜の戦いの戸ノ本の戦いから始まり、永禄6年(1563年)、本山氏は朝倉城、吉良城から撤退する。長宗我部元親は弟の長宗我部親貞を入城させ、吉良親貞と名乗らせた。しかし、親貞の子吉良親実後継問題で元親の怒りを買い、切腹する。この城は後に元親の子、盛親に与えられたが程なくして、廃城になった。

参考文献[編集]

  • 『四国の城』深訪ブックス[城8]、小学館、1989年11月10日
  • 『日本城郭体系 第15巻 香川・徳島・高知』、新人物往来社、1979年12月15日

関連項目[編集]