フルガン (ハダナラ氏)

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ᡥᡡᡵᡤᠠᠨ
氏族 ハダナラ氏
名称表記
仮名 フルガン
転写 hūrgan
漢文
  • 虎兒罕(東夷考略, 明神宗實錄)
  • 扈爾漢(滿洲實錄)
  • 扈爾干(八旗滿洲氏族通譜, 清史稿)
生歿即位
出生年 嘉靖年間?
即位年 万暦10(1582)?
死歿年 万暦11(1583)?
一族姻戚
従祖 ワンジュ(王中)(初代ハダ部主)
ワン(王台)(初代ハダ国主)
カングル
末弟 メンゲブル(四代ハダ国主)
ダイシャン(三代ハダ国主)
アミン・ジェジェ(太祖妃)

フルガン (扈爾漢) は明朝末期のハダナラ氏女真族。初代ハダ国主・ワン (王台) の長子、第二代国主。

父・ワンの暴虐な性格に困窮した所属諸部がハダから離叛し始めていたおり、フルガン自身の残忍な性格が禍いし、人の流出に拍車をかけた。更にその内の一部がイェヘに帰順したことにより、ハダの衰頽を加速させる一方で、イェヘの勢力を伸長させた。その後、フルガンは病死したワンを継いで国主に即位したが、一年足らずで急死した。

フルガン死後、ハダは内訌によりますます勢力衰頽を加速させる。

略歴[編集]

初代ハダ部主・ワンジュがイェヘ部主・チュクンゲから貢勅700を横奪し、ギレ (季勒) など13部落の部民を連行したことは、チュクンゲの孫・チンギヤヌヤンギヌ兄弟に復讐の種を植えつけた。兄弟はそれぞれ築城して東西城主となると、イェヘ復興を思いながら初代ハダ国主・ワンの下で臥薪嘗胆し、復讐の機が熟するのを待った。[1][2]

萬汗[編集]

明朝の信頼を得ていたハダ国主・ワンは、明朝辺塞を度々侵犯していた建州部領袖・王杲をフルガンらとともに捕縛し、勲官を授与された。フルガンもその功績で都督僉事に昇格した。この時がハダの全盛期であり、フルン (海西部) のみでなく建州部までを統治下に収めるほどの絶頂であった。[1]

ワンは晩年に至って暴虐になり、且つ贈賄を強いるようになったため、ハダ属部から離叛者が現れ始めた。人の流出に歯止めをかけたいところにきて、フルガンも残忍な性格であったことから、フルガン部下の虎兒幹[3]やベフチ (白虎赤) らは前後して離叛し、イェヘに帰順した。機は熟せりとイェヘの兄弟はベフチらを勢力に加え、ハダを襲撃してギレなど諸部落を奪還した。これを機にウラホイファなどもその羈縻から解放され、ハダは統治者としての立場から転落した。[1]

曾てハダ国主としてフルン (海西部) に君臨したワンは、イェヘによる蹂躙を目の当たりにしながらなす術なく、憂憤のうちに病死した。国主の座が空くと、フルガンはワンの私生子・カングルと争い、カングルがイェヘに逃亡したことで二代目国主に即位した。イェヘはフルガンに、貢勅の返還を要求したが、フルガンは父・ワンの憤死をイェヘ側の不忠義に帰結させて拒否した。[1]

即位[編集]

即位後まもなく、ヌルハチの大叔父・ボーシの子・カンギヤから派兵の要請があった。この頃のヌルハチは、祖父と父を殺され、宗族から爪弾きにされていた。同じくヌルハチの宗族であるジョーオギヤ城主・リダイは、ハダ兵を率いてヌルハチ属領・フジ・ガシャンを掠奪した。しかしアンバ・フィヤング、バスンらに追撃され、戦利品を置いて敗走した。[1](→「碩翁科羅巴遜敗哈達兵」)

この頃、蒙古トゥメト部のセンゲ・ホンタイジ (後のセチェン・ハン) は、フルガン即位と同じ年に亡父・アルタン・ハン (順義王) の後を継いでトゥメト部主となったばかりで、勢力伸長に意欲を燃やしていた。[4]センゲは初代ハダ国主・ワンの娘婿であり、ワンの長子・フルガンとは義兄弟の関係であった。センゲはその立場を理由にフルガンに援軍を派遣し、イェヘが奪還したギレ諸部落を再びイェヘから奪い返したが、[5]しかしその裏では密かにハダ併呑を画策し、フルガンの叛臣・ベフチらを蔭で買収しようと企んでいた。[6][7]

その後間もなく、即位から一年足らずという短さでフルガンは病死した。[8]フルガンの遺子・ダイシャンはまだまだ稚く、フルガンの末弟・メンゲブルも若かったため (当時19歳)、政局が安定していない隙を狙ったイェヘはホルチン部ウンガダイらを糾合して頻繁にハダ領を侵犯した。そしてフルガン死去の報せをきいたカングルがハダに帰還すると、ハダは三者鼎立して分裂し、自ら衰亡にむかって更に進んでゆく。

年表[編集]

万暦1 (1573) 年頃、トゥメト部のセンゲ・ホンタイジワンに娘を要求し、惧れたワンはこれを承諾。[1]

万暦3 (1575) 年旧暦7月28日、ワンとフルガン王杲を捕縛。[1][9]

万暦3 (1575) 年旧暦8月6日、王杲捕縛の功績でワンが右柱国[10]および龍虎将軍 (一種の勲官) を授与され、フルガンら二子[11]は都督僉事に昇格。[1][12]

万暦10 (1582) 年旧暦春、センゲ・ホンタイジが亡父・アルタン・ハーン (順義王) のあとを継いでトゥメト部主に即位。[4]

万暦10 (1582) 年旧暦7月、ワン憤死。フルガンとカングルが国主の座を競って争い、フルガンが即位、カングルはイェヘへ逃亡。[1]

万暦10 (1582) 年旧暦8月、フジ・ガシャンの戦闘で敗北。[1]

万暦10 (1582) 年旧暦12月頃、センゲ・ホンタイジの援軍を得てギレなど諸部落を「奪回」。[7]

万暦11 (1583) 年?、即位から一年足らずで急死。[8]

万暦11 (1583) 年旧暦7月、イェヘがダイシャンメンゲブルを急襲。[1]

系図[編集]

ワン (王台):初代ハダ国主。

  • 長子・フルガン:二代ハダ国主。
    • 孫・ダイシャン:フルガンの子。三代ハダ国主。
    • 孫娘・アミン・ジェジェ (阿敏哲哲):ダイシャンの妹。ヌルハチ妃。[13]
  • 子・サムハトゥ (三馬兔)[5]
  • 子・カングル:ワンの落胤 (私生子)。[5]
  • 子・メンゲブル:ワンの末子。四代ハダ国主。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k “萬”. 清史稿. 223. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷223#萬 
  2. ^ “楊吉砮”. 清史稿. 223. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷223#楊吉砮 
  3. ^ “海西女直通攷”. 東夷考略. 不詳. https://zh.wikisource.org/wiki/東夷考略. "……會臺子虎兒罕好殘殺部夷虎兒幹白虎赤先後叛歸加奴因盡奪季勒諸寨……" 
  4. ^ a b “韃靼”. 明史. 327. 四庫全書. https://zh.wikisource.org/wiki/明史/卷327 
  5. ^ a b c “海西女直通攷”. 東夷考略. 不詳. https://zh.wikisource.org/wiki/東夷考略#海西女直通攷 
  6. ^ 原文:「今西虜黃台吉等陽以助虎兒罕為名陰收白虎赤等以自益其兼併之志昭然」(明神宗實錄-131)、「黃台吉陽助之寔陰收白虎赤等自益」(東夷考略-海西女直通攷)。ベフチ (白虎赤) はこの時、時系列的に既にハダ国主・フルガンからイェヘ東城主・ヤンギヌに寝返っている。委細な経緯は文献上現れない為不詳。ただ、イェヘナラ氏は本来トゥメト部蒙古人ナラ氏に改姓した一族で、系統や出自としてはトゥメト部に近い、或いは同じ (他説有り)。史書に度々現れる「西虜」(北虜とも) はトゥメト部一つだけでなくホルチン部ハルハ部ノムトゥなども含めた蒙古系を指す。
  7. ^ a b “萬曆十年十二月壬辰(八日)”. 明神宗實錄. 131. 不詳 
  8. ^ a b 『清史稿』や『東夷考略』には万暦11年7月にダイシャンとメンゲブルがイェヘの襲撃を受けたという記述があるため、万暦10年7月のワンの死後すぐに即位したとしても、一年経たずに死亡したことになる。
  9. ^ “萬曆三年七月甲子(二十八日)”. 明神宗實錄. 40. 不詳 
  10. ^ “【柱国】ちゆうこく”. 新字源. 角川書店. "❷官名。戦国時代、楚の制度で、大きい軍功のあった者にあたえられる大臣級の官。上柱国。後魏以後は、散官の名。唐以後は勲官の名。いずれも名誉職。" 
  11. ^ 不詳。サムハトゥ (三馬禿) か。
  12. ^ “萬曆三年八月辛未(六日)”. 明神宗實錄. 41. 不詳 
  13. ^ “戊子年四月”. 滿洲實錄. 2. 不詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清實錄/滿洲實錄/卷二 

参照文献[編集]

史籍[編集]

  • 茅瑞徵『東夷考略』1621 (漢文)*燕京図書館 (ハーバード大学) 所蔵版
  • 張廷玉, 他『明史巻327, 四庫全書, 1739 (漢文) *Wikisource版
  • 愛新覚羅・弘昼, 西林覚羅・鄂尔泰, 富察・福敏, (舒穆祿氏)徐元夢『八旗滿洲氏族通譜』巻23, 四庫全書, 1744 (漢文) *Wikisource版
  • 編者不詳『滿洲實錄』巻2, 1781 (漢文) *中央研究院歴史語言研究所版
  • 趙爾巽, 他100余名『清史稿巻223, 清史館, 1928 (漢文) *中華書局版

研究書[編集]

  • 安双成『满汉大辞典』遼寧民族出版社, 1993 (中国語)
  • 胡增益 (主編)『新满汉大词典』新疆人民出版社, 1994 (中国語)

Webサイト[編集]