三村北土

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三村北土(みむら ほくど[1][2][3]、本名:孝夫[4][5][1][2][3][6][7][8]1919年[9]〈大正9年〉[1][2]7月19日[6] - 2003年〈平成15年〉1月31日[10])は、栃木県芳賀郡益子町益子焼陶芸家[3][7]

窯元の名は「北土窯[4][5][3][11][7][8]三村陶苑」[1][2][11][10][12][7]

国から初めて認定された「益子焼の伝統工芸士」の1人として[10][7]長らく指導者的な立場にあり[7]、伝統的な益子焼を作り続けた[6][7]

生涯[編集]

生い立ちと「北の地での修行」[編集]

1919年[9](大正9年)[1][2]7月19日[6]根古屋窯の2代目当主であった大塚忠治の弟子から「益子の陶工」となった父・三村善蔵[13][14][15][注釈 1]の子として益子に生まれる[1][8]

16歳の頃から[8]佐久間藤太郎の窯元である「佐久間窯」(現・佐久間藤太郎窯)で1年と半年ほど修行した後[4][5]1938年(昭和13年)益子町陶器伝習所研究科を卒業[4][5][9][1][2][3]、父・善蔵が勤務していた青森県弘前市にある「悪戸焼」の「青森県工業試験所」窯業部技術員として[3]6年間勤務し修行した[4][5][9][1]。そして孝夫の作陶の作風は「悪戸焼」の影響を受け[4][5]、後に「北土」という号を名乗ることになる[4][5]

徴兵、終戦、「タイ焼」の茶碗[編集]

その後、1940年(昭和15年)に徴兵され、第22師団86連隊の歩兵となり、満州フランス領インドシナカンボジアラオスと転戦していった[1]。そして1945年(昭和20年)8月、決死のビルマ戦線に投入される前にタイで敗戦を迎えた[1]。あと1ヶ月間戦争が長引いていたら命が無かった。運が良かったと思った[1]

そしてタイ北部のナコーンナーヨック捕虜収容所に収容され、収容所生活が始まった[1]。約10万人がキャンプを張り、いつ来るかわからない復員船を待ちながら、畑を耕し井戸を掘り自給自足を強いられる異国での耐乏生活に何も希望を見い出せず、辛い日々が続いた[1]

そんなとある日、井戸を掘ったら土管を作るような赤い色をした粘土が掘り出された[1]。そして陶工の経験者たちが集って窯を築き、作陶を始めた[4][5][3]。土質も悪く窯も小さく「焼き物」にとっては高温多湿の最悪な条件下での作陶だったため、楽焼に毛が生えたような代物しか焼き上がらなかったが割と使える焼き物が焼けた。そして何よりも気が紛れた[1]

原野に広がる殺風景な収容所に立ち登る窯の煙は、三村の望郷の念を募らせた。「1日も早く益子に帰って焼き物を焼きたい」。その思いは日増しに強くなっていった[1]

そして1946年(昭和21年)6月、ようやく待望の復員船がやってきた。約2,000人の復員兵たちへ、帰国記念の、収容所で作陶した「タイ焼」を配った[1]。自分が持ち帰ったものが一つ、そして上官が復員後も大切に保管し、後に三村の元に戻ってきたものが一つ。こうして縁が欠け薄汚れた二つの「タイ焼」が三村の手に残った[1]

復員後、益子に帰り「タイ焼」の茶碗を見るたびに感傷で胸が痛くなり、その一方で例えようもない愛着が込み上げてくる。そして自分から作陶を取ったら何も残らない、と戦後直後のタイでの作陶への情熱が蘇る[1]

タイでは作陶の号を「北楽」と称した。そして復員後は「北土」で通した[4][5]。「北への思い入れ」は収容所生活の反動であり、そして青森での充実した研鑽の日々が思い出されたためであった[4][5][1]

益子帰郷後の「北土窯」と後継者育成[編集]

そして益子に帰った後は1949年(昭和25年)より栃木県窯業指導所(現在の「栃木県産業技術センター 窯業技術支援センター」)に技官及び後継者養成指導員として勤務[4][5][9][3][18]。21年間に渡り後継者を指導した[1][7]

1970年(昭和45年)には窯を築いて独立し[4][5][3]「北土窯[4][5][3][7][8]三村陶苑」として作陶活動を続けた[1][2][7][10]

職人は一にも二にも修行であり「轆轤を自分のものにする為の基礎をしっかり積めば後はどうにかなる」と考え[1]、長年身に付けていった轆轤形成の技術が評価され、1980年(昭和55年)、国が定めた「益子焼の伝統工芸士」に認定された[1][3][7]5人の内の1人となった。そして後には伝統工芸士会会長も務めた[10]

伝統工芸士に認定されたことはありがたかったが、反面制約も多く、土も釉薬も益子のものでないといけない時期もあった。そのためどんな作陶をするのかいつも頭を捻っていたという[1]

それでも異国・タイでの「益子の景色を思い浮かべながら」作陶を続けていた日々が糧となり、益子焼本来の伝統的な作陶作品を作り続ける[19]原点となった。そして窯も登り窯で焼き続けた[4][5][1]

「陶の里・益子」で、民藝の精神を大切にしながら作陶の仕事を続けられる事が「幸せ過ぎて」と語った。「瀬戸屋の親父は死ぬまで轆轤の前に座るしかないよ」。満足そうに目を細めながら轆轤の前に座り続け「伝統的な益子焼」の作陶活動を続けていった[1][7]

そして常に4、5人の弟子を取り、また子ども向けの解説本である『焼き物の職人さん「益子焼」』の出版に三村家で営んでいた「北土窯」総出で協力するなど[20]、「益子焼のよき後継者の育成」に勤しんでいった[4][5]

2003年(平成15年)1月31日脳梗塞のため逝去した。享年82[10]

家族[編集]

長男は同じく益子焼の陶芸家である三村優[19][2][11][21][10][22]
その妻・三村るり子も益子焼の陶芸家であり[21][23][24]、「北土窯三人展」を開き[25] [26]、夫婦ともに「北土窯」の一員として父・北土を支えた[27]
そして父・北土が亡くなった後も「北土窯」として展覧会を開き[28][29]、夫婦展を開いた[30][31][32]

弟子[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 岩下清[16]、大塚清治[17]、古橋尚憲[2]など、数多くの弟子がいる。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 陶源境ましこ,下野新聞社 1984, p. 78-79.
  2. ^ a b c d e f g h i 陶源境ましこ,下野新聞社 1984, p. 140.
  3. ^ a b c d e f g h i j k 最新現代陶芸作家事典,光芸出版 1987, p. 535.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 益子の陶工たち,小寺平吉 1976, p. 127-129.
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 益子の陶工たち新装版,小寺平吉 1980, p. 127-129.
  6. ^ a b c d 『益子町史 第5巻 (窯業編)』「第六章 益子焼の現在」「第三節 今日の益子」「(四)伝統的工芸品産地の指定」P506 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年11月23日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスで閲覧。:本名の「三村孝夫」で記載。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 日本の伝統工芸東日本,河出書房新社 1993, p. 52-54.
  8. ^ a b c d e 焼き物をつくる職人さん 益子焼,ポプラ社 1998, p. 3.
  9. ^ a b c d e 益子の陶工,無尽蔵 1980, p. 72.
  10. ^ a b c d e f g 「下野新聞」2003年(平成15年)2月2日「おくやみ」「県央」「三村孝夫氏」
  11. ^ a b c 益子の陶芸家,近藤京嗣.
  12. ^ 『栃木県事業所名鑑 昭和53年版』(栃統資料 53-12)「芳賀郡」「益子町」「三村陶苑」P336 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2024年2月20日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
  13. ^ 『益子町史 第5巻 (窯業編)』「第三篇 窯業関係史料」「(二)明治時代」「一七八 明治四十三(一九一〇)年頃 窯元家族調書」P808 - 810 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年11月23日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスで閲覧。
  14. ^ 『広報ましこ』第117号 1975年(昭和50年)4月15日付 14面「サヤド・三村善蔵氏(79)」「下野県民賞を受賞」
  15. ^ 広報ましこ縮小版,第1号 1990, p. 459.
  16. ^ 陶源境ましこ,下野新聞社 1984, p. 128.
  17. ^ 陶源境ましこ,下野新聞社 1984, p. 130.
  18. ^ 『全国研究機関総覧 昭和42年版』「公立研究機関」「199 栃木県窯業指導所」P123 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2024年3月1日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。:本名の「三村孝夫」で記載。
  19. ^ a b c 益子の陶工たち新装版,小寺平吉 1980, p. 245-246.
  20. ^ 焼き物をつくる職人さん 益子焼,ポプラ社 1998.
  21. ^ a b 益子の陶芸家 平成12年,近藤京嗣 2000, p. 93.
  22. ^ 焼き物をつくる職人さん 益子焼,ポプラ社 1998, p. 8,14-15,22-33,36-37,40.
  23. ^ 「下野新聞」2006年(平成18年)6月15日付 18面「遊もあプラザ」「■美術/陶芸」「水無月の会展」
  24. ^ 「下野新聞」2006年(平成18年)6月22日付 20面「遊もあプラザ」「■美術/陶芸」「水無月の会展」
  25. ^ 「下野新聞」2001年(平成13年)2月1日付 12面「遊もあプラザ 県内の催し」「陶芸」「北土窯三人展」
  26. ^ 「下野新聞」2002年(平成14年)2月14日付 10面「遊もあプラザ 県内の催し」「陶芸」「北土窯三人展」
  27. ^ 焼き物をつくる職人さん 益子焼,ポプラ社 1998, p. 8,15,22-33,36-37,40.
  28. ^ 「下野新聞」2004年(平成16年)1月29日付 20面「遊もあプラザ」「陶芸」「北土窯作陶展」
  29. ^ 「下野新聞」2005年(平成17年)2月3日付 12面「遊もあプラザ」「■美術/陶芸」「北土窯作陶展」
  30. ^ 「下野新聞」2006年(平成18年)2月2日付 20面「遊もあプラザ」「■美術/陶芸」「三村優・るり子作陶展」
  31. ^ 「下野新聞」2007年(平成19年)2月1日付 16面「遊もあプラザ」「■美術/陶芸」「三村優・るり子作陶展」
  32. ^ 「下野新聞」2008年(平成20年)2月7日付 20面「遊もあプラザ」「■美術/陶芸」「三村優・るり子作陶展」
  33. ^ 陶源境ましこ,下野新聞社 1984, p. 132.
  34. ^ 「下野新聞」2006年(平成18年)11月27日付 22面「模様で魅せる陶器100点並ぶ」「大田原で羽下さん個展」
  35. ^ とちぎの陶芸・益子,下野新聞社 1999, p. 226.
  36. ^ 陶源境ましこ,下野新聞社 1984, p. 142.
  37. ^ 下野新聞社 1999, p. 228.
  38. ^ 陶芸家渡辺治の紹介/東陶会会員
  39. ^ 「下野新聞」2001年(平成13年)4月10日付 13面「宇都宮で渡辺佳春展」「原土をメーンに花器や食器100点」
  40. ^ 「下野新聞」2003年(平成14年)9月9日付 11面「原土の生命力を引き出す陶器」「13日から渡辺佳春展」

参考文献[編集]

  • 小寺平吉『益子の陶工たち』株式会社 學藝書林〈初版〉、1976年6月15日、127-129頁。 NCID BN13972463国立国会図書館サーチR100000002-I000001346989-00, R100000001-I102538532-00, R100000002-I000001346989-00 
  • 株式会社無尽蔵『益子の陶工 土に生きる人々の語らい』1980年12月20日、72頁。国立国会図書館サーチR100000002-I000001494363-00 
  • 下野新聞社『陶源境ましこ 益子の陶工 人と作品』1984年9月27日、78-79,140頁。 NCID BN1293471X国立国会図書館サーチR100000001-I076416373-00 
  • 光芸出版編集部 編『最新 現代陶芸作家事典 作陶歴 技法と作風』株式会社光芸出版、1987年9月30日、535頁。ISBN 9784769400783 
  • 近藤京嗣『益子の陶芸家』近藤京嗣(自家出版)、1989年11月1日、144,231頁。 NCID BA34162878国立国会図書館サーチR100000001-I106304112-00 :長男・三村優の記載あり。
  • 益子町 著、益子町役場 総務課 文書広報係 編『広報ましこ縮小版 第1号』益子町、1990年2月1日、458頁。栃木県立図書館 検索結果 :父・三村善蔵の記事。
  • 小山和『図説 日本の伝統工芸 東日本編』河出書房新社、1993年6月25日、52-54頁。ISBN 4309724876 
  • 近藤京嗣 著、近藤京嗣 編『益子の陶芸家 平成12年』近藤京嗣(自家出版)、2000年11月、93頁。真岡市立図書館 検索結果矢板市立図書館 検索結果大田原市立図書館 検索結果 

関連項目[編集]

関連文献[編集]

  • 金田昌司(監修),小川洋(文),市川成憲(写真) 著、株式会社アルバ 編『焼き物をつくる職人さん「益子焼」』株式会社ポプラ社〈日本の職人さん 1〉、1998年4月、3-41頁。ISBN 9784591056851 
子ども向けの「益子焼」解説本。
三村北土(本名である「孝夫」表記)の他、北土の妻・ミサオも交えた「北土窯」三村家一家総出で表紙写真も含めて益子焼作陶の様子の取材に全面協力し、益子焼解説に携わった。