八幡町高岡

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八幡町高岡
高岡開基百年碑
高岡開基百年碑
地図
八幡町高岡の位置
北緯43度15分11.5秒 東経141度25分19.5秒 / 北緯43.253194度 東経141.422083度 / 43.253194; 141.422083
日本の旗 日本
都道府県 北海道
市町村 石狩市
開基 1885年(明治18年)
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
061-3481

八幡町高岡(はちまんちょう たかおか)は北海道石狩市にある地名。単に「高岡」とも称される。

地名の由来[編集]

八幡町
1971年(明治4年)に戸籍改めのため、漠然と「石狩」と呼ばれていた一帯に町名をつける必要が生じたので、制定された10町の内のひとつ[1]。当時は町内に石狩八幡神社が所在していたことに由来する[2]
ただし八幡町成立の時点では、高岡の開拓はまだ始まっていない。
高岡
標高20メートルの高台地であることから名づけられたと思われる[3]

地理[編集]

厚田村と合併して拡大する前の、旧・石狩市域の北東部に位置し[4]、東は当別町と接する。

高台部分は標高10 - 20メートルの平坦な地形で、西側の下段部分は北の知津狩川と南の聚富川に挟まれている[4]

歴史[編集]

入植以前[編集]

現在の石狩市中心部が海面下にあった縄文海進期にも、高岡は陸地であった[4]。そのため発見される遺跡の年代は市内の他の場所よりも古く、約6000年前までさかのぼることができる[5]

しかし近代に至るまで、この地に村落が形成されることはなく、明治時代初期でもわずかに炭焼きが行われる程度だった[4]

明治18年の入植[編集]

1885年(明治18年)4月、山口県玖珂郡中津村からの20戸106人が、札幌県移民取扱手続により渡航費・農具費・種子費などの補助を得て、北海道への移住を図った[5]。彼らは帆船「遠江丸」に乗船して小樽港を目指したが、約3週間にわたる船旅の中で新しく子供が生まれ、喜んだアメリカ人船長が「フネ」と名づけたという逸話がある[6]

移住者たちは初めから高岡に向かっていたわけではなく、行政に提出した渡航保護願に記載された目的地は「札幌県札幌区月寒村」となっていた[6]。また古老の話では、小樽の人たちから「ここに留まるように」と何度も勧められたという[6]。小樽を出た一行は軽川に着いたが耕作適地が見つからず、一部の者は札幌や広島千歳まで見て回ったものの、成果は得られなかった[7]

そんな折に「石狩はサケやマス漁で大にぎわい」と聞いた一行は、自分たちも石狩に行ってみることにした[8]能量寺や漁師の井尻らの世話になり、蘇我信玄の斡旋を受けて知津狩川沿いに上流へ向かった一行は、やがて身を落ち着ける先を見出した[8]。直ちに住居となる小屋を作り、木々を伐採して開墾も始めたが、翌年春の融雪期には河川の大氾濫に見舞われたため、ほとんどの人は驚いて高台に移ることとなった[8]

高岡の土地は肥沃であるため、当初の自給用に植えたソバムギアワヒエなどはいずれも無肥料でよく育った[9]。ただ、高台では容易に井戸を掘り当てることができず、飲料水の確保には苦労することとなった[8]

明治時代後半[編集]

1889年(明治22年)、竹中與右衛門が水稲栽培を成功させ、石狩での米作に弾みをつけた[10]

1895年(明治28年)、山口県からの移民第2陣となる37戸165人が来道し、一部は望来方面に向かったものの、多くは高岡を中心に落ち着いた[11]

1900年(明治33年)には釜谷臼から兵庫県人の移住者25戸を迎え、さらに各地からも入植が相次いで、1904年(明治37年)ころには隣の五ノ沢と合わせると200戸規模の集落となっていた[11]

大正・昭和時代前半[編集]

明治が終わって大正、さらに昭和時代に入るころの高岡は、農業基盤も固まって活気にあふれていた[12]。「高岡一心分団」と称する青年団は、基金の積み立てや植樹地の保有を行ったり、通信教育や夜学の活用で勉学に励むなど、精力的に活動した[12]。また商店数が多くなったことから、地元の購買力が増していたことがうかがえる[12]

しかし1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まると、大勢の働き手が戦地へと駆り出され、田畑は荒れて生活が開拓期に逆戻りしたかのように困窮した[13]

昭和時代後半以降[編集]

高岡は農業が盛んな土地であったが、野菜栽培は長らく自家用の域を出なかった[14]。しかし終戦前後の食糧難に際して野菜への関心が高まり、また大都市圏である札幌への出荷を見越して、ダイコンニンジンなどの根菜類を中心に作付面積が増えた[14]

1970年(昭和45年)に始まった米の生産調整により、水田からの転作が求められるようになって以降、高岡産の野菜の重要性はさらに増していった[14]

脚注[編集]

  1. ^ 石狩町誌 上巻 1972, pp. 20–21.
  2. ^ 石狩町誌 上巻 1972, p. 21.
  3. ^ 石狩町誌 上巻 1972, p. 22.
  4. ^ a b c d 高岡百年 1984, p. 28.
  5. ^ a b 高岡百年 1984, p. 29.
  6. ^ a b c 高岡百年 1984, p. 31.
  7. ^ 高岡百年 1984, pp. 31–32.
  8. ^ a b c d 高岡百年 1984, p. 32.
  9. ^ 高岡百年 1984, p. 33.
  10. ^ 高岡百年 1984, p. 103.
  11. ^ a b 高岡百年 1984, p. 39.
  12. ^ a b c 高岡百年 1984, p. 41.
  13. ^ 高岡百年 1984, p. 47.
  14. ^ a b c 高岡百年 1984, p. 101.

参考文献[編集]

  • 『石狩町誌』 上巻、石狩町、1972年3月31日。 
  • 『高岡百年:石狩高岡開基百年記念史』高岡開基百年記念事業協賛会、1984年6月30日。 

外部リンク[編集]