ベテキン

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ベテキンモンゴル語: Betekin、? - 1248年)とは、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、ナイマン部の出身。漢字表記は『元史』では別的因(biédeyīn)と表記される。

概要[編集]

チャウスの高祖父はモンゴル部のチンギス・カンとモンゴル高原の覇権を争ったタヤン・カンで、ナイマン部の王族の家系であった。1204年の戦いでナイマン部が崩壊すると、タヤン・カンの息子クチュルクとその息子チャウン(敞温)は西方の西遼に亡命したが、その西遼もモンゴル帝国制圧され、これ以後チャウンの息子チャウスはモンゴル帝国に仕えるようになった。チャウスは主に将軍として金朝との戦いに従事しており、その間息子のベテキンは祖母の康里(カンクリ)氏とともに三皇后の宮庭で育てられた。その後、1248年に父チャウスが亡くなると、ベテキンは母の張氏に引き取られて育てられた[1]

1254年甲寅)、新たに東アジア方面軍の司令官に任じられたクビライの命によってベテキンは父の地位を受け継ぐことになり、副万戸として隨州・潁州を鎮守した。ベテキンは身の丈優れた偉丈夫で、また刀剣の扱いや騎射にも長けていたため、士卒はみな威服したという[2]

1263年、クビライが帝位継承戦争を制して自らの地位を確かなものとすると、ベテキンも寿州・潁州の屯田府ダルガチに任じられた。この頃、この二州では虎による被害が多発していたが、ベテキンは自らの手で虎に罠をしかけ射殺したので、虎の被害は終息した。また、1276年(至元13年)に信陽に赴任した際にも同様に虎の討伐を行っている[3]

1279年(至元16年)には常徳路の副ダルガチとなり、そこで李明秀の叛乱に遭った。ベテキンは単騎で叛乱の陣営に乗り込み李明秀を説得したのでベテキンの人柄に威服した李明秀は投降し、叛乱は平定された。1294年(至元31年)には池州路ダルガチとなり、狼の駆除などを行った。その後の事蹟は不明であるがオルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)の治世の末まで生存し、81歳という長寿を終えて亡くなった[4]

ナイマン王家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻121列伝8抄思伝,「抄思、乃蛮部人……其先泰陽、為乃蛮部主。祖曲書律。父敞温。……別的因在襁褓時、父抄思方領兵平金、与其祖母康里氏在三皇后宮庭。戊申、父抄思卒、母張氏迎別的因以帰。祖母康里氏卒。張嘗従容訓之曰『人有三成人、知畏懼成人、知羞恥成人、知艱難成人。否則禽獣而已』。別的因受教唯謹」
  2. ^ 『元史』巻121列伝8抄思伝,「甲寅、世祖以宗王鎮黒水、有旨諭察罕那顔、命別的因襲抄思職、為副万戸、鎮守随・潁等処。丙辰冬十有二月、世祖復諭征鎮軍士悉聴別的因等号令。別的因身長七尺餘、肩豊多力、善刀舞、尤精騎射、士卒咸畏服之」
  3. ^ 『元史』巻121列伝8抄思伝,「明年、庚申、世祖即位、委任尤専。癸亥正月、召赴行在所。冬十一月、謁見世祖於行在所、世祖賜金符、以別的因為寿潁二州屯田府達魯花赤。時二州地多荒蕪、有虎食民妻、其夫來告、別的因黙然良久、曰『此易治耳』。乃立檻設機、縛羔羊檻中以誘虎。夜半、虎果至、機発、虎堕檻中、因取射之、虎遂死。自是虎害頓息。至元十三年、授明威将軍・信陽府達魯花赤、佩金符。時信陽亦多虎、別的因至未久、一日、以馬裼置鞍上出獵、命左右燔山、虎出走、別的因以裼擲虎、虎搏裼、拠地而吼、別的因旋馬視虎射之、虎立死」
  4. ^ 『元史』巻121列伝8抄思伝,「十六年、進宣威将軍・常徳路副達魯花赤。会同知李明秀作乱、別的因請以単騎往招之、直抵賊塁、賊軽之、不設備。別的因諭以朝廷恩徳、使為自新計、明秀素畏服、遂与倶来。別的因聞於朝、明秀伏誅、賊遂平。三十一年、進懐遠大将軍、遷池州路達魯花赤。之官、道経潁上。潁近荊山、有野豕時出害民禾稼、民莫能制。聞別的因至、迎拜境上、告以其故。別的因曰『毋慮也』。遂至荊山、以狼牙箭射之、豕走数里。大徳十三年、進昭勇大将軍・台州路達魯花赤。卒、年八十一。子不花、僉嶺南廣西道粛政廉訪司事;文圭、有隠徳、贈秘書監著作郎;延寿、湯陰県達魯花赤。孫守恭、曾孫与権、皆読書登進士科、人多称之」

参考文献[編集]

  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 元史』巻121列伝8抄思伝