アルヌール3世 (フランドル伯)
アルヌール3世 Arnoul III | |
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フランドル伯 | |
在位 | 1070年 - 1071年 |
出生 |
1055年ごろ |
死去 |
1071年 フランドル伯領、カッセル |
家名 | フランドル家 |
父親 | フランドル伯ボードゥアン6世 |
母親 | エノー女伯リシルド |
アルヌール3世(Arnoul III, 1055年ごろ - 1071年)は、フランドル伯(在位:1070年 - 1071年)。カッセルの戦いで戦死した。
生涯
[編集]アルヌール3世はフランドル伯ボードゥアン6世とエノー女伯リシルドの長男として1055年ごろに生まれた[1]。1070年に父ボードゥアン6世は死の床でフランドル伯領を長男アルヌールに、エノー伯領を次男ボードゥアンに残し、いずれかが先立って死んだ場合、残った方がもう一方の伯領も継承するという条件をつけた[2]。ボードゥアン6世はさらに弟ロベールに、まだ未成年であった息子のアルヌールの後見を託し、ロベールはこれに忠誠を誓い、甥を守る約束した[2]。アルヌールが成人するまで、母リシルドはフランドルの摂政をつとめた[3]。
1070年に父親が亡くなった後、叔父ロベールは誓いを破り継承に異議を唱えた[4]。リシルドはフランス王フィリップ1世に訴え、フィリップ1世はロベールを召喚した[5]。しかしロベールはこれを拒否してリシルドとアルヌールに対する攻撃を続けたため、フィリップ1世は軍隊を集めフランドルに向かった[4]。フランス軍には、おそらくアルヌールの叔母であるイングランド王妃マティルダが派遣し、ウィリアム・フィッツオズボーンが率いるノルマンディー軍が同行した[3]。また、アルヌール3世はブローニュ伯ウスタシュ2世と同盟を結び、これによりアルヌール3世と母リシルドに多くの支持が集まった[6]。両軍は1071年2月22日のカッセルの戦いにおいて衝突した[3]。その戦いでロベールの軍は最終的に勝利したが[注釈 1]、ロベール自身は捕らえられ、ロベールの軍はリシルドを捕らえた[5]。両者は交換により解放され、戦闘は終結まで続いた[5]。死者の中にはアルヌール3世もおり、おそらく事故により初代チェスター伯ゲルボッド・オブ・オーステルゼーレにより殺害された[注釈 2][10]。この戦いの結果、ロベールはフランドル伯位を獲得した[5]。リシルドと次男ボードゥアンはエノーに戻ったが、ロベールに対する敵対行為を続けた[5]。アルヌール3世は未成年で未婚であったため、子供はいなかった[1]。
注釈
[編集]- ^ 戦闘自体の結果はどちらの側にとっても明確な勝利ではなかったが、アルヌール3世が戦闘中に殺されたという事実は、ロベールがフランドル伯として認識されるという勝利につながった[6]。
- ^ チェスター伯でフランドルのサントメールにあるサン・ベルタン修道院の世襲の支援者であったフランドルのゲルボッドは、征服王ウィリアム1世からフランドルに戻る許可を得ていた[7]。ゲルボッドは1071年初頭のカッセルの戦いに参加し、ジルベール・ド・モンスによるとアルヌール3世を戦闘で殺害した。ウィリアム1世の甥でもある正当なフランドル伯を殺したことに気づいた後、ゲルボッドは君主を殺した罪の許しを求めるためにローマに逃げた。教皇グレゴリウス7世はゲルボッドをクリュニー修道院長ユーグに送り、ユーグはゲルボッドがクリュニー修道院の修道士になることを許可した[8][9]。
脚注
[編集]- ^ a b Schwennicke 1984, Tafel 5.
- ^ a b Gilbert of Mons 2005, p. 5.
- ^ a b c Nip 1999, p. 154.
- ^ a b Bradbury 2007, p. 114.
- ^ a b c d e Gilbert of Mons 2005, p. 6.
- ^ a b Tanner 2004, p. 104.
- ^ Lewis 1991, p. 39.
- ^ Hanquet 1906, pp. 66–67.
- ^ Gilbert of Mons 2005, pp. 6–7.
- ^ Nip 1999, p. 155.
参考文献
[編集]- Tanner, Heather J. (2004). Families, Friends, and Allies: Boulogne and Politics in Northern France and England, c.879–1160. Leiden: Konninklijke Brill NV
- Lewis, C.P. (1991). The Formation of the Honor of Chester, 1066-1100. In A.T. Thacker. “The Earldom of Chester and its Charters; A Tribute to Geoffrey Barraclough”. Journal of the Chester Archaeological Society (Chester) Vol. 71: 39.
- Hanquet, Karl (ed.) (1906). La Chronique de Saint-Hubert dite Cantatorium. Bruxelles: Hayez, Imprimeur de L'Academie. pp. 66-67
- Gilbert of Mons (2005). Chronicle of Hainaut. Translated by Laura Napran. Woodbridge: Boydell Press
- Schwennicke, Detlev (1984). Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue folge. Band II. Marburg: Verlag von J. A. Stargardt
- Nip, Renée (1999). “The Political Relations between England and Flanders (1066–1128)”. In Christopher Harper-Bill. Anglo-Norman Studies 21: Proceedings of the Battle Conference 1998. Woodbridge: The Boydell Press
- Bradbury, Jim (2007). The Capetians: The History of a Dynasty (987–1328). London & New York: Hambledon Continuum
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