フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク

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フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク

フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵(Friedrich Albrecht Graf zu Eulenburg, 1815年6月29日 - 1881年6月2日)は、オイレンブルク使節団英語版で知られる幕末(ドイツ版は1848年 - 1870年)のプロイセン王国の外交官、政治家。1861年1月24日江戸幕府との間に日普修好通商条約を成立させた。これは他のヨーロッパ列強と同様の不平等条約であった。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

フリードリヒ・レオポルド・ツー・オイレンブルク伯の子としてケーニヒスベルクで生まれる。ケーニヒスベルク大学ボン大学で法律学を学んだ。

オッペルンの政府機関やベルリンの官庁で勤務した後、1852年アントウェルペン総領事となり、外交官の道に入った。

オイレンブルク使節団[編集]

プロイセンの海外貿易が拡大し、東南アジアや東アジアの交易国を調査するため、オイレンブルクは使節団の代表に選ばれた。1859年10月、日本(江戸幕府)や、中国王朝)、タイシャム)に向けて出発した。

1861年1月15日、かねてより助力を得ていたオランダ系アメリカ人ヘンリー・ヒュースケンがプロイセン王国の宿舎善福寺からの帰路で薩摩藩の襲撃に遭い、翌日死去した。事件の影響は無く、1月24日日英修好通商条約をベースにした条約を江戸幕府と締結(日普修好通商条約)。同年9月には清国と、天津条約と同様の修好通商条約を締結した。尚、日本では交渉中に担当者の堀利煕が謎の自殺を遂げた為、後任の村垣範正と条約を締結した。

プロイセン内相[編集]

帰国後の1862年12月8日、プロイセン内相に任命された。1864年1866年にプロイセン王国は行政区域を拡大させたため、オイレンブルクはこの機会に旧区域でも包括的な行政改革を実施した。ところが、西部ではカトリックの、東部では自由主義者の抵抗に遭ってしまった。交渉は成果が上がらなかった。

エムス電報事件[編集]

普仏戦争前の1870年7月13日にはバート・エムスで療養中のヴィルヘルム1世を伴ってフランス外交官ベネデッティ伯爵英語版と交渉した。この交渉内容をベルリンのビスマルクに送ると、電報内容を改竄して公表するエムス電報事件が起こった。

その後、ビスマルクの干渉もあったため、1878年11月30日に辞任した。後任は甥のボート・ツー・オイレンブルクであった。

最後[編集]

1881年、ベルリンで死去。

家族[編集]

オイレンブルクは未婚で子供もいなかった。甥にはボートのほか、フィリップ・ツー・オイレンブルク侯がいる。

関連項目[編集]

先代:
グスタフ・ヴィルヘルム・フォン・ヤーゴウ
プロイセン王国内相
1862年 - 1878年
次代:
ボート・ツー・オイレンブルク