中野鈴子
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中野 鈴子 (なかの すずこ) | |
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誕生 |
1906年1月24日 日本・福井県坂井郡高椋村(現・坂井市) |
死没 | 1958年1月5日(51歳没) |
職業 | 詩人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 坂井郡立女子実業学校 |
ジャンル | 詩・小説 |
文学活動 | プロレタリア文学 |
親族 |
中野重治(兄) 原泉(義姉) |
ウィキポータル 文学 |
中野 鈴子(なかの すずこ、1906年(明治39年)1月24日 - 1958年(昭和33年)1月5日)は、日本の詩人。
経歴
[編集]福井県坂井郡高椋村(現在の坂井市丸岡町)一本田に生まれた。作家、政治家の中野重治は次兄。坂井郡立女子実業学校(現福井県立三国高等学校)を卒業、郷里で2度望まない結婚をし、2度離婚を勝ち取った。
1929年4月、中野をたよって上京。1930年、検挙された小林多喜二の救援活動の中心を、原泉や村山籌子とともに担った。この活動を通して第一線のプロレタリア詩人として成長し、1931年日本プロレタリア作家同盟に加入した。1932年1月、宮本百合子編集長のもとで『働く婦人』編集部員となり、昭和東北大凶作取材記事を3回にわたり同誌に連載するなどの仕事をした。この間『戦旗』『ナップ』『プロレタリア文学』『働く婦人』などに詩や小説を発表した[1]。1936年、結核療養のため帰郷、父母を助けて農業に従事した。
1949年秋、有志とともに新日本文学会福井支部を結成し、朝鮮戦争さなかの1951年4月には「戦争やめよ、県民の平和の声を発表しよう」と、文芸誌『ゆきのした』を創刊した[2]。
筆名は一田アキで、詩集に「花もわたしを知らない」などがあり、『中野鈴子全著作集』が刊行されている。[3][4]
一本田の生家跡に、「花もわたしを知らない」と刻まれた文学碑がある。
著書
[編集]- 『花もわたしを知らない 中野鈴子詩集』創造社、1955年9月。
- 『中野鈴子全著作集 第1巻』ゆきのした文学会〈ゆきのした 78号〉、1964年4月。
- 『中野鈴子全著作集 第1巻』(増補再版)ゆきのした文化協会、1973年4月。
- 『中野鈴子全著作集 第2巻』ゆきのした文学会〈ゆきのした 89号〉、1964年7月。
- 『中野鈴子全詩集』フェニックス出版、1980年4月。ISBN 9784892200182。
脚注
[編集]- ^ 川西政明『新・日本文壇史 第4巻 プロレタリア文学の人々』岩波書店、2010年11月26日 pp.93-154
- ^ ゆきのした文化協会のあゆみ(沿革)[リンク切れ]
- ^ 中野鈴子 なかの-すずこ デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
- ^ 鷺只雄 「壺井栄論(13) : 第四章 文壇登場」 『都留文科大学研究紀要』 60, 84-66, 2004
外部リンク
[編集]- 中野 鈴子:作家別作品リスト - 青空文庫
- 〈朝鮮と日本の詩人-39-〉 中野鈴子
- 中野鈴子の直筆原稿「愛」「袂別(けつべつ)」 - ウェイバックマシン(2013年12月7日アーカイブ分)
- 中野鈴子の直筆原稿「花も私を知らない」 - ウェイバックマシン(2013年12月7日アーカイブ分)