兒玉愛二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
児玉愛二郎から転送)
 
兒玉 愛二郎
時代 江戸時代後期
生誕 天保12年(1841年
死没 昭和5年(1930年
幕府 江戸幕府
主君 毛利敬親
長州藩
父母 父:寺内彌次右衛門道貫
テンプレートを表示

兒玉 愛二郎(こだま あいじろう)は、江戸時代後期の長州藩士。長州の俗論党で井上聞多襲撃犯の一人。のちに和解し、新政府に出仕した。

生涯[編集]

1841年(天保12年)山口県萩市で生まれる。

実父は寺内彌次右衛門道貫(長州藩大組士、二百十石七斗)。

何らかの形で、児玉家へ養子入り。

長州藩選鋒隊士。

幕府への恭順を主張する佐幕派に属す。

元治元年(1864年)9月25日、袖解橋(現・山口県山口市三和町)近くの路上において、中井栄次郎、周布藤吾らと共にいたところ、井上聞多と遭遇。かねてから井上の思想(武備恭順)を憎んでいた児玉ら一行は、そのまま井上を襲撃して重傷を負わせた。(袖解橋の変

俗論派の藩政府とともに奇兵隊などと大田絵堂で戦闘。

選鋒隊が解散後、精鋭隊へ入隊。

精鋭隊として幕府の第二次長州征伐で、石州口で戦闘。

戊辰戦争で干城隊士として北越戦に従軍。

維新後、新政府が御親兵を創設する際に、長州藩の近衛兵隊長として東京入り。

この時、長州まで御親兵を迎えに帰郷した井上聞多と面会したが、自身が襲撃犯の一員であることを井上には告白しなかった。

帰郷後、山口藩(県)庁に出仕。

面会後、井上と親しくなり、井上によって新政府に推挙され、明治5年1月、宮内小丞に任官する。

明治天皇の西国行幸に供奉(随幸私記を残す)。

時期不明 宮内権大書記官に任命。

明治15年 宮内省大書記官に任命。

明治22年 宮内省図書頭。

宮内省図書館を辞職。

昭和5年2月13日死去。93歳。

公職
先代
九鬼隆一
日本の旗 図書
1889年 - 1895年
次代
杉孫七郎
先代
岩倉具定
日本の旗 大膳大夫
1888年 - 1889年
次代
五辻安仲