ポン=クロワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
Pont-Croix
COA fr Pont-Croix.svg

Pont-Croix Goyen.jpg
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ブルターニュ地域圏Blason region fr Bretagne.svg
(département) フィニステール県Blason Finistère 29.svg
(arrondissement) カンペール郡
小郡 (canton) 小郡庁所在地
INSEEコード 29218
郵便番号 29790
市長任期 アンリ・モーン
2008年 - 2014年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes du Cap-Sizun
人口動態
人口 1 766人
2010年
人口密度 218人/km2
住民の呼称 Pontécrucien, Pontécrucienne
地理
座標 北緯48度02分35秒 西経4度29分17秒 / 北緯48.043度 西経4.488度 / 48.043; -4.488座標: 北緯48度02分35秒 西経4度29分17秒 / 北緯48.043度 西経4.488度 / 48.043; -4.488
標高 平均:m
最低:2m
最高:73 m
面積 8.09km2
Pont-Croixの位置(フランス内)
Pont-Croix
Pont-Croix
公式サイト Site de la commune
テンプレートを表示

ポン=クロワPont-Croixブルトン語:Pontekroaz)は、フランスブルターニュ地域圏フィニステール県コミューン

地理[編集]

ポン=クロワの位置はカンペールと比較される。どちらの町も、北西の入江を見下ろし、西と南の海岸で直角につながる傾斜地帯にあるからである。河口はオディエルヌの港と、6km離れたプルゴーゼックである。船は常にゴワイヤン河口から上流へ向かう。ポン=クロワの港が地元農産物や塩、ワインを輸出する場所であるからだ。ゴワイヤン谷は20km離れたプロネイス地溝を始まりとし、ゴワイヤン川河口で曲がってオディエルヌ湾まで続いていく。

歴史[編集]

グランド・リュ・シェールの石畳

ガロ=ローマ文明は西のケルヴェネネックのヴィッラ遺跡に大きな足跡を残した。

シザン岬の接合部分にあたるポン=クロワの位置は、ビグダン地方の中心地となる戦略的な要所で、そこには商業と行政の役割が与えられ、有名な見本市が行われた。代官区の中心地でもあった。そこには法律家の一員である弁護士、公証人、警察官、裁判所官吏らがおり、彼らの一部は貴族の土地所有者に奉仕していた。ポン=クロワは見かけ上は町の地位を保っていたが、アンシャン・レジーム時代に町のコミュニティーが存在せず、町の教会の規模の大きさとそこにいる聖職者の重要性にもかかわらず、実際には町の地位を持ってはいなかった。ポン=クロワは1791年までブゼック=カップ=シザン教区の一部のままであった。

16世紀初頭にブルターニュ公と聖職者のより大きな負荷が及ぶまでは、テルグリュック=シュル=メール出身のロスマデック家がポン=クロワの覇権を手中に収めていた。

ユグノー戦争中の1597年、カトリック派の傭兵ギィ・ド・フォンテネルは騎手軍の先頭に立ってポン=クロワを征服した。町のブルジョワ階級の人々は、教会の塔に立てこもって逃げることができなかった。言い伝えによると、騎手が犯した虐殺行為で、グランド・リュ・シェールの急な石畳の上に血の波が流れたという。

フランス革命時代、町は一時的にポン=リーブル(Pont-Libre)という名称に変更させられていた[1]。19世紀末には鉄道路線が敷かれた。20世紀に入ると町の地位は廃れ、1950年以降人口が減少した。しかし20世紀終わりには人口1700人前後に下げ止まった。1933年にオディエルヌ=プルイネック間に橋がかかっても、観光業の発展が、悪化した商業の損失を補うまでにはいたらなかった。1946年にケリドルフのウトル・ゴワイヤン地区がポン=クロワに併合された。まちは人口密度の非常に低い農村の状態であった。1947年に駅は廃止された。

人口統計[編集]

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2010年
2159 2022 1885 1832 1762 1670 1695 1766

参照元:1999年以降EHESS[2]、2000年以降INSEE[3][4]

出身者[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]