ノート:若沢寺

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意味のない改悪編集[編集]

意味のない改悪編集を、IPアドレスでやって行く人は、何を考えているのだろうか。昨年11月の無意味な文章削除、今年1月の無意味な写真削除。11月は内容のコンパクト化の積もりですか。全文アップでも百科事典的であることの妨げにはならない。写真削除は意味がわからぬ。その時期に自治体が発掘したなんて、あえて記述することでもないけど、写真があれば、その事実と様子がわかるのにね。IPアドレスでの編集なんて、いたずらに等しいし、悪く言えば卑怯の一言につきます。--ジガンザン8108会話2013年2月13日 (水) 09:00 (UTC)[返信]

ノート:番所大滝の件もそうですが、なぜ最初から喧嘩腰なんでしょうか…。
>全文アップでも百科事典的であることの妨げにはならない
必ずしもそうでしょうか? 編集した方は部分的な引用でも理解に足ると思ったのでしょうから、なぜ全文引用が必要かを示したほうがよろしいのではないでしょうか。
>あえて記述することでもないけど、写真があれば、その事実と様子がわかるのにね。
写真等のメディアファイルは記事の理解を助ける目的で置かれるので、文中で触れられていない事物の写真は不要として除去されたと推察します。
>IPアドレスでの編集なんて、いたずらに等しいし、悪く言えば卑怯の一言につきます。
ご自身もIPユーザーとして活動されていたのでは…?
(勝手ながらセクションレベル変更しました。)--Tkmkz会話 2013年2月22日 (金) 04:25 (UTC)[返信]

間違った編集[編集]

お願いです。間違った編集をしないでください。仁王門は、いつでも誰でも通れます。旧波田町のWebサイトは、リンク切れになっています。実情を知ってから、編集をしてください。--ジガンザン8108会話2017年9月30日 (土) 02:46 (UTC)[返信]

「県宝」と「県文化財」は、位置づけが違います。--ジガンザン8108会話2017年9月30日 (土) 02:51 (UTC)[返信]

「鵜飼」稿の信憑性について[編集]

12月31日に雪融さんが加筆された部分について、困惑しています。「雪融」さんは、「PRESIDENT Online」に掲載された「鵜飼秀徳」稿を出典に上げています。鵜飼秀徳氏は、似た内容の文章を、自著『仏教抹殺』(文春新書)にも書いています。しかし、この内容には明らかな間違いも多く、「雪融」さんが鵜飼稿を元に加筆された部分は、今まで地元で知られていることではなく、鵜飼稿を裏づけるような史料はないのです。しかし、「ないことを証明することは困難」なので、私には鵜飼稿をはっきり否定する「典拠」はありません。だから、私は困惑しています。 私には、鵜飼氏が拙速に全国を飛びまわり、自分に都合のよい事情をつまみ食いして、ストーリーを作ったように思えるのです。似た内容なので、鵜飼氏の『仏教抹殺』にそって、私にはっきりわかる間違いを指摘します。100ページに、「近年、この白山山中から、巨大寺院の痕跡が発見された」は、ひどい間違いです。廃仏毀釈による廃寺以来、地元民が若沢寺跡の存在を忘れていたということはありません。111ページの「松本藩からの手厚い庇護を受け、「信濃日光」と例えられるほどの興隆」は、必ずしも正しくありません。慶長19年に小笠原秀政寺領10石寄進、元和3年戸田康長寺領10石寄進・禁制札掲ぐ、寛永10年松平直政寺領10石寄進などの記録がありますが、藩内の基軸寺院がいずれも受けた程度の「寺領寄進」であり、藩主交代の際にそのつど確認されたのです。若沢寺だけが特に「手厚く」ではありません。「禁制」も、境内での乱暴狼藉を禁じる類のものです。また、私も今までうっかりしていましたが、若沢寺の堂塔伽藍が立派に整備されて「信濃日光」と言われるようになったのは、19世紀に入ってからのようです。 111ページの「山城さながら、幾重にも積まれた石垣」も筆の誤り。石垣は「幾段にも積まれた」で、4段くらいでしょうか。112ページ「江戸時代に多くの訴訟を抱える「問題寺院」であった」は、今回の問題の中心部分だが、まるで意図的な記述不足。江戸時代を通してそうであったかのように印象づける記述だが、檀家や近隣の同宗(真言宗)寺院と訴訟沙汰を抱えたのは、1785年に住職に就任した栄豊住職だけ。 113ページの記述「こうした若澤寺の堕落ぶりに檀信徒の怒りがいかに激しかったかは想像に難くない。それは若澤寺跡地に転がる、首が刎ねられた地蔵や、山中に放置されたままの歴代上人の墓所を見ても窺い知ることができる」は、鵜飼氏の想像的な作文にすぎない。確かめてないが、首のない地蔵は1体にすぎない。もう1体あるかどうか。旧松本藩内では、首のない地蔵や、崖から突き落とされた地蔵が多いという。「歴代上人の墓所」は、改葬移転するのが当然だと鵜飼氏は言いたいのか、それはおかしいだろう。 ついでながら、115ページに記述される旧救世殿は、確かにいったんは盛泉寺に移され観音堂になった。しかし、1984年に観音堂は改築され、往時の名残りをとどめていない。それを、往時のものと誤解して、「荘厳にして、随所に凝った意匠が施され」と評するのは愚見だ。 最大の問題点は、111ページで、「旧波田町文化財保護委員長で、若澤寺史跡保存会の百瀬光信は明かす」と書き、112ページに、百瀬光信氏談として、7行半にわたる言葉を述べさせている。もちろん、「PRESIDENT Online」にもある。これが、今回の雪融さんの加筆につながる。 この発言内容は、私には初めて聞く話だった。百瀬光信さんは郷土史研究では地元で群を抜く第一人者である。そこで、恐る恐る、「(1)蓄妾が伝えられる栄豊住職は在位1785年~1835年で、これが廃寺に影響したとは考えられない、(2)地元民が廃寺を受け入れたのは松本藩の役人が地元民を集めた上で住職に誰も答えられないような仏教上の難問を発し、それに住職が答えられないことをもって難詰・叱責し僧侶への信頼を打ち砕くとの作戦に乗せられたものと聞くが、どう思われるか」とのお手紙を出した。 百瀬光信さんのお返事は、驚きの内容だった。百瀬さんによると、「確かに鵜飼秀徳氏に会って、若沢寺関連資料を紹介した。鵜飼氏は公民館で資料何点かを購入したようだ。しかし、私があのような “説明” “発言” をしたことはない。栄豊住職のやったことが、廃仏毀釈時まで尾を引いていたとは考えられない」とのことだった。 購入した資料で、1788年~1795年にかけて相互に起こした訴えの資料を使って、あたかも若沢寺がそんな争いを江戸時代中続けていたかのようにして本を書いている。しかも、本文中でそのような誤った記述をして、「結びにかえて」では、それが正しいことを前提に、若沢寺を「僧侶の堕落」の全国一の代表例に仕立て上げている。 これは、鵜飼氏の持論である「今でも堕落した僧侶は多い。そういう僧侶のいる不必要な寺院はいらない」を補強するために、僧侶の堕落ゆえに廃寺とされ再興できなかった寺を持ち出すい必要があったのだ。そのストーリーの中で、一時期地元・近隣寺院と軋轢のあった若沢寺を、上記のようなゆがめた形で牽強付会させたとしか言いようがないのである。 「鵜飼」稿の信憑性については、以上の報告をしておきたい。地元では現在、「PRESIDENT Online」の鵜飼稿と、同氏著『仏教抹殺』の内容については、上記の質のものとして理解されている。申し訳ないが、12月31日に雪融さんが加筆された部分については、7月にでも削除させて頂きます。鵜飼氏の「PRESIDENT Online」への稿と、同氏著『仏教抹殺』は、残念ながらまだ公開・市販されている。百瀬さんが鵜飼氏のでっち上げを理由に絶版等を求めるのでなければ、私にはそれを求める権限がないことは、残念なことである。--ジガンザン8108会話2019年6月6日 (木) 08:20 (UTC)[返信]

廃寺後の僧侶の動向[編集]

どうでもよいことだが、廃寺後の僧侶の動向について最近の知見を書く。若沢寺が再興できなかったことにも関係するだろう。 廃仏毀釈時の若沢寺には、住職堯賢と僧堯榮がいた。堯賢は10kmほど東方の今井」地区にあった寺の出身だったので、廃寺後はそこに戻った。今井は松本藩領ではなく出身の寺は廃寺をまぬがれたから、還俗もしなかったのだろう。一方、堯榮(俗名は芬々)は、寺を下った集落で、還俗帰農した。

明治4年に廃仏毀釈。明治6年に、堯賢と堯榮が、職人を頼んで若沢寺のある建物の銅瓦(『波田町誌』には銅瓦とあるが、銅葺き屋根だろう。『波田町誌』には芬々が出てくるが、堯榮は出てこない)を剥いで、換金しようとした。これを訴えたのが、当時46歳(文政10年生まれ)の女性「そ乃」。明治7年に、堯榮(芬々)と「そ乃」が入籍する。明治初年の47歳だなんて、花嫁にはおかしい。1つの仮説として は、堯榮と「そ乃」は以前から夫婦ではあったものの、明治新戸籍編成にあたっては、堯榮が僧であることをおもんばかって、夫婦であることを戸籍に反映させず、明治7年になってようやく入籍したものか。また、銅瓦問題についても、そういう立場の「そ乃」が原告になることによって、事態を穏便にすませようとしたものか。 実際、堯賢と堯榮(芬々)は剥いだ銅瓦を返却したが、それ以上の罪に問われていないようだ(『波田町誌』)。明治8年に、堯榮(芬々)が亡くなる。堯榮と「そ乃」の間には、子供がいない。47歳の花嫁であれば子供がいなくて当たり前だし、以前から婚姻関係にあったとして子供がいたら、入籍しないわけにいかなかっただろう。

したがって、若沢寺廃寺後には、住職だった堯賢は実家であった寺に戻り、住僧であった堯榮は4年後に亡くなっている。これでは、廃寺前に僧であった者が関係しての若沢寺再興はむずかしかったであろう。以上のことについては、今のところ典拠文献はないけれども、事実関係としてご紹介しておく。--ジガンザン8108会話2019年7月3日 (水) 02:29 (UTC)[返信]