ブンデールカンド

ブンデールカンド(ヒンディー語:बुन्देलखण्ड, 英語:Bundelkhand)は、インド中央部、マディヤ・プラデーシュ州北部とウッタル・プラデーシュ州の南西部を中心とした地域である。
この名称はこの地域を支配した部族ブンデーラー由来し、ブンデールカンドとは「ブンデーラーの土地(カンド)」という意味である。
主要な都市には、ジャーンシー、オールチャー、パンナ、カーリンジャル、バーンダー、チトラクート、ダティヤー、サーガル、カジュラーホー、マホーバー、ハミールプル、チャタルプルがあげられる。
歴史[編集]


長らくプラティーハーラ朝の支配下にあったが、カナウジ陥落による衰退により、10世紀頃にその封臣であったチャンデーラ朝が台頭した。
12世紀、強大なチャーハマーナ朝の侵略があったが、チャンデーラ朝は独立を保った。
1309年、チャンデーラ朝はデリー・スルターン朝のハルジー朝に滅ぼされ、それらはいくつかの小王国に分裂した。
1545年、スール朝の創始者シェール・シャーはカーリンジャルのラージプートを攻めようとした際、爆薬の誤爆が原因で死亡した。
16世紀以降、ムガル帝国の支配下に置かれたが、ブンデールカンドの諸王国は独立性を保ち、オールチャー王国などが存在した。帝国の統治者はカールピーを中心にこれらを支配した。
17世紀後半、アウラングゼーブの治世、チャトラサールが反乱を起こし、ブンデールカンドに広大な版図を築いた。
18世紀、チャトラサールはマラーター王国との同盟の証として、自身のブンデールカンドの領域3分の1を割譲した。それのみならず、自身の娘マスターニーを王国宰相バージー・ラーオに嫁がせた。
1801年、マラーター王国の宰相バージー・ラーオ2世はイギリスとバセイン条約を締結し、イギリスはこの地域の支配権を得た。1811年にはブンデールカンド州となり、1853年には中央州に併合された。また、この過程で諸王国はイギリス従属下の藩王国となった。
1857年、インド大反乱勃発時には、ジャーンシーのラクシュミー・バーイーなどが反乱を起こすなど、大規模な反英闘争が起こった。
1947年、インド独立時には隣接するバゲールカンドとともにブンデールカンド州として1州を形成したが、1956年の州再編によりジャーンシーはウッタル・プラデーシュ州となり、他はマディヤ・プラデーシュ州となった。
参考文献[編集]
- 小谷汪之編『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年
- 「ブンデルカンド」『国際大百科事典ブリタニカ』