仙石忠俊

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仙石忠俊(本陽寺蔵)

仙石 忠俊(せんごく ただとし、寛永17年(1640年) - 寛文7年2月29日1667年3月23日))は、江戸時代の大名世子。信濃国上田藩の世嗣。

仙石政俊の長男。正室は浅野光晟の娘(仙寿院)。子は仙石政明(長男)。官位は従五位下兵部少輔。幼名は主税助(ちからのすけ)。

寛永17年(1640年)政俊と側室の好陽院との子供として生まれる。ために、(当時の大名子息は多く江戸藩邸で出生し、成長するのだが)幼少期は上田にて成長したと思われる。承応3年(1654年)12月28日、15歳で従五位下兵部少輔に叙任された。『改選仙石家譜』によると、明暦3年(1657年)以降は忠俊も参勤交代をしており、父政俊在府の年は子忠俊が上田在城、その翌年は政俊は上田で、忠俊は江戸というように、父子交代で参勤する態勢をとっていたようである。

しかし、家督を相続しないうちに、寛文7年(1667年)に江戸に於いて28歳で死去した。法名「春光院殿梅心日香大居士」。

遺骸は上田に送られたが、菩提寺ではなく太郎山麓の和合沢の入口の台地に葬られ、「山の御廟所」と呼ばれた。宝永3年(1706年)に仙石氏が所替となるに及んで本場寺(上田市鍛冶町)の仙石氏墓所へ改葬されている。相続できなかった、あるいは側室の子であることを慮ってのことであったのかもしれない。生母である好陽院もこの山の御廟所に葬られ、のち所替の際に本場寺仙石氏墓所へ改葬されている。

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