ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォール

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聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォール
Saint Louis de Montfort
古典聖母神学者、 司祭、宣教師、
生誕 1673年1月31日
モンフォール・シュル・ム(Montfort-sur-Meu), フランス
死没 1716年4月28日(満43歳没)
サン=ローラン=シュル=セーヴル(Saint-Laurent-sur-Sèvre)
崇敬する教派 カトリック教会
列福日 1888年
列福決定者 教皇レオ13世
列聖日 1947年
列聖決定者 教皇ピウス12世
記念日 4月28日

ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォール(フランス語Louis-Marie Grignion de Montfort)またはグリニョンド・モンフォールとは、著作・修道院及び学校の創立・福音伝道師など様々な活動を行ったフランスのローマ・カトリック教会司祭である。モンフォールは、聴罪司祭や宣教師としてフランス各地を徒歩で巡り、その時代に福音伝道ではことに知られている[1]

モンフォールは福音伝道をするだけでなく、時間を見つけては、たくさんの著作を書いている。それはカトリックの古典書となり、幾人かの教皇に影響を与えた。モンフォールは特に聖母マリアへの深い崇敬、及びロザリオの祈りの実践で知られている[1]

モンフォールは、聖母神学の分野でその初期に著作活動を行った一人とされている。彼の著作には「聖母の秘密(Secret of Mary)」や「聖母マリアへの誠の信心(True Devotion to Mary)」[2]があるが、モンフォールの聖母マリアへの祈祷でもっとも著名なものがその中に収録されている[1]

モンフォールは「マリア宣教会」「英知修道女会」など修道会の創立や、貧しい少年少女のための無料学校の設立も手掛けた[1]

モンフォールは教皇ピウス12世によって1947年7月20日列聖された。[3] 刻像は、ジャコモ・パリにより作成され、サン・ピエトロ大聖堂に設置されている[1]

幼少期[編集]

モンフォールの生地

ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールは、フランスのモンフォール・シュル・ム(Montfort-sur-Meu)で、ジャン・バティスト(Jean-Baptiste )、ジャンヌ・ロベール・グリニョン(Jeanne Robert Grignion)夫妻の18人の子供の一番上の子供として生まれた。彼の父親は公証人である。ルイは、幼年期のほとんどをモンフォールから数キロ離れたイファンディックで過ごした。そこはルイの父親が買った農地であった。ルイが12歳の時、レンヌにあるイエズス会の聖トマス・ベケット大学に入学した。レンヌではルイの叔父が教区司祭をしていた[4]

モンフォールはレンヌの聖トマス大学で通常のスクーリングを終えると、大学に残って哲学と論理学の勉強を始めた。 地元の司祭・ジュリアン・ビギ師(the Abbé Julien Bellier)より、この司祭が巡回宣教師として生きた人生について聞くと、モンフォールは貧困者の中で使命を果たす気になった。そして他の司祭たちの導きにより、彼は聖母マリアに対し強い崇敬を抱き始めた。

モンフォールはある人物の援助により、パリのサン=シュルピス教会の有名なセミナーで勉強する機会を与えられた。[5]モンフォールは、1693年の終わり近くにパリに着いたが、自分の支援者から十分な支援金を提供してもらえないことに気付いたので、下宿生活を送った。その後2年弱、モンフォールは重病にかかり、入院生活を余儀なくされた。そしてモンフォールは入院生活と流血に耐え抜いた。

モンフォールは、入院生活から解放されると、驚いたことに自分がリトルサン・シュルピス(Little Saint-Sulpice)に入る手続きがなされているのに気が付いた。サン・シュルピスを設立したジャン=ジャック・オリエ(Jean-Jacques Olier)は、霊性フランス学校英語版として知られる事柄について、その指導的唱導者たちの一人だった。モンフォールは1695年にその学校に入学した。

モンフォールはサン・シュルピスの図書館司書となった。このことにより、モンフォールはこの学校で、霊性、特にキリスト者の生涯においての聖母マリアの位置づけについて、多くの学説や著作を使って学習する機会を得た。このようにして、後にモンフォールは、聖なるロザリオに焦点を当て、多くの評判を呼んだ著作「ロザリオの秘密英語版」を世に出すこととなった。

天使たちへの崇敬[編集]

モンフォールは、ちょうどパリで神学生だった時、天使たちへの崇敬について、知られる存在だった。モンフォールは同級生たちに、自分たちの守護天使に対して、もっと尊敬の念を持ち、敏感に接するよう訴えた。モンフォールは手紙を出す時の文末の結びで、手紙を当てた人の守護天使へ「あなたの守護天使に、畏敬を持ってご挨拶いたします。」と書いていた。 モンフォールは後にカトリック教会の司祭となって初めて派遣された先のナント(Nantes)市でも、習慣的に天使像を見たら崇敬の念をもって挨拶していた。モンフォールは初めて入った村や街でも、これを繰り返して行った[6]

モンフォールが天使に対して崇敬し、熱心に祈る理由の一つとして、これがモンフォールが学んだ欠かせないものであり、モンフォールの修養の一部であることが挙げられる。モンフォールが在籍した大学でイエズス会修道士である教師たちは、天使への崇敬の祈りを広めようと情熱を燃やしていることで知られていた。モンフォールは在籍した神学校のシュピルス会修道士が指導する授業で、ベリュル(Bérulle)枢機卿とオリエ(Olier)枢機卿の思想を学んだ。この両者は天使に対して深く崇敬していた。その上、授業の中で触れた17、18世紀の天使に関する祈りの手引き、文献の数は、相当数に上るものだった[6]

司祭から伝道者へ[編集]

19世紀のサン・シュルピス。モンフォールが若い頃、司祭になるためにここで学んだ。

モンフォールは、1700年7月に叙階を受けて司祭となり、[5] ナントに派遣された。この時期、モンフォールの手紙には、彼が福音伝道を行いたいと思っていたにもかかわらず、その機会がないことに不満を持っていたことが書かれている。モンフォールは様々な選択肢を考えていたが、たとえ隠者となっても、貧しい人々へ福音を伝道したいと思う気持ちは増していった。1700年11月に、モンフォールはドミニコ会の世俗会員となり、ロザリオを広めることだけでなく、ロザリオを祈るフラタニティの形も広めることについて、許可を求めた[7]。モンフォールは、聖母マリアの加護のもとに、聖母規範として黙想し、伝道する使命を持った司祭たちの小さな集団を作ることを考えていた。これは最終的に「マリア宣教会」の設立に結び付いていった。モンフォールはポワチエの病院の専属司祭に任命され、そこで福者マリー・ルイ・トリシェ(Bl.Marie Louise Trichet)に始めて会っている。この出会いは、福者マリー・ルイが34年に渡って貧しい人々を世話するきっかけとなった。

モンフォールは自分がすべきことをローマ教皇クレメンス11世に尋ねるため、ローマへの巡礼の旅に出発した。教皇はルイが神から与えられた本当の使命について認識しており、モンフォールがフランスですべきことはたくさんあると伝え、モンフォールを送り返した[8]。モンフォールはローマからの巡礼から戻ると、モン・サン=ミシェル修道院で黙想を始めた。そしてモンフォールは、神のために魂に打ち勝つように恵みをもらうため、神の恵みのうちにいることを確かめるため、悪魔や罪と戦うため、大天使聖ミカエルに祈った[6]この黙想によって、モンフォールは考え、瞑想し、そして著作をするための機会を得た。 数年の間、モンフォールはブルターニュからナントまで、福音伝道を行った。伝道を繰り返すうちにモンフォールの評判は上がり、「モンフォートから来た良い神父」として知られた。ポンシャトー(Pontchateau)では、何百人もの人々がモンフォールの説教に魅了され、ポンシャトーの巨大なゴルゴタの丘のモニュメントが建設された。これはモンフォールの発案による。しかしながら、モンフォールがこの場所を祝福しようとした直前、ジャンセニスム の学校の一員から影響を受けたフランス国王の命令により、ここは破壊される運命にあるという話を司教が聞いたため、司教は、 ここを祝福することを禁じた。この知らせを聞いたモンフォールは、「神の祝福」と単に述べたという話がある[4]

晩年[編集]

マリー・ルイ・トリシェと共にいる聖モンフォールの御絵

ナントを去ったルイ・マリーは、数年間大変いそがしい思いをした。ルイは絶えず福音伝道の仕事に携わっており、いつも徒歩で街から街へと旅した。また、ルイは著作を書く時間も何とか見つけ、「聖母マリアへのまことの信心」、[9][10] 「聖母の秘密」[11]、「至聖なる ロザリオの感嘆すべき秘密」を書いた。また修道院については、「マリア宣教会」「英知修道女会」の会則 を執筆、その他にも多数の讃美歌を手がけた。モンフォールが「聖母マリアへのまことの信心」を執筆するその直前に、彼は聖ドミニコ会の世俗会員となった[8]。モンフォールが行った福音伝道はとても印象強く各地で受け入れられた。特にヴァンデ県においてはそうだった。

情熱的なモンフォールの福音伝道を奇妙だと思う人々もおり、一度は毒を盛られたこともあった[4] 。この毒盛り事件は命取りにはならなかったが、これが原因で、モンフォールの健康は悪化した。しかしながら、モンフォールは福音宣教を続け、それを引き留めることはだれにもできなかった。モンフォールは貧しい少年少女のための無料学校を設立する事業も行った。

英知修道女会[編集]

ラ・ロシェルの司教は時々モンフォールに強く印象付けられ、モンフォールを招待してラ・ロッシェルに学校を開くようにと頼んだ。モンフォールはポワチエで総合病院を開いていたマリー・ルイ・トリシェに協力を依頼した。マリー・ルイはモンフォールの信奉者であり、モンフォールの手助けができるようにと、ポワチエで⒑年間、彼を待っていた。1715年にマリー・ルイは、カトリーヌ・ブリュネ(Catherine Brunet)と共にポワチエを離れて、ラ・ロッシェルに学校を開いた[1]。その学校は一時期、400名にもなった。

1715年8月22日に、マリー・ルイ・トリシェとカトリーヌ・ブリュネに加えて、ラ・ロッシェルのマリー・ヴァリウ(Marie Valleau) マリー・レニエ(Marie Régnier) らは、ラ・ロッシェルの司教からモンフォールの指導のもとに修道会を開く許可を受けた。この開設式典でモンフォールは修道女たちに「英知修道女会」と名乗り、子供たちの教育や貧しい人たちの世話をするように言った[5] 。この修道女会は世界的な組織に成長した。そして聖パウロ大聖堂がこの会の拠点となり、そこにはモンフォールの像が設置されている。

その死と埋葬[編集]

激務と病魔のためにモンフォールの体は衰弱し、1716年4月にモンフォールはサン=ローラン=シュル=セーヴル(Saint-Laurent-sur-Sèvre)に来て最後の使命を果たすこととした。しかし、モンフォールはこの年の4月28日に病気のために43歳で逝去した。彼は司祭になってまだ16年しかたっていなかった。教区教会には何千人もの人々がモンフォールの葬儀のために集まり、彼の墓標で奇跡が起こった話が即座に出来上がった[1]

脚注[編集]