レジナルド・マニンガム=ブラー (初代ディルホーン子爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

初代ディルホーン子爵レジナルド・エドワード・マニンガム=ブラー英語: Reginald Edward Manningham-Buller, 1st Viscount Dilhorne, PC, QC1905年8月1日 - 1980年9月7日)は、イギリスの政治家、貴族。

経歴[編集]

1905年8月1日保守党庶民院議員を務める第3代準男爵マーヴィン・マニンガム=ブラー英語版とその妻ライラ(第3代チェシャム男爵チャールズ・キャヴェンディッシュ英語版の娘)の間の長男として生まれる[1]

イートン・カレッジを経てオックスフォード大学モードリン・カレッジへ進学。インナー・テンプルでも学び、1929年に法廷弁護士資格を取得した[2]

1943年から1950年にかけてダヴェントリー選挙区英語版から選出されて保守党庶民院議員を務める。1950年から1962年にかけては南ノーザンプトンシャー選挙区英語版から選出される。1946年には勅選弁護士英語版となる[2]

第2次チャーチル内閣からダグラス=ヒューム内閣までの保守党政権で法務次官英語版(在職1951年-1954年)、法務総裁(在職1954年-1962年)、大法官(在職1962年1-1964年)を務めた。大法官就任に際して連合王国貴族爵位ノーザンプトン州におけるトウスターのディルホーン男爵に叙せられ、貴族院議員に転じた。1964年にはノーザンプトン州におけるグリーンズのノートンのディルホーン子爵に叙せられた[2][3]

1980年9月7日スコットランドノイダート英語版で死去[2]

爵位[編集]

家族[編集]

1930年にメアリー・リリアン・リンジー(第27代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジー英語版の娘)と結婚。彼女との間に以下の1男3女を儲ける[2]

出典[編集]

  1. ^ Lundy, Darryl. “Lt.-Col. Sir Mervyn Edward Manningham-Buller, 3rd Bt.” (英語). thepeerage.com. 2015年8月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e Lundy, Darryl. “Reginald Edward Manningham-Buller, 1st Viscount Dilhorne” (英語). thepeerage.com. 2015年8月10日閲覧。
  3. ^ UK Parliament. “Mr Reginald Manningham-Buller” (英語). HANSARD 1803–2005. 2015年8月10日閲覧。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220 

外部リンク[編集]

グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会
先代
エドワード・フィッツロイ英語版
ダヴェントリー選挙区英語版
選出庶民院議員

1943年英語版1950年
選挙区廃止
新設 南ノーザンプトンシャー選挙区英語版
選出庶民院議員

1950年1962年英語版
次代
アーサー・ジョン英語版
司法職
先代
リン・アングード・トマス英語版
法務次官英語版
1951年 – 1954年
次代
サー・ハリー・ハイルトン=フォスター英語版
先代
サー・ライオネル・ヒールド英語版
法務総裁
1954年 – 1962年
次代
サー・ジョン・ホブソン英語版
公職
先代
初代キルミュア子爵
大法官
1962年 – 1964年
次代
ガーディナー男爵英語版
イギリスの爵位
爵位創設 初代ディルホーン子爵
1964年 – 1980年
次代
ジョン・マニンガム=ブラー英語版
爵位創設 初代ディルホーン男爵
1962年 – 1980年
イギリスの準男爵
先代
マーヴィン・マニンガム=ブラー英語版
第4代マニンガム=ブラー準男爵
(ディルホーンの) 
1956年 – 1980年
次代
ジョン・マニンガム=ブラー英語版