ヤン・ズヴァルテンディク
ヤン・ズヴァルテンディク(Jan Zwartendijk、1896年7月 ロッテルダム - 1976年 アイントホーフェン)は、第二次世界大戦中にユダヤ人のリトアニアからの逃亡を手助けしたオランダの実業家であり外交官。
第二次世界大戦での活動[編集]
ズヴァルテンディクはリトアニアにあるオランダ企業フィリップスの工場の監督であった。1940年5月、オランダはナチス・ドイツに占領された(「オランダにおける戦い (1940年)」参照)。
1940年6月19日、彼はオランダ亡命政府の非常勤領事でもあった。ズヴァルテンディクの上司は駐ラトビア・オランダ大使のL. P. J. デ・デッカーであった。
1940年6月、リトアニアとラトビア、エストニアはソビエト連邦による軍事侵攻を受けて占領された(「バルト諸国占領を参照)。この時、リトアニアに居住していたユダヤ系オランダ人らはズヴァルテンディクにオランダ領西インドへの査証を発給するよう求めた。デ・デッカーの許可を得て、ズヴァルテンディクは彼らを助けることに同意した。話は広まり、ドイツ占領下のポーランドから逃げ出したユダヤ人もズヴァルテンディクの助けを求めた。
ズヴァルテンディクは、数日の間に、補佐官の助力を得て、ユダヤ人に対し2200枚を超えるオランダ領西インドにあるキュラソー行きの査証を発給した。
その後、亡命者らは日本国領事の杉原千畝に助けを求め、杉原は公式の外交方針に反して彼らに日本の通過査証を発給した。これは多くの亡命者らに対して、リトアニアからシベリア鉄道を経由して極東へ逃れる機会を与えた。
7月16日以降の3週間、ズヴァルテンディクは2400枚以上のキュラソー行きのデ・ファクト査証を書き上げ、ユダヤ人らはさらにそれを書き写した。助かった多くのユダヤ人は彼を「ミスター・フィリップス・ラジオ」としか知らなかった。ソ連がリトアニアを併合した時、ソ連はフィリップス社の事業所とカウナスの大使館および領事館を1940年8月3日に閉鎖した。ズヴァルテンディクは占領下のオランダに戻り、アイントホーフェンにあるフィリップス社の本社で退職まで勤め上げた。彼はこの件に関して口を開かなかったという。
ズヴァルテンディクは1976年に死去した。
表彰[編集]
1996年、イスラエルのエルサレムにある孤児院であり職業訓練校でもあるエルサレム少年の町はアメリカ合衆国ニューヨークのトリビュート・ディナーの席上でズヴァルテンディクを顕彰し、人道上の倫理と価値のためにヤン・ズヴァルテンディク賞を創設すると述べた。この賞は、マニュエル・ケソン大統領およびフィリピンの人々をはじめとして、他のホロコースト期の救済者にも授与された。
1997年にはヤド・ヴァシェムがズヴァルテンディクを「諸国民の中の正義の人」として顕彰した。フィリップス社長のフレデリック・フィリップスも顕彰されている。
2012年9月10日、ズヴァルテンディクは危険を顧みずに命を救ったことでリトアニアにて顕彰された。