ハタイ国
- ハタイ共和国
- Hatay Eyaleti
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← 1938年 - 1939年 →
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(国旗)
トルコ国内のハタイの範囲。 この範囲が、共和国であった。-
公用語 トルコ語 首都 不明 - 大統領
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1938年9月 - 1939年6月 タイフル・ショクメン - 変遷
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シリア、ハタイ独立 1936年10月 国際連盟、ハタイ承認 1937年 共和国選挙、共和国樹立 1937年8月~翌月 トルコ、ハタイ編入 1939年6月
通貨 トルコリラ 現在 トルコ
ハタイ共和国は、1938年から1939年にかけて、現在のトルコ共和国のハタイ県の範囲にあった、トルコ系の短命国家である。
歴史[編集]
独立まで[編集]
第一次世界大戦までは、オスマン帝国の一部としてあった。オスマン領シリアの海岸部の州だった。
ムドロス休戦協定で、イスゲンデルン県(アレクサンドレッタ県)は、アナトリアに進んだフランス軍に占領された。1921年10月のアンカラ条約でシリア領内におかれた。しかし、特別自治区として、トルコの文化が尊重された。
独立[編集]
1936年のシリア独立にあたって、フランスは、ハタイを自治州ではなくシリアの一部としたが、トルコ政府は抗議し、国際連盟に訴えた。ムスタファ・ケマル・アタテュルクがフランス大使に独立を強く訴えた結果、同年10月にフランスはこれを承認し、シリア独立と共にハタイも自治州として、独立した。その後、1937年には、国際連盟もこれを承認した。
共和国時代[編集]
ハタイ独立後、議会選挙が行われたものの、これの監督がフランス軍であることに対し、トルコ政府はシュキュル・カナトル大佐率いるトルコ軍を派遣した。結果、1937年8月の議会選挙で、多数派をトルコ人が獲得し、1938年9月にハタイ共和国が建国され、大統領も選出された。
編入[編集]
共和国が建国されても、トルコ人が多数派の議会であることは変わらなかった。ハタイ編入を強く望んでいたケマル・アタテュルクの死去後、1939年6月のハタイ共和国議会の決議をもって、7月にトルコへ編入された。ハタイ共和国は、ハタイ県に取って代わられる形で崩壊した。
参考文献[編集]
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- 設樂國廣『ケマル・アタテュルク』山川出版社、2016年