ボードゥアン2世 (エノー伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ボードゥアン2世
Baudouin II
エノー伯
ボードゥアン2世と妃イド
在位 1071年 - 1098年?

出生 1056年
死去 1098年?
アナトリア半島
配偶者 イド・ド・ルーヴァン
子女 本文参照
家名 エノー家
父親 フランドル伯ボードゥアン6世
母親 エノー女伯リシルド
テンプレートを表示

ボードゥアン2世(Baudouin II, 1056年 - 1098年?)は、エノー伯(在位:1071年 - 1098年?)。フランドル伯位を主張したが成功しなかった。第1回十字軍に参加したが、アナトリア半島で行方不明となった。

生涯[編集]

ボードゥアン2世はフランドル伯ボードゥアン6世エノー女伯リシルドの次男である。兄アルヌールがカッセルの戦いにおいて戦死した後にエノー伯位を継承した。一方でフランドル伯位は戦いで勝利した叔父ロベール1世が奪い取った。ボードゥアンが未成年であった1083年まで、母リシルドはフランドル伯位奪還のためロベール1世との戦いを継続したが失敗に終わった。資金を得るためにリシルドは伯領をリエージュ司教領に委ね、この取引で得た資金で、1072年ごろにリシルドはブイヨン公、ナミュール伯、ルーヴァン伯、モンテギュ伯、シニー伯、オーモン伯(Reiffenbergによるとクレルモン伯[1])などと同盟を結んだが、ロベール1世はブロクロワで決定的に同盟軍を打ち負かした[1][2]

ボードゥアンは領地の一部をリエージュ司教に売却した後、ゴドフロワ・ド・ブイヨンの軍(対立している親族フランドル伯ロベール2世の軍ではなく)に入り第1回十字軍に参加した。1098年、アンティオキア攻囲戦の後、東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスの支援を求めるため、ヴェルマンドワ伯ユーグ1世とともにコンスタンティノープルに送り返された。しかし、ボードゥアンはアナトリアにおいてセルジューク・トルコからの襲撃を受けた際に姿を消し、おそらく殺されたとみられる。ボードゥアンの安否は長い間不明なままであった。1106年にエルサレムへの巡礼中に、ボードゥアンの妻イドはアナトリアで行方不明の夫の捜索を行ったが、確認できなかった[3]

子女[編集]

1084年にルーヴァン伯アンリ2世の娘イドと結婚し、以下の子女をもうけた。

  • ボードゥアン3世(1088年 - 1120年) - エノー伯
  • ルイ
  • シモン - リエージュ律修司祭
  • アンリ
  • ギヨーム(1117年以降没)
  • アルヌール - ルー領主、ベアトリス・ダト(Beatrice d'Ath、1075年頃 - 1136年以前)と結婚、ウスタシュ1世・ド・ルーの父[2]
  • イド(1085年頃 - 1101年以降) - ギー・ド・シエーヴルと結婚、1100年頃にクシー領主トマ・ド・マルルと結婚[2]
  • リシルド(1095年頃 - 1118年以降) - 1115年頃にアモーリ3世・ド・モンフォールと結婚(1118年離婚)、夫の死後モブージュ修道院の修道女となる[2]
  • アレイディス(1098年以前 - 1153年) - ニコラ2世・ド・ルミニーと結婚

脚注[編集]

  1. ^ a b Frédéric Auguste Ferdinand Thomas de Reiffenberg, "Histoire du comté de Hainaut"
  2. ^ a b c d Gilbert of Mons 2005.
  3. ^ Riley-Smith 2004, p. 147.

参考文献[編集]

  • Gilbert of Mons (2005). Chronicle of Hainaut. Translated by Laura Napran. Woodbridge: Boydell Press 
  • Riley-Smith, Jonathan (2004). The First Crusaders 1095-1131. Cambridge, third print 
  • Murray, Alan V. (2000). The Crusader Kingdom of Jerusalem: A Dynastic History, 1099-1125. Prosopographica et Genealogica 
先代
アルヌール
エノー伯
1071年 - 1098年
次代
ボードゥアン3世