佐賀の七賢人

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佐賀の七賢人(さがのしちけんじん)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した、佐賀藩(今の佐賀県)出身の偉人七人の総称である。

各人の紹介[編集]

並びは出生順。

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鍋島直正(閑叟)
1814年(文化11年)に佐賀藩九代藩主鍋島斉直の子として、江戸に生まれる。1830年(天保元年)に佐賀藩の第十代藩主となる。武雄領主鍋島茂義の影響を受け開明政策を採用し、1834年(天保5年)に佐賀城下に医学館を建てる。(この後好生館と名を変え、今の佐賀県立病院好生館の原型となっている。)1850年(嘉永3年)に今の佐賀市に反射炉を建てる。明治維新後は議定に就任し大納言の位を受ける。1869年明治2年)に北海道開拓使長官となるが任地に赴くことなく1871年(明治4年)死去。
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佐野常民
1822年(文政5年)に今の佐賀市川副町に生まれる。1855年(安政2年)に日本初の蒸気機関車模型を完成させる。1867年(慶応3年)にパリ万博にて赤十字について知る。1877年明治10年)に大給恒らと博愛社を創設。1880年(明治13年)大蔵卿に就任。1887年(明治20年)に博愛社を日本赤十字社と改める。1902年(明治35年)死去。
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島義勇
1822年(文政5年)に今の佐賀市に生まれる。1856年(安政3年)~1857年(安政4年)に北海道樺太を探検・調査。1869年明治2年)に北海道開拓使主席判官に就任し、札幌のまちづくりの指揮をとる。1871年(明治4年)に秋田県令(現在の秋田県知事)に就任。1874年(明治7年)に佐賀の乱で敗れ、刑死。
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副島種臣
1828年(文政11年)に今の佐賀市に生まれる。1869年明治2年)に参議、1871年(明治4年)に外務卿1892年(明治25年)に内務大臣に就任。1905年(明治38年)死去。現在の、佐賀新聞の題字は本人によるもの。
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大木喬任
1832年(天保3年)今の佐賀市水ケ江に生まれる。1868年明治元年)に東京府知事1871年(明治4年)に初代文部卿1873年(明治6年)に参議、司法卿、1880年(明治13年)に元老院議長に就任。1899年(明治32年)に死去。
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江藤新平
1834年(天保5年)佐賀郡八戸村(今の佐賀市八戸町)に生まれる。1871年明治4年)に廃藩置県を行う。1872年(明治5年)に司法卿1873年(明治6年)には参議に就任。1874年(明治7年)佐賀の乱で敗れ、刑死。
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大隈重信
1838年(天保9年)、今の佐賀市水ケ江に生まれる。1870年明治3年)、参議、1873年(明治6年)、参議兼大蔵卿になる。1882年(明治15年)3月、立憲改進党結成。同年10月、東京専門学校(現在の早稲田大学)を開校。1888年(明治21年)、外務大臣1898年(明治31年)、内閣総理大臣第1次大隈内閣)。1914年(大正3年)、二度目の内閣総理大臣(第2次大隈内閣)。1922年(大正11年)死去、国民葬

「佐賀の八賢人」[編集]

「佐賀の七賢人」に、副島の実兄の枝吉神陽を加えて「八賢人」とする著作もある[1]

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枝吉神陽
1822年(文政5年)に今の佐賀市に生まれる。副島種臣は実弟。1850年(嘉永3年)「義祭同盟」を結成し、尊王運動を展開。「義祭同盟」は副島種臣のほか大隈重信・江藤新平・大木喬任・島義勇に影響を与えた。1863年(文久3年)死去。

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  1. ^ 福岡博『佐賀の幕末維新 八賢伝』(出門堂)、龍造寺八幡宮・楠神社編『枝吉神陽先生遺稿 楠神社御遷座百五十年祭記念出版』(出門堂)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]