マファルダ・デ・サボイア (ポルトガル王妃)

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マファルダ・デ・サボイア
Mafalda de Sabóia
ポルトガル王妃
在位 1146年 - 1157年11月4日

出生 1125年ごろ
サヴォイア伯国
死去 1157/8年11月4日
ポルトガル王国コインブラ
埋葬 ポルトガル王国サンタ・クルース修道院
結婚 1146年
配偶者 ポルトガル王アフォンソ1世
子女 エンリケ
ウラカ
テレサ
マファルダ
サンシュ1世
ジョアン
サンシャ
家名 サヴォイア家
父親 サヴォイア伯アメデーオ3世
母親 マオー・ダルボン
宗教 ローマ・カトリック
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マファルダ・デ・サボイア(Mafalda de Sabóia, 1125年ごろ[1] - 1157/8年11月4日[2])は、ポルトガルアフォンソ1世の王妃。サヴォイア伯アメデーオ3世の娘。名はマティルデ(Matilde)とも。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

マファルダはサヴォイア伯アメデーオ3世とマオー・ダルボン(アルボン伯ギーニュ4世の妹)の次女または三女である[1]。叔母の一人であるアデル・ド・サヴォワフランス王ルイ6世の王妃となり、祖母の兄はローマ教皇カリストゥス2世(在位:1119年 - 1124年)であった[3]

結婚の経緯[編集]

父アメデーオ3世は第2回十字軍に参加したが、これがマフォルダが初代ポルトガル王の王妃として選ばれた理由の一つであったとみられる。このような同盟は、ポルトガルの領土からムーア人を追放することに貢献し、レオン王国の影響の外から妃を選ぶことにより、新王の独立性を示すことにもなった[4]。また、近親婚を避けるため、近隣のイベリアの王国から王女を選ぶことができなかった可能性もある[5]。またこの結婚は、1143年のサモラ条約の立会人の1人であったイベリア半島の教皇特使グイド・デ・ヴィーコから提案された可能性もある[4]

王妃として[編集]

マファルダは1146年5月23日に、以前マファルダの義母テレサ・デ・レオンクリュニー修道院に対し行った寄進を承認した際に最初に夫とともに確認される[6]。マファルダはシトー会の支援に非常に熱心で、ギマランイスにコスタ修道院を創建し、カナヴェゼスに巡礼者、貧しい人々、病人のための病院/宿泊所を設立した[6]。マファルダは、この病院が常に清潔に保たれ、良質で清潔なベッドが備え付けられ、施設に入院している患者がそこで亡くなった場合、その魂を救うため3回のミサが行われることを遺言で取り決めた[6]

ウォルター・マップは作品『宮廷人の閑話』の中で、「現在のポルトガル王」、これはほぼ間違いなくアフォンソのことであるが、見当違いの嫉妬から妊娠中の妻を殺害するよう邪悪な助言者に説得されたと記している。ただし、この記述は他の資料では確認されず、一般に受け入れられていない[7]

死と埋葬[編集]

マファルダは1157年または1158年にコインブラにおいて死去し[注釈 1]サンタ・クルース修道院に埋葬された。夫はマファルダの死から27年後に死去し、同修道院に埋葬された[11]

結婚と子女[編集]

Annales D. Alfonsi Portugallensium Regis』には1145年にマファルダとアフォンソ1世の結婚式が行われたと記されており、少なくとも最初に特許状に夫妻で確認される1146年5月より前にアフォンソと結婚したことは確実である。歴史家ジョーゼ・マットーゾは別の資料『Noticia sobre a Conquista de Santarém(サンタレンの占領に関するニュース)』に、結婚から1年も経たない1147年5月15日にサンタレンの町が占領されたと記されていることを示している。当時、四旬節の間に結婚式を行うことができなかったため、マットーゾは結婚が1146年の3月または4月、おそらくその年の3月31日の復活祭の日曜日に行われた可能性があると示している[12]。アフォンソ1世は38歳位、マファルダは21歳位であった。2人は7子をもうけたが、成人したのはウラカ、テレサおよびサンシュの3子であった[11]

注釈[編集]

  1. ^ マットーゾは1157年をマファルダの没年としている[8]。ポルトガルの歴史家ラ・フィガニエールは、マファルダがまだ1158年に生きていたことを証明する文書に基づいて、同じ日であるがその1年後であるとしている[9]。ラ・フィガニエールが示している1158年付けのトッレ・ド・トンボに保管されている文書は、アフォンソ1世とその妃によるGuilherme de cornibusへのアトウギア教区の寄進について記されており、その文書においてアフォンソは「妻のマファルダ王妃、サヴォイアとモーリエンヌの伯爵の娘と共に」(confirms cum uxore mea Regina domna Mahalda filia comitis Amadei (sic) et de Moriana)承認している[10]

脚注[編集]

  1. ^ a b Rodrigues Oliveira 2010, p. 67.
  2. ^ a b Mattoso 2014, p. 227.
  3. ^ Rodrigues Oliveira 2010, p. 69.
  4. ^ a b Rodrigues Oliveira 2010, pp. 67–68.
  5. ^ a b Rodrigues Oliveira 2010, p. 80.
  6. ^ a b c Rodrigues Oliveira 2010, p. 75.
  7. ^ Mattoso 2014, pp. 224–225.
  8. ^ Mattoso 2014, p. 223.
  9. ^ Rodrigues Oliveira 2010, p. 612, n. 33.
  10. ^ La Figanière 1859, p. 231.
  11. ^ a b Rodrigues Oliveira 2010, p. 77.
  12. ^ Mattoso 2014, p. 220.
  13. ^ a b c Caetano de Souza 1735, p. 60.
  14. ^ a b c d e Rodrigues Oliveira 2010, p. 71.
  15. ^ a b c d e f g h Mattoso 2014, p. 226.
  16. ^ a b Rodrigues Oliveira 2010, p. 79.
  17. ^ Arco y Garay 1954, p. 168.
  18. ^ Mattoso 2014, pp. 372–373.
  19. ^ Rodrigues Oliveira 2010, p. 78.
  20. ^ Mattoso 2014, pp. 287-288 and 290.
  21. ^ Mattoso 2014, pp. 227 and 383.

参考文献[編集]

  • Arco y Garay, Ricardo del (1954). Sepulcros de la Casa Real de Castilla. Madrid: Instituto Jerónimo Zurita. Consejo Superior de Investigaciones Científicas. OCLC 11366237 
  • Caetano de Souza, Antonio (1735) (ポルトガル語). Historia Genealógica de la Real Casa Portuguesa. I. Lisbon: Lisboa Occidental, na oficina de Joseph Antonio da Sylva. ISBN 978-84-8109-908-9. http://purl.pt/776/4/hg-2593-v/hg-2593-v_item4/hg-2593-v_PDF/hg-2593-v_PDF_24-C-R0150/hg-2593-v_0000_1-800_t24-C-R0150.pdf 
  • La Figanière, Frederico Francisco de (1859) (ポルトガル語). Memorias da rainhas de Portugal. Lisbon: Typographia Universal. OCLC 680459800. https://books.google.com/books?id=MEQLAAAAYAAJ 
  • Mattoso, José (2014) (ポルトガル語). D. Afonso Henriques. Lisbon: Temas e Debates. ISBN 978-972-759-911-0 
  • Rodrigues Oliveira, Ana (2010) (ポルトガル語). Rainhas medievais de Portugal. Dezassete mulheres, duas dinastias, quatro séculos de História. Lisbon: A esfera dos livros. ISBN 978-989-626-261-7