ジョー・マッセリア

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ジョー・マッセリア
Joe Masseria
Giuseppe „Joe“ Masseria.jpg
ジョー・マッセリア(NYPD) 
生誕 Giuseppe Masseria
ジュゼッペ・マッセリア

1886年1月17日
イタリア王国の旗 イタリア王国シチリア州アグリジェント県メンフィ
死没 1931年4月15日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区
死因 射殺
国籍 イタリア王国の旗 イタリア王国アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
別名 Joe the boss
ジョー・ザ・ボス
職業 マフィア

ジョー・マッセリアことジュゼッペ・マッセリア英語: Giuseppe "Joe" Masseria, 1886年1月17日 - 1931年4月15日)、通称ジョー・ザ・ボスJoe the boss)は、アメリカコーサ・ノストラのボス。ニューヨークのリトルイタリーを拠点に各地のイタリア系ギャングを統合し、現ジェノヴェーゼ一家の母体を作った。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

シチリア島南部メンフィに生まれ、幼い頃に西海岸マルサラに移った[1][2][3][4]。1903年一家で渡米し、ニューヨークのマンハッタンのスラム街に落ち着いた。ロウアー・イースト・サイドのフォーサイスストリート沿いに住んだ[5][6]。昼は服の仕立て屋で働き、夜は泥棒をしていた。1907年アパートに強盗で押し入り仲間リマと共に逮捕された(執行猶予)[5]

1913年4月、4人組で質屋に忍び込み、巡回中の警官に追いかけられて捕まった[注釈 1]。彼の率いた泥棒チーム「フォー・ウィー・アー(Four We Are)」は、バワリー周辺で何十件もの空き巣を繰り返していた。重窃盗で起訴され、翌年控訴したが4年刑で刑務所送りとなった[6][7][8]。この頃、すでに結婚して子供が3人おり、姉のサルーンに住み込んでバーテンをしていた[1][9]。家宅捜査で電気ドリルなどの泥棒道具が見つかった[5]

1916年頃出所し、リトルイタリーに戻るとマルベリーストリートとグランドストリートの角にビリヤード場を開き、独自のギャングを結成した。出所後住まいを転々としたが、イースト・ヴィレッジに落ち着いた[7]

カーブ・エクスチェンジ[編集]

禁酒法の成立を機に酒の密売に乗り出し、リトルイタリーのカーブ・エクスチェンジ(非合法酒交換所)[注釈 2]に出入りして酒のトレーダーになった。やがてブローカーに転身し、トレーダーから手数料を取って売買の仲介・運搬・護衛・監視一切を引き受けるサービスを始めた。交換所オーナーのガエタノ・ペノキオ(トミー・ザ・ブル)[注釈 3]と結託し、護衛や見張り番に近所のイタリア系の若者を雇った。サルーンの裏側に交換所を開いたが、警察の取締りを免れるため場所を毎日ずらした。警察は物証がないと捕まえられなかった。酒のハイジャックが横行する中、武装ガードマン付きで取引の安全を保証する「ユニバーサルサービス」は好評だった。売り手買い手双方からマージンを取るので収入が安定し、取引価格も操作できた。交換所の実権を握ったことで密輸屋の中で頭角を現した[1][6][10]

密輸抗争[編集]

1920年12月29日、密輸ライバル、サルヴァトーレ・マウーロと銃撃戦となり、硝煙が消えるとマウーロが死んでいた[1]。逮捕されたが正当防衛を主張した。マウーロの仲間ウンベルト・ヴァレンティと縄張り争いを続けた。当時、パレルモ系マフィアのサルヴァトーレ・ダキーラがコルレオーネ系のジュゼッペ・モレロ&テラノヴァ一家と抗争していた。マッセリアはダキーラに反旗を翻し、ダキーラから追われていたモレロと手を結んだ[注釈 4][注釈 5]。ダキーラはヴァレンティに対しても死の宣告を出していたが、和解してマッセリアを倒すよう命じた[6][11][12]

1922年5月8日、モレロ一家のヴィンセント・テラノヴァが暗殺されると、仕返しにヴァレンティを銃撃した(ヴァレンティの用心棒が重傷を負いのち死亡)[6][11]。翌日夕方、グランドストリートでチーズ屋の前でたむろしていたヴァレンティ一味3人が、部下を連れたマッセリアに気づいて発砲した。マッセリアも銃を取り出して応戦し、60発を超えるガンバトルになった(帰宅ラッシュ時で通行人が流れ弾で負傷)。マッセリアは銃を捨てて逃げたが警察に捕まった[6][9]

1922年8月8日、イーストヴィレッジの自宅を出たところをヴァレンティ一味に追いかけられた。銃撃をかわしながら近くの商店に駆け込み、逃げおおせた。目撃者によると10フィートの至近距離から3-4発撃たれ、1発目は傍らにジャンプして避け、2発目は腰をかがめて頭を下げて避け、3発目は店の窓に当たった。目撃した商店主はその敏捷さに驚いた。警察がマッセリアの家に急行すると、マッセリアがベッドの隅っこにすわっていて、まだ着けていた帽子に2個の穴を発見した[13]。事件がニューヨーク中に伝わり、「弾丸をかわせる男」の伝説が生まれた[6][9][14][15]

襲撃から3日後、ヴァレンティに和解を申し出て、イースト・ヴィレッジのカフェに誘い出した。途中で嵌められたことに気付いたヴァレンティがダッシュして逃げると、付近に潜んでいたマッセリアの手下が一斉射撃を浴びせ、殺害した[注釈 6]。ヴァレンティを油断させるため白昼の繁華街を会合場所に選び、引退して縄張りを譲るとの和平メッセージを送ったと信じられている[15][注釈 7]。すぐ逮捕されたが、「8月8日以来一歩も外に出ていない」と関与を否定した(マッセリアが新しい帽子を付けていたので警察はこの証言を疑った[16])。ヴァレンティの死によりダキーラの覇権は崩れ、以後その影響力は低下した[17]

政治力のあるタマニー・ホールのトム・フォーリーと親交を結び、捕まると裁判で助けてもらった。

勢力拡大[編集]

1922年、シチリアから戻ったモレロをアドバイザーに招き入れ、リトルイタリーの自前の密輸ギャング団にモレローテラノヴァ組織を組み入れてボスとなった[11][18]。1920年代を通じ酒の密売・上納金で財産を築き、ニューヨークのギャング勢を次々に傘下に加えた。モレロ一家のチロ・テラノヴァ、テラノヴァの血族を通じてガエタノ・レイナなどコルレオーネ系マフィア、ブルックリンではカラブリア系のフランキー・イェール一派やイェールと臨海区利権を共有したパレルモ系のヴィンセント・マンガーノ一派などを取り込み、組織は怒涛の勢いで膨張した[1][19]

裏社会の権威を上げるべくニューヨークの外へ進出した。アメリカ北東部にネットワークを築いたダキーラの傘下のローカルボスにチャレンジするギャングを支援しはじめ、ダキーラと張り合った[2]。クリーブランドマフィアの相談役の地位にいたサルヴァトーレ・トダロに資金援助し、密輸ギャングの総本山だったロナルド一家に反旗を翻させた[6]

1928年7月、イェールがアル・カポネと対立して殺されると、イェールの有力部下でナポリ系のアンソニー・カルファノジョー・アドニスを取り込んだ。ダキーラがイェールの縄張りを乗っ取ろうとしたため、カルファノがマッセリアに助けを求めた[1]

1928年10月、ダキーラがマンハッタンの路上で銃殺され、モレロやアル・ミネオ[注釈 8]と、ダキーラ殺害を首謀したと信じられている[注釈 9][注釈 10]。ミネオをダキーラ一家の後釜ボスに据え、間接支配した。イェールの酒密輸と賭博利権をカルファノに、臨海区の縄張りをミネオに管理させ、ブルックリンに地歩を固めた[1][23]

地元マンハッタンでは、テラノヴァ傘下の非シチリア系ハーレムギャング[注釈 11]、イーストヴィレッジのラッキー・ルチアーノ、密輸ギャングのヴィト・ジェノヴェーゼフランク・コステロ、フルトン魚市場のジョゼフ・ランザらを取り込んだ他、ニュージャージーにも進出し、ウィリー・モレッティやルゲリオ・ボイアルド、ジェラルド・カテナら南イタリア系ギャングを傘下に加えた[24]

カステラマレ派[注釈 12]ジョゼフ・プロファチ勢力を除く全てのニューヨークファミリーを傘下に置き、1928年、ダキーラに代わる「ボスの中のボス」(Capo Di Capi)の称号を得た[1][2][21]。ダキーラ暗殺を批判する保守派もいたが、マフィア人脈の豊富なモレロをニューヨークマフィアのドンの座に担ぎ上げ、保守派の批判をかわした[1][6]

シカゴでは1927年から1928年にかけ、カポネが密輸利権を巡ってシチリア系のジョゼフ・アイエッロ[注釈 13]と争ったが、この時マッセリアが割って入り、カポネを傘下に加えた[27][注釈 14]。シチリア人のアイエッロではなくナポリ系のカポネを公然と支持したことは、アメリカ中のマフィアに衝撃を与え、保守派からは批判された[1]。マッセリアを嫌ったダキーラ派残党の一部がカステラマレ派に接近した[17]

密輸や上納金で巨万の富を蓄え、セントラルパークウエストの高級マンションに移った[21]。鋼鉄製プレートと防弾ガラス付きの、車体の分厚い装甲車のような特注セダンを乗り回した[9]

カステランマレーゼ戦争[編集]

1. カステラマレ派包囲網

マッセリアの次のターゲットは、カステラマレ派だった。1930年前半、シカゴのアイエッロやデトロイトのガスパー・ミラッツォ[注釈 15]などを攻略したが、同盟を拒否された[1][19]

ミラッツォと敵対していたデトロイトのラマーレ派を抱き込むと共に、ニューヨークでは、ブルックリンのカステラマレ派ボスのコラ・シーロ[注釈 16]に圧力を加えた。シーロを誘拐して1万ドルの支払いと引き換えに解放したが、面目をつぶされたシーロはニューヨークを去った[1][12]

アイエッロやミラッツォの背後にいる扇動者と疑ったバッファローのカステラマレ派ボス、ステファノ・マガディーノを呼びつけたが姿を現さなかった為、シーロ一家幹部サルヴァトーレ・マランツァーノを呼び、マガディーノを説き伏せるよう迫ったが、協力を断られた[11][注釈 17][注釈 18]

1930年2月、レイナ一家ボスのガエタノ・レイナを暗殺し、旧友のジョー・ピンゾロを後釜のボスに据えた(副ボスのトミー・ガリアーノはマッセリアに忠誠を誓ったがピンゾロを無視した)[1][26][注釈 19]。レイナが殺された時、マッセリアはルチアーノらと共にマイアミで賭博に興じていた(ルチアーノがヤミ賭博で逮捕された)[32][33][34]

2. 戦争

1930年5月、ラマーレ派と共謀してミラッツォを謀殺した。ミラッツォの死はブルックリンのカステラマレ派を硬化させ、武闘派は報復を唱えた[1][26]。7月、マッセリアはシーロに次ぐ重鎮のヴィト・ボンベントレを配下を使って殺害した[35]。カステラマレ派は強硬派のマランツァーノを新ボスに選び、暗殺チームを組織して報復に出た[1]。この間、マッセリアは全米コーサ・ノストラにカステラマレ派への死の宣告を認めるよう通達し、半ば強引にこれを認めさせていた[注釈 20]

8月、マッセリアの参謀ジュゼッペ・モレロがマランツァーノのガンマン2人に殺害された[26][38][39][21]。9月、ガリアーノは水面下でマランツァーノの支持を取り付けた上で、レイナの後釜ボスだったピンゾロを手下を使って殺害した[1]。10月、マッセリアは、シカゴのアイエッロの暗殺に成功した[1][注釈 21]

3. 戦局転換

1930年11月、マッセリアの参謀アル・ミネオがブロンクスでマランツァーノとガリアーノの合同暗殺チームに狙撃され、用心棒共々即死した[6]。旧ダキーラ派のフランク・スカリーチェがマランツァーノの支持を得てミネオから組織を奪い返した。同じ頃ニュージャージーのマッセリア派ボイアルドがマランツァーノの暗殺チームに撃たれ、重傷を負った。警察の圧力も加わり、マッセリアは心が折れた[12][注釈 22]。マッセリア派はマンパワーでカステラマレ陣営を圧倒していたが、結束力で劣り、離反するギャングが続出した[注釈 23]。マランツァーノは、「カステラマレ人はミラッツォの仇を、パレルモ人はダキーラの仇を取れ」と煽った[21]

12月ボストンでニューヨーク内外の中立マフィアによる和平会議が開かれ、形勢有利だったマランツァーノ側に3度特使が飛び停戦・和解を迫ったが、拒否された[1][42][注釈 24]

1931年初め、カポネの斡旋で停戦にこぎつけた。マッセリアは潜伏し、一説にカルファノの元に隠れた[1]。停戦は長続きせず、同年2月、ハーレムのマッセリア忠誠派ジョゼフ・カターニアがブロンクスで暗殺された。同月、マッセリアが支援していたデトロイトのチェスター・ラマーレが暗殺された[43]

最期[編集]

1931年4月15日昼過ぎ、仲間3人とコニーアイランドのレストランNuova Villa Tammaroに防弾仕様のセダンで乗り付け、奥の部屋に入ってコーヒーを注文し、仲間とトランプを始めた。用心してめったに外に出なかったマッセリアが信頼のおける仲間3人を従えて店に現れたが、その3人は全く信頼のおける輩ではなかった。接客したアンナ・タマロ(店オーナーの義母)が魚グリルの注文をうけて魚を買いに外に出ていた間に、マッセリアは背後から頭や背中など計6発撃たれ、即死した[7][44][45][46][注釈 25]

目撃証言では午後3時頃、レストラン前に1台の車が停車して洒落た身なりの2人が降りてレストランに入って行った。レストランの中を通り抜けて奥の部屋の方に消え、その直後に銃声が聞こえた。銃声が止んだ後外に出てきた2人は慌てる様子もなく同じ車で去った[45][47]。警察が駆けつけるとタマロが腰をかがめてマッセリアの血だらけの遺体を覗き込んでいた.[48]。仲間3人は全員オーバーコートと帽子を部屋に残して消えていた[49]。レストランは程なく50人の警官で埋め尽くされたが、ひょっこり現れた店オーナーのジェラルド・スカルパトは警察の質問に、「外で散歩していたので何も知らない」と答えた[50][注釈 26]

レストランの脇に拳銃2丁、数軒先で乗り捨てられた車に拳銃3丁が見つかった[52]。警察は主に消えた3人の行方を追い、マッセリアと競馬ビジネスをしていたことが知られていたカルファノやマッセリアの相談役のサヴェリオ・ポラシア[注釈 27]らを尋問した[注釈 28][53][49][54]。暗殺の数時間前にレストラン近くの路上にスカルパトと一緒にカルファノがいたことが後日判明した[7][51]。警察の捜査は行き詰まり、犯人の検挙に至らなかった。

1931年4月20日に行われた葬儀パレードは、150人の刑事と50人の警官から成る総勢200人の警備チームでガードされ、シルバーとブロンズの豪勢な棺を見るために1万人の見物人が集まった。涙を流す者はいなかった[55]。クイーンズのカルヴァリー墓地に埋葬された。

未解決殺人事件[編集]

殺害実行犯は諸説あるが、マッセリアに見切りをつけた部下の裏切りとするのが定説である。1930年11月以降、警察の圧力から部下に銃の使用を禁じたが、これが部下との間に軋轢を生み、部下の離反を促したとも言われた[12][42]。後にマッセリアの後釜ボスになったルチアーノが首謀したと広く信じられたが、具体的な経緯は不明である[注釈 29][注釈 30]ヴィト・ジェノヴェーゼが暗殺プロットを作ったとも言われた[注釈 31]

マッセリアの死後、2人のカラブリア系ギャング、ジョン・ジウストラ、カルメロ・リコンティが相次いで不審死を遂げた[注釈 32]。さらに翌年、店主スカルパトとマッセリアの相談役ポラシアが不審死を遂げ、警察はこれら4人の死をマッセリアの死に関連付けた[57][注釈 33]

1940年のマーダー・インクの捜査ファイルにマッセリア殺害犯に言及したメモがあった(「ポラシアと数人がマッセリアと一緒にいて、ジウストラがマッセリアの背後からレストランに入りマッセリアを撃った」[53][注釈 34]。後年、このメモ内容を一部裏付けるような証言がブルックリン臨海区の組合関係者から出た(「ジウストラが組織を乗っ取ろうとジョー・ザ・ボスを殺したが、マンガーノやアナスタシアらに裏切られ、殺された」)[注釈 35]

マフィア界の風雲児[編集]

いつマフィアになったか、どこの組織に入ったか不明で、出所してから禁酒法施行までの間にモレロ一家に入った、または1910年代後半に独自のギャング団を結成しモレロ一家を継いだとの説がある[1]。モレロ一家をマッセリア一家の前身と見なし、ほぼ同一視する説と、活動テリトリー等の違いに着目して別々の組織だったとする説で見方が分かれる。

シチリア出身だが、パレルモ派やコルレオーネ派などのメインストリームから外れ、血縁上頼りになるマフィアもおらず、派閥的に孤立した。同郷の血族で固めるシチリア流組織組成ができず(又はしたくなかった)、無数の外様ギャングと結びつくことで組織を大きくした。アメリカに渡ったシチリアマフィアがイタリア本土出身ギャングと手を組むのは珍しくなかったが、あくまで外部協力者の扱いだった。マフィアは最初にシチリアの自分の故郷の者と徒党を組み、次にシチリア各地の人間と徒党を組み、その結果、組織がシチリア人で占められ、その中核は同郷者・血縁者だった。マッセリアはシチリア人かどうかに関係なく、有力なギャングなら組織に加えた[9][21]。ナポリ系のカポネをマフィアに入れたことで批判を浴びたが、他のファミリーも結局マッセリアの動きに追随した。1920年代後半、非シチリア系の組織流入が「解禁」になるが、マッセリアがこの流れを作った[1]

マイアミへの賭博旅行の際はアイルランド系やユダヤ系の仲間を引き連れていた。シチリア保守派の手前、組織にこそ入れなかったが、部下たちが他国系ギャングと付き合うのを禁止しなかった[注釈 36]。マッセリアにとって人と人を結びつけるのは家柄や地縁ではなく、金やビジネスだったが、世間では長らく「口ひげピート」(閉鎖的な旧世代ボス)のレッテルを貼られた[21][60]

ボスの中のボス[編集]

コソ泥専門のストリートギャングからニューヨークマフィアの頂点に、わずか10年足らずで登り詰めた。1928年12月、クリーヴランドで開かれた全米マフィア会議(通称クリーヴランド会議)で、同年10月に殺されたダキーラに代わる新しい「ボスの中のボス」にマッセリアが選ばれたとする説がある[61][注釈 37]

ライバルは丸ごと呑みこむか排除した。「敵の敵は味方」の論理で、ライバルと対立する勢力を目ざとく見つけた。シチリア保守派と敵対していたカポネはニューヨークのボスと提携することで戦略的に有利なポジションを得た[19]。ライバルボスを排除すると、後釜にそのボスと同じ派閥か近い立場の者を傀儡ボスに据えて間接的に支配する手法をとった。ダキーラの後釜にミネオ、レイナの後釜にピンゾロ、コラ・シーロの後釜にジョーパリッノ、という具合であった。

とどまることを知らない拡大志向は互いに顔を知らない各地のギャングを結びつけた。マンハッタン、ブルックリン、ブロンクス、ニュージャージーのギャングを統合し、ニューヨーク五大ファミリーの中で唯一無二の勢力を作り出した(現ジェノヴェーゼ一家[1]。反面、結束力はシチリア人主体の従来のファミリーに劣り、栄光の座は短命に終わった。マッセリア亡き後、ジェノヴェーゼ、コステロ、アドニスら血縁関係もなく出自もばらばらな非シチリア系ギャングが組織上部を占め、マッセリアの組織構成の特徴を残した[2]

エピソード[編集]

  • 大柄ではなかったが、がっしりした体格で敏捷だった[7]
  • 若い頃テイラーで働いていたのでスーツとハットの着こなしはお手の物だった。警察に捕まる時いつもその格好だった[21]
  • 若い頃の強盗仲間3人のうち2人は皮肉なことに後年敵対するカステラマレ派だった[1][注釈 38]
  • 「自分は金持ちじゃない」。1913年の強盗裁判で証言台に立ち、犯罪動機を聞かれたマッセリアの言葉。生活は貧乏で、姉夫婦の家に間借りして住んでいた[7]。10年後、警察に大富豪と呼ばれた。
  • マッセリア暗殺には有名なギャング神話がある。ルチアーノがマッセリアをレストランの食事に誘い、2人は食事を楽しんだ後トランプに興じ、ルチアーノがトイレに行っているすきにベンジャミン・シーゲルアルバート・アナスタシアヴィト・ジェノヴェーゼジョー・アドニスの4人が現れてマッセリアを射殺したというもの[14][15][48]。検死結果ではマッセリアの胃は空っぽで、一切食事をとっていなかった[7][44]。伝説では、事件後ルチアーノが警察の尋問に「自分はトイレが長い」と言い訳をしたことになっているが、ルチアーノが参考人として公式に警察に尋問された記録は存在しない[7]。ルチアーノが暗殺現場にいたかどうかは不明な上、目撃者はレストランに入った殺し屋と見られる人物は2人だけだったと証言した[45]
  • スペードのエースを手に握りしめて倒れている遺体写真が有名になったが、死体検分前に現場に到着した記者がマッセリアの手にカードを挟んで撮った[48][66]
  • カステランマレーゼ戦争に関する当事者の証言の多くはカステラマレ派からで、その当事者証言をもとに構成される歴史は必然的にマッセリア=「悪」のイメージが基調となった。マッセリアが戦争を始めたきっかけやカステラマレ派に死の宣告を出した経緯は、カステラマレ派が勝者となった時点で歴史の闇に葬られてしまったとの指摘がある[67]

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ バワリーの一角にあった電動防犯システム完備の要塞のような質屋に、30万ドル相当のダイヤを盗みに行った。梯子をかけて壁を登り、ドリルで煉瓦に穴をあけて中に入った。 パトロール中の警官が壁にたてかけてあったブランケットを不審に思い、発覚した。建物を去ろうとしたマッセリアを引きとめたとき、仲間3人はレインコートに煉瓦の灰を被っていたが、マッセリアはダービーハットにスーツという出で立ちだった[7]
  2. ^ リトルイタリーのほぼ中心(ケンモアストリートとブルームストリートとグランドストリートに囲まれたエリア)に位置し、夜9時から深夜1時まで開かれ、イギリスから密輸されたライ麦ウイスキー、カナダ産スコッチやライ、バーボン、国内産ゴードンのジン、イタリアのVermouth、フランス産vermouth、Dubonnetなどのケースが取引された[10]
  3. ^ ナポリ近郊出身、1893年渡米。多くの逮捕歴。リトルイタリー界隈を支配したギャングリーダーで、のち売春業を経営した。マッセリアの他ルチアーノ、マイク・ミランダら多くのギャングと付き合いがあった。
  4. ^ 一説に、ダキーラが酒の稼ぎを独占したマッセリアに分け前を求めたことが発端だったとされる[10]
  5. ^ モレロはダキーラにマフィア会議(コミッション)で死の宣告を受け、一時シチリアに退避するなど潜伏していた。勢いのあるマッセリアと組むことでダキーラに対抗した[6][11]
  6. ^ 白昼、繁華街の一角で起こり、多くの人間が目撃した。目撃証言によると、8月11日昼11時45分頃、ヴァレンティは5,6人の随行者といてフレンドリーにみえたが、突然驚いたように走りだし、途中で銃を取り出した。何人かが彼を追いかけ、彼がタクシーに乗ろうと足を踏み台に乗せた時、胸に被弾した。ヴァレンティにフレンドリーだった1人か2人かが別の方向に逃げた。複数のガンマンの中で、1人は腰をどっしり据えて、丁寧に一発一発狙って撃っていた。全部で15-20発の発砲があり、流れ弾に当たった道路清掃員と8歳の少女が重傷を負った[16]
  7. ^ ラッキー・ルチアーノがヴァレンティを銃殺したとする有名な言い伝えがあるが、この時期にマッセリアの部下だったかどうか不明。
  8. ^ パレルモ系マフィアリーダーの1人で、1910年代ダキーラ派とモレロ派の抗争でモレロ側に付き、ダキーラと敵対した過去がある。
  9. ^ かかりつけの医者を訪れた時、車が異常なのに気づき車のボンネットを開けた。3人が近づきダキーラに声をかけた。ダキーラはボンネットから顔を上げるとしばらく会話していたが、突然3人は銃を抜いて一斉に発砲し、5発被弾した[20]
  10. ^ ダキーラは路上で口論の末殺された。マッセリア一味に殺されたかどうかは不明だが[21]、裏社会はマッセリアの仕業と信じた(ボナンノ、ニコラ・ジェンタイル等、内部関係者の見方)[21][22]
  11. ^ 大半がイタリア本土南部出身で、マイク・コッポラ、フランク・アマト、ジョゼフ・ラオ、フランク・リヴォーシ、カターニア兄弟などがいた。カステランマレーゼ戦争ではマッセリア陣営の最もアクティブな実働部隊になった。マッセリア亡き後ルチアーノファミリーに吸収された。
  12. ^ シチリア島カステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身者を中心とした派閥で、ニューヨークでは北ブルックリンのウィリアムズバーグを拠点にし、コラ・シーロが長年ボスを務めた。同派はアメリカ北東部各地に分散し、シチリアマフィアの中でも特に結束力の強いことで知られ、危急時は互いに連携した[18]
  13. ^ パレルモ近郊出身。カポネに組した元仲間のアントニオ・ロンバルドを葬り、1930年までにシカゴのシチリアマフィアのトップに立った。ミラッツォやマガディーノと緊密で、カステラマレ派の一員[25][26]。マッセリアとの抗争でマランツァーノを支援。
  14. ^ カポネはマッセリアの認証の元、正式に全米コーサ・ノストラ(マフィア)のメンバーになった[28][21]
  15. ^ カステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身。1930年2月、デトロイトマフィアのドンのサルヴァトーレ・カタラノットが病死し、その権力の座を巡りチェスター・ラマーレと争った[26]。マッセリアからアイエッロを裏切るよう説得された。
  16. ^ 本名ニコラ・シーロ。シチリア島トラパニ近郊ロッカメナ出身。1900年代ブルックリンのウィリアムズバーグでシチリアマフィアが徒党を結成した時のオリジナルメンバー。カステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身のメンバーを多く抱え、モレロ一家に継ぐ第2の勢力を形成した。
  17. ^ 会合に同席したジョゼフ・ボナンノの回想によれば、マランツァーノを前に延々と話を続けたのはモレロで、マッセリアは傍らでモレロの話を静かに聞いていたといい、その様子から2人の絆が非常に強いと感じたという[29]
  18. ^ モレロとマランツァーノは過去パレルモで既に面識があったという(ボナンノ自伝)[30]
  19. ^ レイナ暗殺の首謀者は不明だが、ガリアーノはマッセリアの仕業と信じた。ガリアーノ=マランツァーノ組織の暗殺チームに所属したジョゼフ・ヴァラキは、ガリアーノがマッセリアと全力で戦うのはレイナの仇を取るためとガリアーノ派から聞かされた[31]
  20. ^ ニコラ・ジェンタイルの証言に基づくが、死の宣告を出した正確な時期は不明[36]。ジョゼフ・ヴァラキは、戦争後のマランツァーノの演説に言及し、似た証言を残している。「マランツァーノは、彼(マッセリア)がカステラマレ出身の者に理由なく死の宣告を下したいきさつに触れ、同じ目にあった5,6人のメンバーやボスの名前を挙げた」[37]
  21. ^ カポネの脅迫を受け一時バッファローに避難していたが、マガディーノやマランツァーノの制止にも関わらずシカゴに戻った直後に殺された[40]
  22. ^ モレロ亡き後、ミネオを参謀に据えたが、ミネオも殺され、一説に保守派をつなぎとめておく裏社会の権威を失ったことが戦意喪失の理由とされる[1]
  23. ^ カルロ・ガンビーノなどが所属したダキーラファミリーの最大派閥マソット派がマッセリアから離反した[41]
  24. ^ マフィア一般会議、マフィア総会(General Assembly)などと呼ばれ、マッセリアから「ボスの中のボス」の座をはく奪し、一時的にボストンマフィアのガスパール・メッシーナがその称号を継ぐことが決められた。次に両サイドに停戦を働きかけるコミッションが立ち上げられ、マランツァーノを相手に停戦・和解交渉することが決められて実行されたが、コミッションに強制力はなく、最終的な判断は当事者のファミリーボスに委ねられた。ガスパール・メッシーナ、旧ダキーラ派ジョゼフ・トライナ、ニコラ・ジェンタイル、他シカゴやピッツバーグから参集した。中立を期すため抗争中の当事者メンバーは会議から排除された[42]
  25. ^ 一説に、敵を一気にやっつける良いアイデアがあると説得され、そのアイデア提供者と会うためにレストランに来たとも言われた。
  26. ^ 後になって暗殺前に偶然近くを通った知人の証言により、暗殺を事前に知っていたことが判明した(「ここで何をしている?早く帰れ。ここにいたことは誰にも話すな」と告げられた)[51]
  27. ^ シチリア島チェファルー出身のマフィアでダキーラの元仲間。イェールとも親交があった。ダキーラを裏切りマッセリアの相談役になった[53]
  28. ^ ポラシアは、レストランで一緒にいただろうと警察に聞かれ、猛烈な勢いで否定した。アル・ミネオがマンション外で射殺された時ポラシアはマッセリアとそのマンションにいたと警察は見ていた。
  29. ^ マフィア内部関係者の証言ではほぼ例外なくルチアーノが首謀したとするが、中立派かマランツァーノ側の証言に限られ、マッセリア派の内部証言はない[7]
  30. ^ ルチアーノは、カステランマレーゼ戦争がピークだった1930年8月から9月に、アイルランド系ギャングのレッグス・ダイアモンドと密輸商売の開拓のためドイツへ船旅していた[34][56]。戦争に関連付けられるような痕跡を残していない事から、抗争関与を疑問視する説もある。
  31. ^ 元刑事で市警の下請け仕事をしていた探偵の見方[7]
  32. ^ ジウストラは同年5月に銃殺体で、リコンティは同7月に刺殺体で発見された。2人とも元イェール派で、ヴィンセント・マンガーノや同郷のアルバート・アナスタシアと共にブルックリン臨海区の組合を支配していた[7]
  33. ^ スカルパトは表はレストラン経営者だが裏では賭博ギャングで、1932年9月に袋詰めの拷問遺体で車から発見された[50]。スカルパトはマッセリア殺しで警察に尋問された時、「万一のため」自分の指紋をとるよう要求した。事件後イタリアに帰国し、1932年6月に米国に戻った[7]。ポラシアは1932年家族を残してシカゴに旅行に出かけ、そのまま行方不明になった(殺された)[7][12]。一説にヴィト・ジェノヴェーゼがポラシアをシカゴに連れて行った(ニコラ・ジェンタイルの回想録)[53]
  34. ^ マーダーインクの捜査ファイルにあったメモだが、元はニューヨーク市警の刑事の情報[58]
  35. ^ 1952年、ブルックリン犯罪調査で証言台に立った臨海組合員の証言[59]
  36. ^ 例えばルチアーノは1920年半ばマッセリアの組織に出入りしたが、同時にダイアモンドギャングの一員でもあった[34]
  37. ^ 1928年12月5日、スタットラーホテルで23人のマフィアが警察に拘束された。全員シチリア人で、ニューヨークからマンガーノ、プロファチ、ジョゼフ・トライナら主にパレルモ系マフィアが参加した。捕捉を逃れたメンバーもいた。一般的に、この会議の議題はクリーヴランド地元のコーンシュガー戦争関係か、ニューヨークではイェールやダキーラ亡き後のブルックリンの縄張り問題の処理とされる。会議のホストは地元クリーヴランドのポレロ兄弟が務めた[62][63]。ポレロ兄弟はマッセリアが支援していたトダロと共に、1927年ロナルド一家のVIPを葬り、クリーヴランドの覇権を奪っていた[64]
  38. ^ 泥棒チームのラッフィーノ兄弟は、ウィリアムズバーグのコラ・シーロ一家のメンバーで、うちサルヴァトーレ・ラッフィーノはハーレムのモレロ一家のロモンテの酒場でバーテンをしていた[65]

出典[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x Biography of Giuseppe Masseria Mafia Membership Charts
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  4. ^ Hortis, Mob and the City, Notes of CHAPTER 2: PROHIBITION AND THE RISE OF THE SICILIANS, 4. Richard Warner and Mike Tona discovered the birth certificate of Giuseppe Masseria, January 17, 1886, Utliziale dello Stato Civile del commune di Menfi, IT, cited in Richard N. Warner, “On the Trail of Giuseppe ‘Joe the Boss’ Masseria,” Informer: The History of American Crime and Law Enforcement (February 2011): 56–58
  5. ^ a b c Giuseppe Masseria Gang Rule
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  9. ^ a b c d e The Mob And The City, Chapter2 Prohibition and the Rise of Sicilians, C.Alexander Hortis
  10. ^ a b c Mafias on the Move: How Organized Crime Conquers New Territories: Federico Varese, P.116 - P. 118
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  12. ^ a b c d e DiCarlo Chapter Summaries - 17.New Order
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]