三兵戦術

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三兵戦術(さんぺいせんじゅつ)は、おおむね16世紀末から19世紀の陸上戦闘において兵科を歩兵騎兵砲兵に3区分して運用した作戦術を指す。現代における諸兵科連合に通じるものである。

概要[ソースを編集]

16世紀スペイン軍はスイス傭兵パイク方陣(古代のファランクス隊形を参考としている)を改良して導入し、テルシオというパイク兵と銃兵を連携させた隊形を開発して圧倒的な陸軍力を誇り、欧州各国も同国に倣ってこれを導入した。そして1584年以降、オラニエ公マウリッツがこのテルシオへの対抗策を進め、中央の長槍(パイク)兵の両脇に銃兵(当時はマスケット銃)を置くテルシオより小型な「大隊」を開発し、更に「反転行進射撃(カウンター・マーチ)」戦法を生み出した。その後、火砲の研究が進み、野戦で機動的に運用可能にした野戦砲が導入され、さらに従来の騎兵部隊に短銃とサーベルで武装し襲撃を主任務とした「竜騎兵」を編入した[1]。これらを組み合わせることによって三兵戦術の基盤が完成した。

この戦術思想をさらに発展させ実践したのがスウェーデングスタフ2世アドルフであり、彼の軍隊の基本隊形にマウリッツが考案した「大隊」が用いられている。しかしグスタフ・アドルフは小銃が軽量化されたため、銃兵を3列横隊に並べて一斉射撃を行わせることで火力を高めることに成功した。さらに騎兵には抜刀突撃(サーベル・チャージ)を行わせ、野戦砲にも軽量な3ポンド砲を多量に採用したため(これはフランスがスウェーデンの三十年戦争参戦に対して行ったベールヴァルデ条約における多額の資金援助による所が大きい)、三兵が非常に密接に援護しあうことが可能となった。そしてパイク兵は17世紀にソケット式の銃剣が導入されるにしたがってその姿を消し、歩兵は全て銃兵となり、火力は更に高まることとなった。

フランス帝国皇帝ナポレオン1世は、このさまざまな軍事技術の躍進を生かし、合理化して運用すること(統合運用)に成功。後の戦術思想に大きな影響を残すこととなる。

日本では1847年弘化4年)に高野長英がオランダの兵学書を翻訳し、『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』として紹介している。

兵制の比重は絶えず変化しており、普仏戦争では騎兵を止めに使用する決戦兵種として温存したフランス陸軍に対し、偵察や斥候・連絡に多用したプロイセン陸軍が勝利した。

20世紀に入り、機関銃戦車航空機など新しい兵器・兵科の出現、そして騎兵の衰退と共に三兵戦術は拡散していった。

注釈[ソースを編集]

  1. ^ ただしこの時代の一般的な竜騎兵はマスケット銃を持ち乗馬移動する歩兵として運用されていた。

参考文献[ソースを編集]

  • 戦略戦術兵器事典3 ヨーロッパ近代編 学習研究社 

関連項目[ソースを編集]