ヴィンセント・マンガーノ

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ヴィンセント・マンガーノVincent Mangano1888年3月28日1951年4月19日)はニューヨークマフィア5大ファミリーの一つであるマンガーノ・ファミリー(後のガンビーノ・ファミリー)のボス。マーダー・インクの幹部。シチリア生まれ。1920年代渡米(一説に1922年)。生まれた時の名前はヴィンチェンツォ・ジョヴァンニ・マンガーノ (Vincenzo Giovanni Mangano) 。また、ブルックリン・ニュースペーパーが名付けた、「処刑人 (The Executioner) 」という渾名で知られる。

彼の弟であるフィリップ・マンガーノは彼の組織の忠実な片腕となり、後に、ファミリー相談役となった。

五大ファミリー発足[編集]

ブルックリンのボス、トト・ダキーラの死後ファミリーは、マッセリア忠誠派のアル・ミネオ(1928-30年)、反マッセリアのフランク・スカリーチェ(1930-31年)と変遷したが、カステランマレーゼ戦争後、改めて5大ファミリーの1つに認定された時、スカリーチェに代わってボスに選出された。I.L.A(International Longshoremen's Association 国際港湾労働者組合)の副社長エミール・カマルダとの強力なコネを理由にボスの座を与えられたとされる。ほかにスカリーチェがマランツァーノに近すぎる人物でルチアーノ対策上の無難な人選で下からボスに担がれたとする説、野心的なスカリーチェより安全で御しやすいマンガーノが好まれたとする見方がある。

ファミリーのボスとして[編集]

マンガーノは港湾区域を支配しそこからの収入を組織の主な収入源としていた。彼と彼の仲間は船会社が上納金を支払わない場合は港での貨物の積み込み・積み下ろし作業を妨害すると脅迫していた。また、マンガーノはドックで働いていた労働者らに対し、その作業日ごとに金を巻き上げていた。こうした行為の結果、マンガーノらはどの船に何が積まれているのか正確に把握しており、それらの中から何を盗むべきか選ぶことができた。

マンガーノと、親友であり共に港湾区域を支配していたエミール・カマルダ(Emil Camarda、1941年殺害)は「シティ・デモクラティック・クラブ」というクラブを設立し、クラブは表向きにはアメリカ人の基本的価値観を振興するのが目的であったが、裏では非合法な活動を行っていた。そこはイタリア人ギャング達の命令で殺人を請け負っていた事で悪名の高い殺し屋集団であるマーダー・インクのメンバーらの主な会議場所として使用され、ヴィンセント・マンガーノの副ボスだった弟のフィリップ・マンガーノやアルバート・アナスタシア等はしばしばクラブに集まっていた。

アナスタシアとの確執[編集]

マンガーノはアナスタシアら新しい世代のマフィア達には毛嫌いされていたマフィアの古いしきたりにこだわるボスのうちの1人であった。その結果、アナスタシアはラッキー・ルチアーノフランク・コステロそしてルイス・バカルターらとの親交を深めるようになっていった。マンガーノは、ボスの自分に断らずに他ファミリーの幹部に様々な便宜を図るアナスタシアの行動に憤慨し不信感を抱くようになっていった。2人はしばしば口論し喧嘩するようになり、仲裁に入った者達により、2人は引き離されていた。おそらく、体力的な差でアナスタシアに敵わなかった年上のマンガーノを守るためだったと思われる。

五大ファミリーの集会、コミッションでは特に親しい仲間もおらず、しばしばコステロやルッケーゼに反対の立場を取った。孤立を避けるためジョセフ・プロファチジョゼフ・ボナンノに接近したという。

失踪[編集]

1951年4月19日ブルックリンのシープヘッド湾近くでフィリップ・マンガーノが殺されているのが発見された。同日ヴィンセント・マンガーノも跡形も無く消え去った。その後も、彼の死体は発見されなかった。コミッションの席上、アナスタシアはマンガーノが自分を殺そうとしていたと主張したが、殺害は否定した。アナスタシアが殺したことを疑う者はいなかったが、フランク・コステロがアナスタシアを援護したことで、最終的にアナスタシアのボス就任が認められた。

外部リンク[編集]