フランツ・クサーヴァー・ドルシュ

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フランツ・クサーヴァー・ドルシュ

フランツ・クサーヴァー・ドルシュ(ドイツ語: Franz Xaver Dorsch 、1899年12月14日、Illertissen -† 1986年11月8日、ミュンヘン) はドイツの建設技師である。彼は1945年以前にしばらくのあいだ国務においてBaubeamterとして働き、戦後国務から離れビジネスとして勤めた。日本では名神高速道路設計に影響を与えた。

生涯[編集]

すでに1922年にフランツ・クサーヴァー・ドルシュは国家社会主義ドイツ労働者党SAに入り1923年11月ミュンヘン一揆に参加した。1933年からフリッツ・トートの右腕でありトートと国家アウトバーン建設遂行をゆだねられた。1936年彼はRegierungsbaumeisterになり2年後フリッツ・トートの下でトート機関(OT)がジークフリート線構築を始めた。同時に機関は軍事的に結束し、Diplom-Ingeneurであるトットはドルシュを「戦争遂行の特別委任」に任じた。1940年2月ドルシュはMinisterialdirektorに昇格した。

彼は1941年からベルリンにあるトート機関の中枢の首長であり、フリッツ・トートが1942年2月8日に航空機事故で歿するとOTの長アルベルト・シュペーアの代理人に就任した。1941年6月22日からソ連に対するドイツ国防軍の奇襲の進行中にドルシュは1941年7月22日にミンスクの収容所のひどい状況を報告している。

1944年4月29日からドルシュはシュペーアの指図のもとOTの長となり、これによって国内全域において強制労働者の投入について決定的な責任者となった。ユダヤ人女性のべ1700人をヴァルドルフ外部収容所に投入した。同時に彼はJägerstabになった。 1945年5月8日の戦後にドルシュは米軍に協力しすでに1945年にヨーロッパ駐屯米軍の歴史部門のためにOT研究論文を執筆している。彼が届けた論文は1000ページを越えるまで増え続けた。

1951年ドルシュは現在の Dorsch Consult Ingenieurgesellschaft mbhを設立した。 西ドイツ復興においてこの企業はすでにインフラの大プロジェクトを多く請け負った。特にアウトバーンと後のNATOの軍事施設の再建と新規建設である。1958年すでに世界銀行の注文を処理した。