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三井砂川炭鉱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1964年の炭鉱地図
旧三井砂川炭鉱中央立坑櫓。閉山後は地下無重力実験施設として使用された(2006年5月撮影)
「総力の発揮/業績の向上」と書かれた三井砂川炭鉱の標語塔(2009年9月撮影)

三井砂川炭鉱(みついすながわたんこう)とは、北海道空知郡上砂川町に存在した炭鉱。閉山時の正式名称は三井石炭鉱業株式会社砂川鉱業所。最盛期には多くの坑口を持ち、北海道の三井系炭鉱では主力級の炭鉱だった。1960年代からは大深度からの採炭を進めて生産性の向上に努めたが、1987年に閉山した。

歴史

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  • 1887年(明治20年) - 北海道庁技師の坂市太郎山内徳三郎により石炭層発見
  • 1896年(明治29年) - 北海道炭礦鉄道により、上砂川地区初めての炭鉱が開坑(のちに三井鉱山により買収される)
  • 1896年(明治29年) - 三井鉱山合名会社により、上砂川地区の本格的な炭田調査が開始される
  • 1911年(明治44年) - 上砂川地区の鉱業所創設に備え、三井鉱山株式会社が設立される
  • 1914年(大正3年) - 三井鉱山により砂川鉱業所創設、大規模な開発がはじまる
  • 1918年(大正7年) - 上砂川地区で生産された石炭を運搬するため、砂川-上砂川間に鉄道敷設(のちの函館本線上砂川支線)
  • 1936年(昭和11年)1月14日 - ガス爆発事故が発生、死者・行方不明者21人[1]
  • 1940年(昭和15年) - 日中戦争の軍需需要により、約160万トンの年間採炭量を記録する
  • 1949年(昭和24年) - 砂川町(現:砂川市)と歌志内町(現:歌志内市)の一部が分離独立し、上砂川町開町
  • 1953年(昭和28年) - 第一立坑櫓建設
  • 1958年(昭和33年)6月9日 - 第2坑でガス爆発事故が発生。死者10人、重軽傷者3人[2]
  • 1964年(昭和39年) - 日本初の本格的な水力採炭を一部で開始
  • 1967年(昭和42年) - 中央立坑櫓建設(後に地下無重力実験施設に転用される)
  • 1970年(昭和45年)12月15日 - ガス爆発事故が発生し死者・行方不明者19名[3](後述の3人を含む)。爆発後に発生した坑内火災が収まらなかったため、同月18日、行方不明者3人を残したまま坑口の密閉処理を決定した[4]
  • 1973年(昭和48年) - 三井鉱山から石炭部門が分離独立し、三井石炭鉱業株式会社が設立される
  • 1974年(昭和49年) - ガス爆発事故が発生し15名死亡
  • 1974年(昭和49年) - 露天掘り開始
  • 1974年(昭和49年)11月8日 - 火薬取扱所から発破用のダイナマイト75本、雷管15個が盗難にあう[5]
  • 1981年(昭和56年)6月 - 崩落事故が発生し1名死亡[6]
  • 1987年(昭和62年)7月14日 - 砂川鉱業所閉山[7][8]
  • 1991年(平成3年) - 財団法人宇宙環境利用推進センターによる地下無重力実験センターが開設される[9][10]
  • 1994年(平成6年) - 函館本線上砂川支線廃止
  • 2003年(平成15年) - 地下無重力実験センター閉鎖[11]、第一立坑櫓撤去(中央立坑櫓は現存)

スポーツ

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三井砂川鉱業所の「運動会」は1922年(大正11年)に第1回が行われ、中断をはさみながら戦後まで継続して行われた[12]。鉱業所の年中行事では最大の、家族を含めて全員参加の行事であった[12]。「運動会」には大衆的・親睦会的な「一般種目」と、陸上競技などの「選手競技」があり[13]、大衆的なレクリエーションと高度なスポーツ的活動の両側面があった[14]。「一町一企業」という特殊事情はあるが、企業内のスポーツ活動が、上砂川町の町民全体がスポーツに親しむ環境を作ったという評価もある[14]

「運動会」の職場対抗競技は、初期には過熱のあまり職場間の対立に至り、一時停止されたこともあるというが[13]、対外試合や[13]応援団の組織と華やかな応援合戦などを通して「三井砂川」の一員としての意識を高める効果があったという[14]。1935年に赴任した鉱業所次長の久留貞次郎はスポーツ振興に力を入れ、ベルリンオリンピック金メダリストの田島直人や、橋川雄一(走高跳)、ベルリンオリンピック出場の青地球磨男(中距離走)など大学陸上部出身者が配属された[15]。なお、大学陸上部出身者の「運動会」への出場は制限され、記録や指導にあたっていたという[15]

戦争下の1944年(昭和19年)・1945年(昭和20年)は運動会も中断されたが[16]、1946年(昭和21年)に戦後第一回の「大運動会」が、会社や労働組合・職員組合などの代表者会議による企画運営で開催された[17]。トラック・フィールド種目の「選手競技」も選手権大会並に充実していた[18]。「大運動会」は1959年(昭和34年)から10年間の中断を経て(中断の理由は不明。なお各町内ごとに小規模な「運動会」は開催されていたという)[19]、1969年(昭和44年)に復活したが、町内対抗のレクリエーション的な性格のものとなっている。鉱業所全体の行事としての「大運動会」は1976年(昭和51年)まで継続されたとみられる[19]

地下無重力実験施設

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閉山後、立坑と立坑櫓を利用した地下無重力実験施設(財団法人宇宙環境利用推進センター)の誘致に成功。施設では、700m以上の落差を利用した無重力(微小重力)実験が繰り返し行われた。落下実験はカプセルを櫓の上から落下させるものだった。

1回当たりの経費は200万円以上でスペースシャトル等を利用するよりは安価であるが理解が得られず、また、実験結果を工業・商業的に応用することが難しいなどの状況から利用率は低迷し、2003年に閉鎖された。 閉鎖後、宇宙開発の実験場としての貢献から、後に小惑星イトカワのクレーターのひとつに上砂川(Kamisunagawa)の名が用いられることとなった。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 「死者二十、重軽傷十八人、上砂川鉱の事故」『北海タイムス』1935年(昭和10年)1月16日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.682 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. ^ 日外アソシエーツ編集部編 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年、129頁。ISBN 9784816922749 
  3. ^ “三井砂川登川坑ガス爆発”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1970年12月19日)
  4. ^ 不明の三人残し坑口密閉へ『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月19日朝刊 12版 22面
  5. ^ 「マイト75本と雷管15個盗難 北海道・三井砂川鉱」『朝日新聞』昭和49年(1974年)11月8日夕刊、3版、9面
  6. ^ “三井砂川鉱 1人死亡2人生き埋め”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1981年6月16日)
  7. ^ “事業所で再出発 閉山の三井砂川鉱業所 あすから撤収作業”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1987年7月15日)
  8. ^ “三井砂川鉱閉山から1カ月”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1987年8月14日)
  9. ^ “上砂川の無重力実験センター、開業大幅に遅れ-「10秒」達成できず。通産省が原因調査”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1991年9月12日)
  10. ^ “上砂川町の地下無重力実験センター、開業1年。新手の研究続々-海外からの利用も。将来の資源確保へ微粉炭を効率燃焼”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1992年10月12日)
  11. ^ “最後の落下実験で研究者ら「お別れ」 無重力センター”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2003年2月4日)
  12. ^ a b 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 98.
  13. ^ a b c 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 99.
  14. ^ a b c 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 107.
  15. ^ a b 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 100.
  16. ^ 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 106.
  17. ^ 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 103.
  18. ^ 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 104.
  19. ^ a b 大塚美栄子・滝波武 1992, p. 105.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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