ノート:発散級数/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

訳語[編集]

訳語についてですが、renormalizationは「再正規化」ではなく「繰り込み」と訳すのが普通ではないかと思います。--働けよおっ 2010年7月29日 (木) 14:48 (UTC)

ご指摘ありがとうございます、早速修正させていただきました。私は物理学方面には疎い(かといって数学に明るいかといえば疑問符がつきます)ので、最初に翻訳を行ったときは、正確を期すためにもう少し調べてから(あるいは詳しい方からの助力が得られるかもしれない)と思って二箇所ほど原文のまま置いておいたのですが、どうやら「ここは日本語版だから」とか言う程度の安直な理由でほんの少しの英文すらも我慢できない方がいるようで、なぜかコメントアウトされてしまい已む無く仮の翻訳を行ったものでした。誤りをお詫びしますと共に、ご協力に感謝申し上げます。--Anti-min 2010年7月30日 (金) 15:28 (UTC)
早速の編集、また、丁寧なご返信ありがとうございます。恐縮です。--働けよおっ 2010年8月2日 (月) 09:48 (UTC)

差し戻しについて[編集]

「2010年7月29日 (木) 11:17」のリバート(差分)についてですが、要約欄に記載がなく編集意図が不明のため、いったん元の状態に戻しました。差し戻しを行う場合は、いたずらへの対応などよほど自明な場合を除き、意図・理由を要約欄やノートで説明するようにしてください。

念のためにその直前にぼくが行った「2010年7月29日 (木) 11:07」の編集(差分)について補足しておくと、「…ということには注意が払われて然るべきであろう」というような執筆者の意思を感じさせる表現はWikipediaという百科事典には不適当なため除去しており、また(少なくとも2010年現在において)数学用語として「収斂」よりも「収束」のほうが一般的に用いられているため、前者を後者に置換しています。これらの編集に対してなにか異議があるのであれば、具体的にその内容をノートで説明してくださるようお願いします。--貿易風 2010年7月30日 (金) 12:47 (UTC)

「不適当」と言うのならば、むしろあなたの行動や存在そのもののほうが不適当であるように思われます。少なくともあなたの 2010年7月30日 (金) 12:47 (UTC) の最初の段落の主張は、あなた自身にも当てはまることではありませんか。相手に自重を求めるならばまずあなた自身がそれを実践してください。
「注意して然るべき」というのは英語版の原文に近い表現にしてあるつもりです。実際、その節自体の主張が「普通ならこうでなければならない」という趣旨で提示され、その注意点として「しかしそうではないものにも極めて有用なものがあるので、そうなっていないからと言って即ダメなわけではない」ということが当該の記述であげられています。つまり、あれは執筆者の意図を強調するものではなく、節全体としてのミスリーディングを避けるためのものと考えます。ゆえに「表現が問題である」という主張をするならば、(必要ならばもっと広いスコープで)文章を全体として組みなおすことが必要でしょう(たとえばモノイドの項での NGiraffe さんの最近の編集はすばらしいと考えています。きっと何かの参考になるでしょう)。少なくとも機械的な除去では節全体としてのニュアンスを損なうだけで、何も適切にならないということだけは確実に言えます。そのような安直な考えで「百科事典とは云々」などとやり始めるまえに、一度考え直してみてください。
なお「収斂」という用語は普通に用いられており、少なくとも数学記事関連の取り決めでは、そのような場合の用字選択は執筆者に委ねられることになっています(そもそも発散級数という主題自体、数学やそれに近い専攻の大学生でもまったく係わり合いにならずに社会へ出ることがあっても不思議ではないくらいマニアックなものですから、一般に用いられているかどうかということがそれほど強く用字制限を行う理由とはなりえないと考えます)。貿易風さんのように、本文になんらの貢献も行わず、議論により合意が得られるまえに力ずくで機械的な用字変更を行うなどということは卑怯な行為に他なりません。--Anti-min 2010年7月30日 (金) 15:28 (UTC)
(追記)リンク元を見るまで気がついていなかったのですが、どうやらこの項目がメインページで新着紹介されていたようですね。そうすると、このページは選考に関わられた方などすくなくとも複数の方の目に留まっていることになりますが、それらの方々は「収斂」と書かれていることで質の悪くなった記事をわざわざ選出したというのでしょうか。あるいは「収斂」と書いたことで文意が取れなくなり、内容の理解が損なわれたりしたでしょうか。総じて、貿易風さんの編集こそ編集者の何らかの「意思を感じさせる」ものではないのですか、というのが私の言いたいことに近いかもしれません。--Anti-min 2010年7月30日 (金) 15:44 (UTC)
では、あらためて「ということには注意が払われて然るべきであろう」という部分を除去することと、本記事の「収斂」の部分を「収束」に置換することを提案します。
まず「~であろう」の部分について。そもそも英語版の原文に近い表現を日本語版でも採用する必要性は全くありません。あくまでこの日本語版の記事として、問題の表現が存在した状態としない状態のどちらが望ましいかを検討するべきです。「広いスコープで文章全体を組みなおす」のもいいですが、少なくともぼくはそのような編集をする気はありませんし、そのような編集をしないからといって百科事典にふさわしくない表現を取り除く編集をしてはいけないわけではありません(Wikipediaは多様な参加形態を許すプロジェクトです)。ぼくは、該当部分の除去によって「節全体としてのニュアンスを損なうだけで、何も適切にならない」とは思いません。百科事典としては、「強力な数値的総和法の中に正則でも線型でもないようなものがある」という事実を淡々と説明すればいいのであり、すでに指摘したように読者に対して執筆者の意思を感じさせるような表現は引用文中に含まれているのでもない限り使うべきではないでしょう。
次に「収斂」と「収束」について。まず、Wikipediaの記事はだれのものでもないので(WP:OWN参照)、初版を投稿した人がある表現を使ったからといってそれを使い続けなければならないわけではありません。用字選択は執筆者に委ねられるというのはとりあえずはどんな表現を使って投稿してもいいよということであり、その後の変更が禁止されることを意味しません。次に、もしかしたら誤解されているかもしれませんが、ぼくは「『収斂』という用語は使われていない」とか「『収斂』という用語を使ってはならない」と主張しているわけではありません。「収斂」でも間違いではありませんが、(数学用語としての)「収束」と「収斂」の両方を比べたとき、少なくとも2010年現在においては前者のほうが後者より一般的に使われているので、そちらを使ったほうが好ましいだろうということです。「まったく係わり合いにならずに社会へ出ることがあっても不思議ではないくらいマニアックなもの」とのご指摘についてですが、ぼくが「一般に用いられている」と書いているのは一般社会のことではなくほかならぬ数学の世界においてのことです(記事の主題が属する分野において、どのような表現が一般的に使われているかというのは重要な要素です)。通常の微積や解析学の教科書でも大多数が「収斂」でなく「収束」を用いていますし、高等学校の数学の教科書でも「収束」で教えています。『数学小辞典 第2版』(ISBN 978-4320019317)には収束は載っていますが収斂では載っていませんでした。また、Yahoo百科事典(→『日本大百科全書』より)で「収束」を調べると[1]、「以前は収斂(しゅうれん)ともいった。 」というような解説がなされており、現代では「収束」のほうが主流と考えて間違いないと思いますが、いかがでしょうか。--貿易風 2010年7月31日 (土) 11:01 (UTC)
「あくまでこの日本語版の記事として、問題の表現が存在した状態としない状態のどちらが望ましいかを検討するべき」に極めて同意いたします。私も端からその趣旨で以って先の説明を差し上げています。
「すでに指摘したように読者に対して執筆者の意思を感じさせるような表現は」については、既に指摘したように、執筆者の意思を感じさせるような表現というのがあなたの完全な誤解であって、当該記述はミスリーディングを防ぐためのもので、冒頭誘導のようなまったく形式上のものです。つまり、「○は~を見てください」と書いてあったらそれはただの形式上の案内文であって、文章をぜひ読んでくれという発信側の希望を述べたものではありません、本件も同じことです。
「英語版の原文に近い表現を日本語版でも採用する必要性は全くありません」とのことですが、私は原文に忠実でなければならないとの主張を行っていません。現に、私はいくつかの記事の翻訳では、話の流れの都合など(というか現実にはわたしの en-0 以下レベルの英語力が主な理由)で文章の組み換えや意訳の類を行っています。そうではなくて、文意の問題で必要とおもわれるので、原文のままに近い文章にしたのだと申し上げています。
「ぼくは、該当部分の除去によって「節全体としてのニュアンスを損なうだけで、何も適切にならない」とは思いません」とのことですが、今説明を差し上げている通りそれはあなたの勘違いです、ご再考願います。ミスリーディングを誘うことを目論むかの如きあなたの機械的除去は、「望ましい」とは正反対の結果を導いていると再度申し上げておきます。できればおとなしくお認めください。
「「広いスコープで文章全体を組みなおす」のもいいですが」と仰っていますが、曲解されているのではありませんか。わたしは「必要ならば」スコープを広げよといっているだけで、絶対に全文組みなおせとは申しておりません。しかしどうしても問題だと主張したければ、機械的除去ではなくミスリーディングを誘うような表現とならないための文章をきちんと考えるべきだということを私は繰り返し主張しています。どうしても問題だと主張するなら、そう主張する側がその責任をお果たしください。責任を果たすつもりがないことをおおっぴらに口にしつつ同じ口でそれでも機械的に除去するというのは、どうかとおもいます。
そのうえでなお「少なくともぼくはそのような編集をする気はありません」というのならば、いい案が浮かぶなら私がそのうちやりますので不適切な編集を強硬に主張するのではなくできればおとなしくすっこんでてください。少なくともあなたの相手をしている時間は、内容と表現の検討には費やされません。ここは重要で曲解されたくはないので先に釘をさしておきますが、わたしは記事を所有した気になって触るなと命じているわけではありません、記事を適切に触る気が無いのならば他の人間を信じて(ほかのというのは必ずしも私をもということではないですが、私のことも可能ならばぜひ信用していただきたいものです)、手を出すのを控えてくれないかとお願いをしているのです。私は翻訳は(少なくとも私が手を出せる範囲の翻訳は)雑草取りの一環でしかないと考えており(もしろ私が雑草取り以上の何か創造的な行為を行える人間ではないことは明らかですので)、翻訳だけしてそのまま放置するつもりは毛頭ありません。ただあなたの編集が適切なものでないからやめるように要請しているだけです。もちろん、時間を置いて読み直すことではじめて気づくことも多々ありますし、修正するにしても時間が掛かるかもしれませんが、そのままでも何も問題が無いのだから、それで十分でしょう。あせって行動するのでなくほかの項目を翻訳を含めて雑草取りを行いつつ拝読しながらと考えています。
「その後の変更が禁止されることを意味しません」について、それをそのままあなたにもお返しいたします。そのうえで、白駒さんが音頭をとってまとめられた合意は、編集合戦の回避をこそ第一主題とするものであり、用字変更のみの機械的置換を厳に慎むことを求めた条文が設定されています。あなたがそれに真っ向から反対の行動をお取りになっている、またなさろうとしているということは合意を反故にしようという行為でありよろしくないことです。
「「『収斂』という用語は使われていない」とか「『収斂』という用語を使ってはならない」と主張しているわけではありません」について、あなたがそのような主張をされていると主張したつもりはありません。ですが使用されているれっきとした用語であることを追認いただいたことにはなりますので、その点は感謝申し上げます。ただ、使用禁止を主張していないと仰りながら、実際にあなたがやっていることは事実上の使用禁止・表現排除であるわけですから、これは矛盾しています。意味が通る、誤りでは決してないものをあなたがどうしてそれほど排除したがるのか私には理解できません。この点については、永久に合意に至ることは不可能なのであろうなと諦念しております。
「一般社会のことではなくほかならぬ数学の世界においてのことです」と仰っていますが、別に一般社会の話を持ち出してはいません、「数学やそれに近い専攻の大学生でも」と申し上げております。数の問題でもありません。マニアックな主題を扱ったマニアックな項目で、内容は無視しているにもかかわらず、そこまで強いて「用字・表現のみ」一般性を求めることに意味があるのかと言っています。それから、なんのための「一般的な表現」なのか、相手に通じさせるためではないのかと申し上げておきます。そのうえで、「「収斂」と書いたことで文意が取れなくなり、内容の理解が損なわれたり」はしていないものと考えています。その理由として、新着選考および新着紹介で目にされたほかの方が(いったいどれくらいいらっしゃるのかは測りかねますが)「収斂」という用字を問題視されておられるらしいというようなことは、現在のところ目に見えたところではないように思われるから、ということを挙げておきます。内容が通じたからといって砕けた表現では場にそぐわないというようなことならば納得しますが、本件はそうではありません。きちんと通じるきちんとした表現であるのにも関わらず、それでもなおなぜその表現ではダメなのか、ぜひご教示ください。
総じて、あなた一人が、内容ではなく「表現のみ」にこだわり続けているということであると考えております。つまり、あなたが拘るのをやめれば終わる話かと存じます。いい加減に拘るのをやめてはいかがですか。--Anti-min 2010年7月31日 (土) 14:13 (UTC)

あなたが結び目関連の記事を編集しておられたころは、良い執筆者だと思っていたのですが、今度の件であなたの最近の編集履歴を追ってみて、愕然とし失望を覚えました。--Anti-min 2010年7月31日 (土) 14:13 (UTC)

(コメント)翻訳元であるen:Divergent series#Properties of summation methodsをあたると,"properties it is desirable" という表現を使っていて,Anti-minさんの書かれた「その節自体の主張が「普通ならこうでなければならない」という趣旨で提示され、」(強調は筆者による)という強制・要求の意味合いはありません.記事の最新版でも「持っていて欲しい「あるべき性質」」となっているので,「これこれの性質を持つことが望ましい.しかしそうでなくても(名前がついているくらいに)知られている総和法がある」とするのが妥当かと思います.
「収束」「収斂」の選択については貿易風さんと同じ意見です.敢えて付け加えると,閲覧者が書籍や一般のウェブページ,ウィキペディアの他の記事を見て「収束」をキーワードに発散級数のことを調べようとしたときに,本記事には直接たどり着けないことになりますが,記事の作成者であるAnti-minさんはこの点についてどう思われますでしょうか.
最後にAnti-minさん,編集のポリシーやスタイルは人それぞれですが,ある程度記事としての体裁や質を整えたうえで投稿されるようお願いしたいと思います.JAWP の記事は時と共に改善され発展していくものとはいえ,投稿された時点から既存の(編集を重ねて洗練された)記事と同等に扱われます.この視点からは,初版と言えども一定の質を備えているべきかと思います.修正や読み直しのために時間が必要であれば利用者ページを活用されるとか,せめて投稿の際に{{スタブ}}{{翻訳中途}}などのテンプレートを追加し,状況を明示してください.余談になりますが上の方で言及されたモノイドの編集,私自身の理由で編集に参加し,作業自体は楽しんで進めたのですが,私には結構な負担でした(私自身雑草とりのつもりで編集したのですが,Anti-min さんのコメントによると雑草とりの雑草とりをやったことになるんですね...).他の編集者にも閲覧者にも負担を強いるような編集スタイルでは今後の活動に差し支えがあるのではないか,と愚考いたします.NGiraffe 2010年8月1日 (日) 00:53 (UTC)
「という強制・要求の意味合いはありません」についてですが、それは文章構造の説明のために強調したもので、あくまで趣旨は「節全体としてのミスリーディングを避けるため」の注意喚起と考えているという点ですので、そこは誤解されませんよう。
発散級数を調べたいのならばそのまま「発散級数」をキーワードに調べれば良いのではないでしょうか。「収束」を調べに来て(あるいは調べていて)発散級数に興味を持ったというのであれば、「収束」に関する記述から入っていくでしょうし、それで直接でなくとも発散級数の記事にたどり着けるならばそれで十分なのではないかと思うのですがいかがでしょう。むしろ仰るとおりにしたとき、ある書籍で収斂と書かれていて他の文献へのポインタを求めにウィキペディアへ来た方は、何も情報を得られないことになりませんか。あるいは、「そんな奴は存在しないか、いたとしてもごく少数だから切り捨てるべきだ」とのご示唆と受け取るべきでしょうか。
それはともかく「ある程度記事としての体裁や質を整え」ていない投稿をしたつもりはないので、なぜそのような案内を提示されたのか図りかねているのですが、具体的にはどのようなものを指しておられるのか具体的にご指摘いただければありがたいのですが……。
ええと、とりあえずあるいていど推測で述べますが、英語版に既にまとまった記事があり、それを叩き台とするためにまず翻訳する、翻訳時に多少修正や削除や変更を加えるにしても、本格的な手入れはその後にまわすというのはそんなにおかしいことなのでしょうか。「既存の(編集を重ねて洗練された)記事」がどれも半日やそこらで殆ど何の欠陥もなく読者の欲しいものが全て揃ったような記事になるというのならばそのあたりは理解できるかもしれませんが……。
「テンプレートが必要な状況でも絶対に使わない」というようなことを主張したいわけではありませんが、少なくともスタブや翻訳中途などのテンプレートが必要な状態で放棄したと思われるようなものは残してはいないと思います(段階的に翻訳するタイプの手法で訳した記事があったとしても、投げ出したと思われるレベルで中断したりしてないつもりでいますが、他ごとをやって忘れているものがありましたら申し訳ありません。まさか訳せない単語や文がひとつふたつ残っているというようなものにもテンプレートを貼って「翻訳中途」とせよと仰るわけではありませんでしょう?)。
恐らく何かいろいろと誤解されている感じがするのですが「修正や読み直しのために時間が必要」なのは翻訳などでなくとも、ふつうのどの「既存の(編集を重ねて洗練された)記事」にも当たり前に言えることだと思うのです。そうやって時間を掛けてちょっとずつでも質を上げる行為がダメだと仰るなら、ウィキペディアには記事が存在できないことになりませんか。また、既に放置してはいないし自分でやるつもりだと述べてきたように、質を上げることを他人にまる投げしたりはしていないつもりなのですが、私が翻訳等の雑草取りをすることでみなさんにご負担をおかけしているのでしょうか。だとしたらもう翻訳はしないようにしますので、ぜひ詳しくご教示ください。あるいは「お前は不要だ」とはっきり仰ってください。私のことが信用ならない、あるいは編集の質が悪すぎて話にならないとお考えならば、ぜひ私の関わった全ての記述をウィキペディアから永久に削除したうえで、私のアカウントを永久に追放していただけると幸いです(記述が残ったままでは未練が残って、きっと化けて出てしまいます :-))。
わたしは、「雑草取り」というのは、もちろん単純な誤字脱字の修正も含まれますがそれだけじゃなくて、たとえばページ間で内容の調整をやったりというような校正に関する多くのことをも含んでいるのだと考えていますし、翻訳は(言語こそ跨ぎますが)まさにそういうものだと思っているわけです。しかし、モノイドの項での NGiraffe さんの編集は「雑草取りのつもり」などとご謙遜なさるようなものではないと思いますし、「雑草取りの雑草取り」などと滅相もないことを私は口が裂けてもいえません。モノイドの項でよからぬご負担をおかけしたのであればお詫びいたします。--2010年8月1日 (日) 08:42 (UTC)
「注意して然るべき」という表現について.英語記事の翻訳のもととなった版を見ても,ミスリードは起きない,というのが私の意見です.「AならばB](「正則または線型」ならば「強力」)から,「Aでない」場合のBの真偽は導けないので,「AでないがBである」場合があるのは不思議ではありません(数学分野の記事ですし,この手の論理構造を殊更強調する必要はないでしょう).
「収束」「収斂」については,それぞれの表記から,検索の手間にあまり差が出ないようにで本記事にたどり着けるようにできればいいですね,とだけコメントしておきます.
私が 2010年8月1日 (日) 00:53 (UTC)に書いたAnti-minさんへのお願いについて.ここ数週間のAnti-minさんの精力的な活動には正直驚いており,敬服の念を抱いていることを最初に申し上げておきます.私は,記事の翻訳を,リンク先の確認,リンクの是非,記号の統一といった「雑草とり(=創造性を発揮しなくてもできる作業)」まで一通り行って片がつくと考えています.その私にとって,Anti-minさんの翻訳記事には(氏のバイタリティからすると余技だと思われる)上記の作業が十分になされておらず,英文を和訳することを優先されているようなので,対等の編集者として御一考をお願いした,ということです.
ウィキペディアのルールやガイドラインが背景にあってのお願いではありませんし,編集者個人のポリシーやスタイルはそれぞれです.ご自身のスタイルに確信があるのであれば,「誰かが何か言っている」と鼻で笑って無視されればよいでしょう.この件についてこれ以上議論する必要もないかと思います.ただ私の書き方のせいで余計な心配をされたのならば,これについてお詫びします.NGiraffe 2010年8月4日 (水) 15:44 (UTC)
実際には「「AならばB](「正則または線型」ならば「強力」)」という文章ではない(「強力」はまた別な因子ではないか)とも思いますが、それはともかく「「AでないがBである」場合があるのは不思議ではない」ということと、実際に「B であるものがある」というのとでは論理的に大きなギャップがあると思いますし、また「数学だから当然」というのは原文の "should be" や訳文の「然り」と意識としては同じものではないか、とも考えます(わたしはミスリーディングを防ぐためとは思っていますが、論理構造の強調だとは考えていません、「当然ありうることとして気にするだろうだし、実は本当にあるのだ」というようなことを言っているに過ぎないと考えます)。
詳細なご説明ありがとうございます。「確信があるのであれば(中略)無視されればよい」と仰っていただいていますが、すみません、確信どころか元来の不安症でありまして、鼻で笑うなどとんでもないことで現在まだ非常に混乱しております。ご説明いただいたことを取りまとめると、私の投稿は NGiraffe さんの仰る「一通り」が「{{スタブ}}{{翻訳中途}}などのテンプレートを追加」を要する程に「ある程度記事としての体裁や質を整え」るに満たないというご指摘であると認識いたしました。(「余技」という言葉の意味を理解していないのでそのせいで外しているのかもしれませんが)そういった後処理も自分ではやってきたつもりなので、ご示唆に従ってどうするべきか再考してみてはいますが、いろいろと考えあぐんでおります。もうしばらくは記事の編集を自重することになりそうです。--Anti-min 2010年8月6日 (金) 03:17 (UTC)
議論に慣れていないこともあり、どのようなインデントで、どの場所に書くべきかどうか僕には良く分りません。もし大きな問題があるようでしたら、お手数ですが移動していただければと思います。
今のところ、記事に関する論点としては、「収束」か「収斂」か、「英語版総和法の性質」についての最後の(英語版での"It should be noted ..."に対応する)文での表現、の二つが問題になっているのだと思います。これらは独立した問題で性格もやや異なりますから、必要ならば節分けして議論した方がいいかもしれませんね。
まず前者についてですが、Anti-minさんを支持します。貿易風さんもNGiraffeさんも、もしまだご覧になっていないならば、Wikipedia:ウィキプロジェクト 数学/函数と関数を一読され、またリンク先の議論(長大ですが)を一目見ていただきたいと思います。収束/収斂と関数/函数は非常に近い問題と言っていいと思います。ウィキペディア上ではこの様な表記の問題が大きな議論、編集合戦に発展してしまうことが多いようで、その反省を元に形成された合意だと僕は理解しており、尊重すべきと思います。また個人的には、今挙げたリンク先で議論されているように、収斂を収束に変えることで得られるメリットがさほど大きくない、或いは大きいかどうかについての判断が人によって有意にわかれる以上、記事に対しもっとも大きな貢献をされている(と僕には思われる)Anti-minさんの訳語を尊重するのが筋だと思います。
後者についてですが、「注意が払われて然るべきであろう」というフレーズは、書き手の価値判断というよりかは、読み手への注意喚起(いままでこれこれの性質を大事だといってきたが、しかし、その性質を持たずとも数値的に有用なものはある)でしょう。 貿易風さんの文でも、注意深い読者ならば、論理構造からこの注意喚起を読みとれるでしょうが、読みとれない読者もまた出てくると思います。その点で、貿易風さんの文はAnti-minさんの文よりも質が多少とも低くなっていると考えます。
貿易風さんがひっかかっているのは「注意が払われて然るべきであろう」という強い言いまわしなのではないか、と思いました。英語版での"It should be noted"(これや類似のフレーズは非常にありふれた表現で百科事典でも良く使われるものと思います)に対応するような日本語の表現で、良く使われているものがあまりないのがこの議論を生んだ一つの要因だと思います。僕も少し考えてみたのですが、注意喚起をしていることが明確で、日本語として良く使われているものは残念ながら思いつきませんでした。内容を落さず、より耳触りのよい表現が見つかるまで、Anti-minさんの文を残すのが、妥当な判断のように僕には思われます。
最後にAnti-minさんの翻訳活動についての僕の感想を述べます。僕はウィキペディア上での翻訳記事の一般の質についてはあまり良く知りませんが、Anti-minさんの翻訳の質は絶対的に言って十分に高く、注意深く訳されているように感じます。少くとも、Anti-minさんの翻訳が在ることが他の利用者の負担になるなどということはないと考えます。例えば、翻訳に手こずる一部が英文のまま残されていることは、体裁は悪いかもしれませんが、記事の内容を主眼に考えればむしろ誠実な態度と言えるのではないでしょうか。もちろん内容と体裁が双方良いにこしたことはありませんが、ウィキというシステムを使っている以上(当然ながら)初めから完成された記事はのぞまれていないでしょう。内容と体裁、どちらを重視するか、そのバランスは参加者によって異なると思います。Anti-minさんはそのバランスが一般に比べて内容の方によっている、ということはひょっとするとあるかもしれませんが、それが問題視されるべきこととは僕には思えません。--働けよおっ 2010年8月2日 (月) 15:15 (UTC)
(コメント)私はwikipediaの編集に関してほとんど造詣はありませんが、僭越ながらいくつかコメントだけさせてください。
  1. まず、私は、Anti-minさんが多くの記事を英語版から翻訳されていることに敬意を表しますし、翻訳された記事がさしあたって数学に関係する記事として致命的に問題がある状態でなおざりにされているものがあるようには思えませんでした。翻訳された記事がAnti-minさんご自身や別の編集者によってさらに充実されていくのはwikipedia本来の姿だと思うので、Anti-minさんのような方がwikipwdiaから去ってしまわれるのは、wikipedia自体にとっても決して好ましいことではないと思います。Anti-minさんには今後もwikipedia発展のためにご尽力いただければと僭越ながら願っています。次に述べる観点やwikipediaの翻訳記事のあり方のいずれについても、どうも議論がはじめから少し剣呑な雰囲気であるように私には思えました。
  2. 「注意が払われてしかるべきであろう」という記述を削除した理由に関して、私は貿易風さんの説明には得心がいっていません。「Aという性質を持っていることが望ましいが、そうでないものもある。例えばAという性質を持っていない○○や××が有益な方法であることに注意しよう。」とか「記号の乱用でAのことをBと書いてしまうこともあるから注意しよう。」「Aという概念はBという概念と混同しやすいので注意しよう」というような《注意》が百科事典にとって不適切な記述であると言い切ることはできないと考えます。「読者に対して執筆者の意思を感じさせるような表現」ということの意味が的確に掴めませんでした。しかしとはいうものの、その部分だけを百科事典にとって適切か否かを議論することやその部分を復活したり削除したりということで議論の応酬になるのはあまり建設的ではないと思います。NGiraffeさんのご提案もあるようですから,もう少し穏やかな書き方に書き換えてもかまわないのではないかと思います。ところで、英語版の方では、8/2の段階で“it shoud be note that”の部分は削除されているようだということも情報提供の意味で付記させていただきます。
  3. 収束か収斂かという議論はさらに建設的ではない話題だと考えますが、『「収斂」という用語は普通に用いられており』というAnti-minさんの発言には違和感を覚えます。「函数か関数か」とか「線形か線型か」は大学での科目名とか書籍によって半々くらいでどっちもどっちだという感覚はありますが、最近の出版物や数学に関連した箇所で「収斂」という用語を真正面から使っているものを私は寡聞にして知りません。もちろん古い本ではそうなっていることもあるでしょう。ひとつのデータとして、科研費データベースを引いてみます。研究分野として数学を設定して検索してみると
  • 線形3042件 線型1156件
  • 函数974件 関数5481件
  • 収束1316件 収斂0件
という感じです。『収束/収斂と関数/函数は非常に近い問題』だという働けよおっさんの議論にも違和感を覚えます。さすがに収斂という語を収束という語と同じ意味で用いることは稀になりつつあるのではないか、という程度の意味で貿易風さんやNGiraffeさんの判断には賛同できると思います。
しかし、現状のwikipediaの記事の中では収束と収斂が同一記事内においてさえ混合して用いられており、級数の項目でも両者が混合して用いられています。いまどちらの表記に一本化しなくても、検索の便という観点では致命的な問題があるというほどでもないように思われますし、その用語だけを機械的に置換することがさほど有益であると思えないのですがいかがでしょうか。
失礼な物言いがあったとすればご容赦ください。--Henon 2010年8月3日 (火) 10:11 (UTC)
(インデント戻し)「~であろう」の部分について。とりあえず代替案として「ただし、強力な数値的総和法が正則性・線型性を持っているとはかぎらない。」を提案してみます(注意喚起のニュアンスは十分伝わると思います)。なにか意見があればお願いします。
ちなみに英語版のen:MOS:NOTED(Instructional and presumptuous language)では「remember that」や「note that」のような「百科事典的でない読者に直接語りかける表現」は避けましょうと書いてあり、Henonさんが指摘された英語版での8/2の除去はこれに基づいたもののようです。
「収斂」or「収束」について。PJ:MATHには用字を自分好みのものに変更するだけの編集は慎んでくださいと書いてありますが、ぼくは「収斂」より「収束」が自分の好みだから変更したいわけではなく、「収斂」より「収束」が百科事典で用いる表現として好ましいと考える具体的な根拠を複数示した上で変更を提案しています。Anti-minさんがあくまで「収斂」という表現のままを維持することを希望されるのでしたら、数学の世界でも用いられることが極めてまれな表現である「収斂」を、積極的に採用すべき根拠を示していただけませんか。もしAnti-minさんが積極的に「収斂」を使うべきという理由をお持ちで無いにもかかわらず、PJ:MATHの文言だけを根拠に差し戻しあるいは変更の提案への反対をされているのであれば、それはPJ:MATHの記述の本来の目的にかなったものではないと思います。
これまでの意見を見る限り、「収斂でも間違いはではない」「収斂でも問題視されていない」「収斂を使って内容理解が損なわれているわけではない」といったことが指摘されていますが、それと全く同様に「収束でも間違いではない」ですし、「収束でも問題視されることはない」でしょうし、「収束を使っても内容理解が損なわれているわけではない」わけです(もっとも、大半の人が学校で習っている「収束」ではない表現を用いることによって、「『収束』なら知ってるけど、記事に書いてある『収斂』がそれと同じ意味だと気づかなかった」というような人の内容理解を損ねてしまう可能性はいちおうあります)。また、「数の問題でもありません」とも書かれていますが、他の条件が同じならその主題が属する分野で圧倒的に多く使われ一般化している表現を使ったほうがよりベターかと思います。
最後に、Henonさんから「検索の便の観点からは置換はそれほど有益ではないのではないか」という指摘がありましたが、提案者であるぼく自身は検索の便を理由に変更の提案をしているわけではないです(Anti-minさんが指摘されている通り、発散級数について調べたければはじめから「発散級数」で検索すると思うので)。--貿易風 2010年8月6日 (金) 04:27 (UTC)
上の発言から1週間ほど経過しました。
まず、「~であろう」の部分についてですが、念のためこの発言からもう1週間待って反対意見が無ければ上で示した代替案に書き換えようと思います。
次に「収束」or「収斂」ですが、こちらもあともう1週間ほど様子を見て、「収斂」のままにしておきたいという方から「収束でなく収斂を採用すべき積極的な理由」が示されないままのようであれば当初の提案どおり「収束」に書き換えようと思います。--貿易風 2010年8月13日 (金) 03:06 (UTC)
(コメント)Anti-minさんや他の方々からのご意見が出るまで待とうかと思っていましたが、貿易風さんが再度のコメントを書かれたので、あえてやや批判的な観点でコメントさせてください。
 「注意が払われて然るべきであろう」という記述と英語版の「should be noted」について、英語版の編集のための注意書きを少しだけ見てみましたが、日本語版におけるそれよりも、かなりstrictな方針なんだなと正直感じました。「○○だが、××ということにも注意が払われてしかるべきであろう」という表現は、wikipediaの記事においていつでも肯定されるべき表現であるとは、僕も考えていません。例えば、○○に比べてきわめて重要性の低いが、ごく稀に起こる例外的な××を取り上げて、「××ということも起こりうるということに注意が払われて然るべきであろう」などと書けば、編集者が不当に××を強調しているということになってしまうでしょう。それを「編集者の意思」というのならばそうかもしれません。しかし、前に書いたように、「注意しよう」というような類の表現がいつでも不適切だとは、少なくとも僕には思えないし、また今回のAnti-minさんの記事があえてその部分だけ取り立てて書き直さなければならないような不適切な文言ではないと僕には思えます。私は「発散級数」の内容を十分に理解しているとは言えませんが、「満たしていることが望ましい性質」からは外れている総和法が「なぜ強力たり得るのか」といった説明を追加する方がよほど百科事典にとって生産的だと考えます。
 ちなみに、wikipediaのほかの記事に次のような文章があります。
  • 剰余類 「重要なこととして、左剰余類と右剰余類の中に一致するものがありうることには注意すべきである。」(これはAnti-minさんの翻訳ですが、英語版にはnote thatを含む文章が残されています。)
  • 群 (数学) 「加法と呼ばれている二項演算をもとにしてできる群もあるので、注意する必要がある。」(これは昔に私が書いたものかもしれません。)
  • リー環 「区別のためにリー環とリー代数は必要に応じて使い分けられる一方で、リー多元環を略して簡単にリー環と呼ぶことも多いため、場合によっては注意を要する。」(これは私が書いたものではないと思います。以下同様。)
  • 群の拡大 部分節「注意」
  • 関数 (数学) 「個々の y の値について対応する x の値が一つに決まるとは限らないことに注意しなければならない。」
  • フーリエ変換 「この手法は定義域が実数全体である場合にしか適用できないことに注意が必要である。」
  • 有理関数 「ここで注意すべきは、 πが無理数であることと、 上のfが有理関数であることは両立する点である。 「関数が有理関数である/ない」という概念と、「返り値が有理数である/ない」という概念を混同してはならない。」
  • スペクトル (関数解析学) 「全単射性は逆元を有するための十分条件であって、必要条件でないことに注意されたい。」「X の完備性が閉グラフ定理の適用に必要であることに注意されたい。」
つまり、wikipediaの記事の多くの場所に、様々な「注意」を促す文章が存在し(またそれらは未だに「note that」というような記述が残されている英語版の翻訳であるという場合もありますが)、それらの注意が取り立てて不適切であるとも思えません。Anti-minさんが書かれた部分もこうしたほかの多くの記事と同様、不適切な意思表示とは私には思えないのです。あえて付け加えれば、数学のように何が正しいかが(他の分野と比べると)相対的にある程度確定している分野では、「注意を促す文章」が「不適切な形で編集者の意思が表明されたもの」ではなく、「数学的内容上の注意を表明したもの」であることも多々あると考えます。
 「収束」と「収斂」について、私が書いた検索の便の議論は主としてNGiraffeさんへの応答でした。私は、「収束」の方が一般的に用いられていることには同意しますし、個人的には「収束」と「収斂」はそもそも読みが違うなどの点も考慮されるべきだと思います。「収束」と「収斂」が同じ記事の中で混同して用いられているということに違和感を覚えないわけではありません。しかし、あえて貿易風さんへの応答して述べるなら、前にも指摘したように、級数だけでなくほかのいくつかの項目で既に「収束」と「収斂」が混同して用いられている現状があり、しかもそれはAnti-minさん以外の方の編集もあるように見受けられます。もしこの用語を統一したいと考えるなら、この発散級数というようなかなりマニアックな記事のノートで発散級数の項目に限って「収斂」をすべて「収束」に置き換えることだけを目的とするのではなく、せめて級数の項目のノートで議論し、合意を得るといったことが必要なように感じられます。「収斂」を用いる方にはその方なりのお考えがあるでしょうし、そうした場合に自分の選択した用語を機械的に置換されてしまうことへの反発もあるでしょうから、ひとまず混用のまま各編集者の用語の選択にゆだねようというのが、全般的に合意の得られている方針なのではないでしょうか。
 私は貿易風さんのご提案に完全に反対というわけではありませんが、あえて時間を区切って書き直さなければならないというような問題には思えないのです。また、貿易風さんが発散級数という項目に拘る理由もよくわかりません。貿易風さんの仰っている論点は、もう少し大きな(そしておそらくは発散級数という項目よりもずっと閲覧者の目に触れることが多いであろう)他の項目において、議論されるべきことのような気がしてならないのです。--Henon 2010年8月13日 (金) 05:43 (UTC)
「~であろう」の表現について。まず、Henonさんが列挙されているような「注意喚起」の文章ですが、Wikipediaの記事というのは永遠に未完成な状態であり、自浄作用がうまく働かずに不適切な記述がずっと残っていてもおかしくないので、そのような記述が現時点で複数存在するからといってそれらが適切であるとは限りません。実際、上で挙げられているのと似たような文章が百科事典的でないなどの理由で事実の提示にとどめた表現に書き換えられるという編集も目にしますし、それらの例は「百科事典として適切な表現ではないがたまたま2010年8月現在では修正されていないだけ」と解釈することもできます。また、今回問題になっている箇所は、Henonさんが列挙された例にあるような「~に注意する必要がある」という注意喚起だけでなく「注意が払われて然るべきであろ」というように「意志・推量」を意味する助動詞を使って「意志表明」が行われておりそこも問題視しています(数学的内容上の注意の表明をするだけならこのような表現は必要ありません)。
とりあえず、Henonさんが「あえてその部分だけ取り立てて書き直さなければならないような不適切な文言ではない」とお考えであることは理解しましたが、ぼくが上の「2010年8月6日 (金) 04:27」で述べた代替案についてどうお考えなのかがよくわかりません。「元の状態でも問題ないと思うが書き換えても問題ない」と思うのであれば書き換えに積極的に反対する必要はないので、ぼくが「2010年8月13日 (金) 03:06」に提案した書き換えについて積極的に反対されるのかどうか(つまり1週間後までにほかに反対意見が出なかった場合に代替案に書き換えられることに納得できるかどうか)教えてください。もし積極的に反対されるのであれば(書き換えられることに納得できないならば)、「元の状態でも問題ない」だけでなく「書き換えないほうがいい」と考えられる根拠をお願いします。
「収束・収斂」について。「貿易風さんが発散級数という項目に拘る理由もよくわかりません」とのことですが、ぼく自身は「発散級数という記事で自分が適切だと思う改変を行ったら差し戻されたので『編集者間で意見の相違があるならノートで話し合う』というWikipediaの原則通りにノートで議論を始めた」というだけのことで、特別に拘っているとは思っていません。級数の記事はHenonさんの「2010年8月3日 (火) 10:11」の発言があるまでじっくり読んだことがなかったので、もし読む順序が逆だったらそちらのほうで議論が行われていたかもしれません。そういう意味ではここで「収束or収斂」の議論が行われているのは「たまたま最初に編集が対立したのがこの記事だったから」であり、偶然ともいえます。
あらためて級数を読むと、確かに収束・収斂が混在しており、さらに「収束と収斂が同一概念であることを示す文章」も見当たらないので不親切な記事になってしまっていると感じています。ぼくは、級数の記事では、記事中で説明に使う用語は「収束」とした上で一番最初にconvergeの定義を示す箇所に補足として「収束はかつて収斂と表現されていた」ということを加筆すればいいかなという考えですが、ここはあくまで発散級数の記事なので前回・前々回のコメントでは触れていませんでした。
ここでの「収斂→収束」の提案はいったん保留として先にノート:級数にてさきほど書いたことを提案するという手もあると思いますが、ぼくはとりあえず上の発言で述べたように1週間後までは様子をみる期間にしたいと考えています。こちらの話題についてもHenonさんが本記事での書き換えに積極的に反対されるのかどうか教えてください。もしHenonさんが積極的には反対されず、他に反対される方がいらっしゃらないままのようであればとりあえず本記事では書き換えを行った上であらためてノート:級数でも前述の内容を提案しようと思います。逆にHenonさんを含めどなたからか反対意見があるようであれば、ここでの提案はいったん保留としてノート:級数での議論を先行させます。--貿易風 2010年8月14日 (土) 03:35 (UTC)
(1)級数にまでフレームを飛び火されるのは勘弁してください(既に微妙に飛び火しています)。収束でも収斂でも見出し語レベルの単語で、基本的に一度は converge という英訳が付してある状況であるというのが実際のところです。この点からすると、何の説明もなく混在しているとも、そのために同じ意味だと理解できないで困るという人が出ることも、私には言い掛かりに近い主張ではないかと感じられました。いっそ専門用語は訳してはいけないというようなルールにしますか? 数学に関する日本語の文書でも専門用語や人名は英語や原語のまま使うことも珍しくはありませんから、「日本語版だから」「無理やりにでも訳すかカナに開くのがjawpの表記ルールの原則だから」と言っても決して無理な主張ではないとおもいます。
(2)先に細かいことを指摘しておくと、ご自身で「う」が「意志・推量」を意味すると言った直後に「あろ」が「意思表明」だとされています。動詞の後に付く「う」に意志での用例が多いことからの早合点かとはおもいますが、「う」が意志だとすると、「あろう」は「~の状態でいたい」とか「~になってやるんだ」という意味に近いものになって文脈的にかなり苦しい解釈だと思います。「然る」と合わせて、自然な推定を意味するものととるのが普通かなと思うのですが。
(3)ウィキペディアに参加する上で重要なことと私が考えていることの一つに、ウィキペディアのルールでトップダウン式のものは、GFDL(+CC-by-sa)のコピーレフトライセンスに基づくということとNPOVのたった二つで、あとはこれらの解釈であり補強となる基本方針と、実際の編集事例やフレームウォーなどから経験的に生まれ育てられたボトムアップ方式のルールだけだという点です。この意味で、貿易風様の仰る「Wikipediaの記事というのは永遠に未完成な状態であり、自浄作用がうまく働かずに不適切な記述がずっと残っていてもおかしくない」は、各種のルール、ここではMOS:NOTEDでしょうか、についても当てはまることで、実際の事例や各分野の文章の性質や慣習に十分に触れられずに、安直な原則論のままルールの文言が実際と乖離した内容で残されているとしてもおかしくないということに、十分留意するべきではないかというのがウィキペディアのルールに対する私の個人的な考え方です。もし、ルールに従っただけなのに文句を言われるなんておかしいというような感覚でいらっしゃるのでしたら、できればウィキペディアのルールというものに対する姿勢を、ちょっとでもいいので考え直してみていただきたいと思います。無理にとは言いませんが。
(4)Wikipedia:ウィキプロジェクト 数学/函数と関数での合意を貿易風様は自分のいいように解釈して、自分はこの合意に従わないでも問題が無いはずだが、他のものは自分が出したルールに確実に従うべきだと仰っているように見えます。しかし、そもそも、まさに「百科事典で用いる表現として好ましいと考える」という思考や「自分は正しいのだから従うべきで、自分を納得させられないなら力ずくで決着させる」というような行為が、数学分野ではこれまで幾度も泥沼の編集合戦や参加者間の対立を実際に生んできたので、そのような発想や行動を禁じるというのが合意の趣旨だとわたしは思います(この合意について各所で白駒様がお書きになっているコメントから、この解釈は正しいとほとんど確信しています)。だから貿易風様の「PJ:MATHの記述の本来の目的にかなったものではない」という解釈は当たっていないと思う、ということです。また、合意は「どちらも間違い」ではないことがもともと前提としてあるので、「それと全く同様に」以下にお書きの部分は補強になっていません。
確かにウィキペディアの「記事」そのものはだれの所有物であってもいけないものですが、しかしそれと同時に、記事に掲げられた「記述」は参加者各人の手によってもたらされた属人的なものですし、誰かが書かなければ何も存在しないのだから、それを「記事の所有権」や「共同作業」を理由にないがしろにすることは不当なことだと私は考えます。例えばそのやり方でないとモチベーションが保てないというような、他人から見ればもしかしたらどうでもよく見えるような理由でも、それがウィキペディアの目的外利用ではなく百科事典を編纂するという目的に資するなら、尊重するということもあってよいはずだと思います。語弊があるかもしれませんが、「損して得とれ」や「急がば回れ」(はちょっと違うか)というような慣用句がありますよね、という感じです。
(5)こうやって、たまたま見つけた某記事がたまたま某ルールに厳密には従っていなかったからといって、貿易風様のように「自分の言うことに“はい”か“YES”で応えなさい、あなたの主張には納得しない、いつまでに納得させられないなら自分の主張どおりにする」というような調子(に少々誇張してはいますが、失礼ながらそんなふうに私には見えます)で進められると、本件あるいは本記事に限らず、ことあるごとに各所でそのような行為が繰り返されそうで、恐怖すら覚えます。こういう状況は容認しがたいです。
貿易風様のやり方は、まったく意見が出ずに話が動きさえしないというような場合にはもしかしたら正しいのかもしれないですが、少なくとも本件はそうではないと思います。少なくとも、編集合戦(を危うく引き起こしかねない状況)を生み出した張本人である貿易風様がそういう時間を切って脅すような持っていき方は、いろいろな面で事態を悪化させることになりかねないでしょう。
大いに脱線したような気もしますが結局言いたいことは一つです。ここは両者(両派)が意見を出し合うに留めて、あとは第三者に任せるという選択肢はありませんか?(無論、私は「第三者」ではないです)
乱文にて、また、相当失礼のある書き方をしてしまったような気がしますが、申し訳ありません。その点平にご容赦いただき、よろしくご検討いただければ幸いです。--Clonecrown 2010年8月14日 (土) 14:20 (UTC)
「~であろう」という表現について,私も意見を述べはしましたが,議論を連ねて結論を出すような問題とは正直思えません.Wikipedia の記事は進化していくものですし,元の文章が不適切であるかどうかに関わらず,これを(不適切な部分を含まない文章に)編集することに問題はないと考えます.議論の過程で代替案が出ていることですし,時間をかけずにこれを検討し,問題がないことを確認したうえで採用するのが現実的ではないでしょうか(既に記事は保護されてしまいましたが).
少し脱線になりますが,貿易風さんの議論の進め方について意見があがっていますが,私は問題視していないということを追記しておきます.一週間という期間の設定には検討の余地があるかもしれませんが,反論やそれに続く議論を封じたわけではなく(更に反論の方向性まで提示されている),当該時点での現実的な対応策を提案しただけ,と私には読めました.一者択一を迫るとか脅すとかいった印象はありません.とはいえ,現状を見ると,議論の仕切りなおし,もしくは第三者に対応を任せるという Clonecrownさんの案もありかな,と思っています.NGiraffe 2010年8月15日 (日) 01:47 (UTC)
状況把握のため確認させてください。
Clonecrownさんのアカウント取得日時(「2010年8月5日 (木) 08:27」)が、Anti-minさんの現時点での最終投稿日時(「2010年8月6日 (金) 03:17」)と比較的近いことと、編集対象の記事が似ていることが気になったのですが、上のClonecrownさんの発言はAnti-minさんが気分をかえるために別アカウントで発言されたものなのか、それとも全くの別人なのか、どちらでしょうか?--貿易風 2010年8月15日 (日) 05:06 (UTC)

(インデント戻し)ぼくがこの節で提案している内容より深刻な事態(下の節参照)が発生しているようなので、相対的に重要度が低いと考えられるこちらの案件はあとまわしにします。--貿易風 2010年8月15日 (日) 05:06 (UTC)

(コメント)インデント等に問題がありましたら、お手数ですが修正していただければありがたいです。僕が述べたい事の殆どはHenonさんの二つの発言に含まれています。また、Clonecrownさんのご意見にも強い説得力を感じています。正直に言いまして、貿易風さんの編集姿勢は僕にはかなり強引なものと映ってしまいます。貿易風さん、表面的なこと(と敢て言わせていただきます)にこだわるよりかは、Anti-minさんの様な方が記事を書くことに集中できるような環境、雰囲気を作る方が重要だとはお思いになりませんか? Emstyleさんの編集も含め、何やら一部の議論、編集がヒートアップしすぎている気がします。事態が穏かに収拾することを願っています。
貿易風さんが提案された「ただし、...かぎらない」という表現は上手い表現だと思いました。「第三者に任せる」という提案がClonecrownさんから出され、NGiraffeさんからも肯定的に言及されていましたので、(小手先ですが)順序をちょこちょこ入れ換えて節全体の代替案を作ってみました。(少なくとも自分では僕は今回の事態の第三者であると思っています。)User:働けよおっ/test2をご覧ください。ニュアンスを損ねたり、内容的な欠陥があったりしないと良いのですが、どんなものでしょうか。
なお、これは強調しておきたいのですが、僕はAnti-minさんの元々の版に問題があったとは思っていません。正直に言うとAnti-minさんの版そのままで良いと思っていますが、議論を収拾する妥協案の叩き台になればいい、程度の考えでいます。
次に僕が議論に参加できるのがいつになるか分りません。もしUser:働けよおっ/test2が有用なものでしたらご随意に使っていただきたいと思います。--働けよおっ 2010年8月15日 (日) 16:20 (UTC)
代替案の作成ありがとうございました。現在、上にも書いたようにこの節内で議論していることより優先的に解決すべき問題が出てきてしまっているので、そちらが解決してこちらの議論が再開できるときに参考にしようと思います。--貿易風 2010年8月16日 (月) 01:44 (UTC)

「2010年8月14日 (土) 07:11」の編集を差し戻す提案[編集]

「2010年8月14日 (土) 07:11」に発散級数級数で行われた、Emstyleさんによる編集(差分差分)についてですが、両方とも編集内容と要約欄の記述からしてWP:POINT違反であるように思われるためそれぞれ差し戻す(それらの編集が行われる直前の版の状態に戻す)ことを提案します(現在発散級数の記事は保護が掛けられているので、こちらの方を差し戻すのは実際には保護が解除されてからになりますが)。
ちなみに、Emstyleさんのアカウントが取得された日時は「2010年8月6日 (金) 03:32」なのですが、Anti-minさんの編集履歴は(現時点では)その15分前の「2010年8月6日 (金) 03:17」が最後となっているようです(編集対象の記事もある程度かぶっています)。お二人は別人なのか、それともEmstyleさんの編集はAnti-minさんが別アカウントで行った編集なのか、判断がつかないので、もしご本人がここをごらんになっていれば回答をお願いします。
もうひとつ、さきほど気づいたのですがWikipedia:進行中の荒らし行為/長期/Lemの「進行中」の節にAnti-minさんの名前が追加されているようです(差分)。もしこれが事実であればブロック対象ですが、事実無根であるなら差し戻したほうがいいと思います。
これについても、もしAnti-minさんがここをごらんになっているのであれば回答をお願いします。--貿易風 2010年8月15日 (日) 05:06 (UTC)
(補足)書き忘れていましたが、ここでこの提案が行われているということはノート:級数でも告知済みです。それと、この発言から1週間が経過した時点で反対意見が無ければ、「上記の2つの編集はWP:POINT違反として直前の版の状態に戻す」ということに合意が得られたと判断しようと思います(WP:CONで示された方法に基づく)。--貿易風 2010年8月16日 (月) 01:44 (UTC)
(発散級数および級数の項目の差し戻しに賛成)少し見ない間にいろいろなことがあったようなので、いささか戸惑っておりますが、貿易風さんがご提案になっている発散級数および級数の記事を差し戻すことには賛成します。--Henon 2010年8月17日 (火) 08:16 (UTC)
(追記)級数の項目にも保護依頼が出ていることを知りました。編集合戦と糾弾されている一方の当事者が私のようなので、念のため説明を追記しておきたいと思います。発散級数の項目においては、現在、主として翻訳を行われたAnti-minさんとその記事を編集した貿易風さんが対話を行っており、NGiraffeさん、働けよおっさんおよび私が意見を述べている状況でした。そもそもこのノートで行われている対話は、「収斂」という用語の問題と「注意が払われてしかるべきであろう」という「注意喚起」の記述の妥当性であったにもかかわらず、Emstyleさんの編集は、このような対話が行われている状況を飛び越えて、「収斂」を含む文章を書き換えたり、「正則性」に関する記述を削除したりするもので、記事の内容それ自体を劣化させていると私は判断し、いったん差し戻しました。また級数の項目で私が行った編集は、リンク不全のアンカーを修正したに過ぎません。その後Emstyleさんが、発散級数の項と同様「収斂」を含む文章を書き換えているだけで、私は何も触っておりません。
 率直に言って、Colocoloさんがなぜ発散級数の項目の保護依頼をなさったのか、またKMTさんが1ヶ月の全保護に踏み切ったのか理解に苦しみます。現在も対話が進行中で、Emstyleさんの編集に問題があることは明らかであると私には思えますが、できることならお二人に経緯を説明していただきたいとさえ思う次第です。級数の項目に至っては、Crt4cuさんの保護依頼はより一層理解に苦しみます。私は「収斂」という用語の可否については、もう少し広い場所で議論した方がよいというコメントを述べましたが、「級数」の項目でEmstyleさんと編集合戦を演じているわけではありません。にもかかわらず、『WP:POINT合戦。相当期間の保護を申請します。』とはどういうことなのか、真意をCrt4cuさんに説明して頂きたいくらいです。
 Anti-minさんを「進行中の荒らし」の項目に掲げるのは、もはや開いた口がふさがりません。このような編集を行ったMin powerさんは、根拠があるなら示すべきです。それができないなら早急に差し戻すべきだと考えます。過去Lemさんをめぐってどのようなやり取りがあったのかをフォローしているわけではありませんが、Anti-minさんの記事はwikipediaにとって十分に貢献しているし、また貿易風さんとの間でやや剣呑なやり取りがあったとは思いますが、ノートページで対話が進行中ですし、「荒らし」などと断定するのは不当だと考えます。--Henon 2010年8月19日 (木) 18:54 (UTC)

反対意見の無い状態で1週間以上経過したので、ここで提案した内容で合意形成されたと判断し、級数の項目で差し戻しを行いました(差分)。本項目は保護中で編集できないので、Wikipedia:保護解除依頼に提出しておきます。--貿易風 2010年8月24日 (火) 03:26 (UTC)

(報告)保護が解除され、「2010年8月13日 (金) 12:11」の版への差し戻しが行われました。現在ノート:級数で項目名変更を戻す提案をしているので、そちらの件が解決したらあらためて上の節で議論していた内容の再提案をしようと思います。--貿易風 2010年8月26日 (木) 12:05 (UTC)

再提案[編集]

級数の記事名の案件が予想以上に長期化してしまったため遅くなってしまいましたが、以前に予告していた通り

  • 「総和法の性質」の節を、利用者:働けよおっ/test2にある草案(代替案としてぼくが提案したものに働けよおっさんが手を加えたもの)に置き換える
  • 記事全体について、現時点で(convergeの訳語として)「収斂」と表記されている部分を、より一般的な表記である「収束」にあらためる

の2点を再提案します。ちょっと長めに2週間ぐらい様子を見てそれぞれ反対意見がでなければ記事本文を編集しようと思いますので、もし反対意見がある人がいらっしゃいましたらこの下に書いてください。--貿易風 2010年11月17日 (水) 12:13 (UTC)

仮にこの件について投票に持ち込まれるような事態になってもなお反対するというほど強力に反対というわけではありませんが、いくつかnegativeなコメントをしたいと思います。
  • 「注意が払われて然るべきであろう。」という文章を排除しなければならないとする明示的なルールがあるのか疑問です。私はwikipediaのルールについて十分に把握しているとは言えませんが、英語版で掲げられている表記に関してのルールのみで、当該記述が不適切であると判断するのはいささかやりすぎなのではないかと思います。
もしwikipediaの表記に関するルールで私の見落としている点などがあればご指摘くださるとありがたいと思います。
  • 「収斂」よりも「収束」が一般的に利用されていると判断することには同意しますが、既に指摘したように、wikipedia内のいくつかの記事において「収斂」の用語が用いられており、かつその語を積極的に利用しと考える方がおられる以上、この種の用語の書き換えは「関数と函数」の表記に関する論争と同様の論争になりかねないと考えます。もう少し広い場所で議論して結論を得ることが可能ならそうすることもひとつの手だと思いますが、現状はどちらの表記も許容せざるをえないのではないでしょうか。
  • 結局今回の議論の発端となったAnti-minさんはwikipediaから撤退されてしまったようで、大変残念です。あえて申し上げますが、貿易風さんはもう少しこの事態について謙虚に受け止めてほしいと思っています。上に書いたような事柄についてもう少し議論が整うまでは、このままおいておくということはできないものでしょうか。--Henon 2010年11月20日 (土) 10:01 (UTC)
「注意が払われて然るべきであろう」について。この表現自体を禁じた「明示的なルール」があるわけではありません(Wikipediaで行われている全ての編集が、「明示的なルール」に依拠しているわけではありません)。しかし、少なくともぼくは現在のこの文章は不適切であり草案で示した文章に直すのが好ましいと思っていますし(理由は上の節で何度も説明していますので省略します)、仮に現在の文章が不適切でないとしても、「草案の文章でも同程度に不適切でない」ならば、(少なくとも1人が不適切だと思っている現在の文章よりはだれも不適切だと思っていない草案の文章のほうがいいだろうということで)書き換えてしまってもいいわけです。NGiraffeさんが上で書かれているように、元の文章が不適切でなかったとしても、だからといってその文章を維持し続けなければならないわけではありません(Wikipediaの編集者はだれしも、自分の書いた文章がだれかに変更されるかもしれないことを承知の上で投稿ボタンをクリックしているはずです)。
収束or収斂について。まず、再提案から3日たったいまのところでは、この記事において収斂表記を維持することを積極的に望む意見は出ていません。もちろん今後そのような意見が出る可能性はありますが、そうなったらあらためて議論を続ければいい話であり、まるで「表記に関する議論は行うのはよくないことである」かのようないい方はどうかなと思います。「関数or函数」の議論についてはどちらがいいという結論も出さないということで決着したようですが、「収束or収斂」の問題については過去にそのような結論には至っておらず、また「関数or函数」とは事情が異なる点が多々ありますので同一視できるものではありません。「私はこっちの表記のほうが好きなので使いたい」というような個人の嗜好のレベルではなく、その主題についてあまり詳しくない読者に対して解説を与える百科事典という場においてどちらの表記が好ましいかという点を踏まえたうえでの議論ができるならそれはそれで(最終的にどのような結論に至ったとしても)有意義なことだと思います。残念ながら今のところそういった観点から収斂のほうが好ましいとする意見は出ていないので、それなら収束にしときましょうというのがこの提案です。
Henonさんの「投票に持ち込まれるような事態になってもなお反対するというほど強力に反対というわけではありませんが、いくつかnegativeなコメントをしたい」という部分は曖昧さの残る表現ですが、この表現だともしほかにこの提案に反対する意見が出なかった場合にぼくが示した2つの提案が実行されることにHenonさんが納得されるのかどうかがよくわからないので、説明をいただければと思います(でないと提案から2週間経過した時点で合意形成が成立したかどうかの判断ができなくなる可能性がありますので)。また、もし納得がいかない(各提案についてそれが実行される前の現在の状態が維持されることを望む)のであれば、それぞれ「現在の表現を草案の表現に変更することにどんな問題があるのか」「一般的な収束表記でなくあえて収斂表記を維持することにどんなメリットがあるのか」についても説明をお願いします(すでに述べたように「今のままでも問題ないけど書き換えても問題ない」なら書き換えに反対する必要はないわけです)。
ちなみに念のため書いておくと上の提案から2週間経過するまではぼくは提案内容を記事に反映させる気はありませんし、2週間経過したとしても反対意見が出てきて議論が整わないならそのあいだは「このままおいておく」つもりです(反対意見の無いままであれば予告どおりに編集するでしょうがそれはWP:CONによるものです)。--貿易風 2010年11月21日 (日) 02:24 (UTC)
貿易風さんは、Henonさんの上の発言「あえて申し上げますが、貿易風さんはもう少しこの事態について謙虚に受け止めてほしいと思っています。」については何の反応も示されていません。また僕の前の発言での問いかけも無視していらっしゃいます。貿易風さんにもう一度問いかけます。表面的なことにこだわるよりかは、Anti-minさんの様な方が記事を書くことに集中できるような環境、雰囲気を作る方が重要だとはお思いになりませんか?僕が問題と感じ、また恐らくHenonさんが問題と感ぜられているのは、表記や文章表現のような比較的重要性の低いことではないのだと思います。貿易風さんは上で「Wikipediaの編集者はだれしも、自分の書いた文章がだれかに変更されるかもしれないことを承知の上で投稿ボタンをクリックしているはずです」と発言されました。その通りだと僕も思います。しかし、だからこそ、文章を変更する方は最初に文章を書いた編集者、あるいは記事に対する貢献の大きい編集者に対する敬意を忘れてはならないのではないでしょうか。ほとんどの人が納得する明確で大きいメリットがある場合に自分の文章に拘る方がいれば、それはその方に問題があるでしょう。しかし、今回はそのようなケースではありません。今回貿易風さんの提案される変更でのメリットは少なくとも僕は微細であると思いますし、恐らくその感覚はAnti-minさん、Henonさんもある程度共有されているように思います。また、貿易風さんが当初おこなわれた、「注意を...」を取り除く編集は、少くとも僕やAnti-minさんの目には記事の質を落すものにうつります。(僕は質を落さないような代替案を、貿易風さん本人が新たに提案された表現を用いて妥協案として作成しましたが、その際Anti-minさんの版で問題と思っていないことも強調しました。)その様な場合に、変更を機械的に、執拗に主張される貿易風さんの編集姿勢に僕は強い疑問を感じます。この様な事を申しあげても残念ながら無駄かもしれませんが、貿易風さんは、Henonさんの発言や、Clonecrownさんの発言を読み返して、自らについて省みていただきたいです。
蛇足かもしれませんが、表記の問題について付言いたします。僕には、表記に拘りをもつ数学に関して見識を持つ方がいらっしゃる事は容易に想像がつきます。僕はその様な方々を尊重したいと思います。Wikipediaの数学に関する記事は現状で量的に充実しているとはとても言えないようです。表記の問題について争ったり、排除的なルールを作ったりするよりかは、表記に拘りを持つ方も含めて広く執筆者を呼びこむほうが余程賢明な選択に思えます。関数/函数に関する長大で激しい議論の上で、白駒さんの作成された合意には、僕にはその様な観点からの裏付けもあったように感ぜられます。貿易風さんは、その様な観点に気付いていないか、あえて無視していらっしゃるか、いずれかの様に見えます。
以上ややきつい事を申しました。貿易風さんが自ら省みられていただければ、僕としては嬉しく思いますが、今までの議論の推移を見たところ、あまり期待できないようにも感じています。貿易風さんが納得されず、反論されても、それに返答することはお約束できません。最終的に貿易風さんが自らの主張を通されることになっても、この議論が悪き前例とはならない事を望みます。--働けよおっ 2010年11月21日 (日) 11:09 (UTC)
貿易風さんの提案について.「総和法の性質」に関しては賛成します.「収斂」「収束」については消極的な賛成です.敢えて意見を述べると,貿易風さんが上のほうで書かれているように初出の部分のみ「収斂」・「収束」を併記しては如何でしょうか.
Henonさんのご意見の三点目について.ここまでの議論を読み返してみましたが,貿易風さんの行動について問題はないと思います(そもそも,Anti-minさんが JAWP での活動を停止された直接のきっかけは私の発言のようです).議論の中で反論を封じるようなこともないですし,新着の意見なし→編集予告→(編集実行)と段階を踏んでいることもむしろ誠実な姿勢に感じます.対してAnti-minさんの行動に問題なしとも思えず,一方的に貿易風さんを非難する論調には疑問を感じております.(記事の内容から離れてしまうので,この話題を続けるならば場所を変えましょう.)NGiraffe 2010年11月21日 (日) 17:27 (UTC)
NGiraffeさんへのレス)
もし提案内容が実行されることになった場合は、冒頭の部分を「収束(収斂ともいう)」という形にしようと思います。--貿易風 2010年11月23日 (火) 03:42 (UTC)
働けよおっさんへのレス)
働けよおっさんにとってはぼくがここで提案していることは「表面的なこと」「重要度の低いこと」なのかもしれませんが、ぼくにとっては少なくともわざわざノートで提案をしたり議論をしたりする手間を惜しまない程度には重要だと思えるものなわけで、ひとによってなにが重要だと思うのかはさまざまです。本当に「どっちでもいい」と思うならその部分についてはどう変更されても放置すればいいので、それができないならば変更されることに納得がいかない程度には重要なことだと思っているわけですから、当事者間で議論して結論を出し、それに基づいて編集するというのがWikipediaのルールです(他人からみてそれが重要なことであろうとなかろうと、実際に各々が好ましいと考える記事の状態について対立点が生まれてしまったのであればなんらかの形で結論を出さなければ編集合戦になってしまいます)。
「記事を書くことに集中できるような環境、雰囲気を作る」についてコメントしておくと、Wikipediaは多数の人間の共同作業で百科事典をつくるフロジェクトなので、記事を執筆する過程で妥協できない意見の対立ができてしまったら、(それがどんなものであれ)前述のように議論して解決する必要があります。「記事執筆に集中して議論には参加しない」というスタイルを通すのであれば「自分の書いた記事が変更されても文句はいわない」ことを引き受ける必要がありますし、逆にそれがいやなら「納得がいかない部分については議論に参加して自分の意見の正当性を説明する」必要があるわけです(「記事を書くのに集中して議論に参加しないが自分の記事が変更されることには納得しない」というスタイルはWikipediaでは認められない)。「記事を書くことに集中できる環境」というと聞こえはいいですが、それが「記事を書いているひとがいやがるような(議論に参加することなるような)編集や提案をするな」ことを意味するなら、それは「だれでもいつでも編集に参加できる」というWikipediaの基本理念に反するものであり、受け入れられるものではありません(繰り返しますがぼくはここで提案していることがどうでもいいことであるとは思っていません)。
なお、ここで議論すべきことはあくまで「発散級数というWikipediaの記事をどうするか」、特に「『2010年11月17日 (水) 12:13』に提案した内容を適用した場合としない場合のどちらが記事として好ましいか」ということですので、Henonさんがおっしゃる「Anti-minさんはwikipediaから撤退されてしまった」ことについては特にコメントはありません(本当はこの発言の前半部分もかなり脱線なのですが…)。
最後に、上の働けよおっさんの発言は、「貿易風さんが納得されず、反論されても、それに返答することはお約束できません」との文言があることなどから、今後も議論に参加する前提で提案に反対するものではないと解釈しています。もしそうでないなら(提案内容に反対であるなら)あらためて反対であると表明していただければと思います(反対でないなら放置していただいてもかまいません)。--貿易風 2010年11月23日 (火) 03:42 (UTC)
まず、編集活動に関するコメントについて補足します。(NGiraffeさんへの応答も含みます。)
私は貿易風さんの当初の編集活動について、例えば「編集途中のスタブを貼った方が良いと思います」とか「『注意して然るべきであろう』という記述は百科事典の記述としてふさわしくないと考えますが、そのような記述をした理由を教えていただけませんか」や「収斂よりも収束の方が一般的だと考えられるので修正してもよいでしょうか」といった対話から入ることが可能であったと考えます。Anti-minさんよりも貿易風さんのほうがwikipediaの編集歴が豊富であること、記事の内容の正確さに関わるというよりも表記上の問題であること、変更が緊急性を要するものではないこと、などの点からも、ノートページで対話することから始めるべきではなかったでしょうか。さらに言えば、既に指摘したように、「注意」を促す記述や「収斂」という用語は、少し検索すればすぐに見つけられるぐらいwikipedia内で用いられており、英語版とは違って明示的に禁止されているような類のものでもありません。確かにwikipediaの記事が個人のものではないとしても、よほどの大きな過誤でない限りは、他者の記述を一定程度尊重するべきだと思います。ほぼすべてを自分で翻訳したAnti-minさんからすれば、貿易風さんの編集を機械的/一方的置換と感じ、そのことに不快感を持つのもむべなるかなと私には思えました。私は、Anti-minさんと貿易風さんがお互いに行過ぎた言葉遣いを収めて表記についても合意に至ることが望ましいと考え、いくつかのコメントを致しました。Anti-minさんが編集活動を自重している間に、貿易風さんの適切と考える編集が期限を区切った形で行われるというのは行き過ぎだと感じました。
これらの点で、私は記事の内容を質的に向上させるというよりは表記上の変更である貿易風さんの編集を期限を設定してまであえて行う必要はないし、出来る限りAnti-minさんとの合意形成を図るべきだと考えていました。しかし、現状ではAnti-minさんが活動を再開される様子はないので、貿易風さんがどうしても今回の編集を行いたいと強く希望されるなら差し戻しなどをするつもりはありません。しかし、特段の質的向上をもたらすわけではない今回の編集をあえて行う必要はなく、またこの種の表記に関する変更は、今後も別の箇所で問題になる可能性が考えられるためコミュニティ全体かもっと多くの方たちの議論によって合意形成がなされるまでは、今のままの状態でおいておくのが良いのではないかというのが私の考えです。それが、「投票に持ち込まれるような事態になってもなお反対するというほど強力に反対というわけではありませんが、いくつかnegativeなコメントをしたい」とあえて言葉を濁した理由です。
次に、総和法に関する点と収斂/収束の表記の問題の2点について述べます。
  • 「総和法」に関する注意喚起について。
私は以前にも『「満たしていることが望ましい性質」からは外れている総和法が「なぜ強力たり得るのか」といった説明を追加する方がよほど百科事典にとって生産的だ』と述べました。本来はそうした記述があって然るべきで、そうした記述によってこそAnti-minさんのおっしゃっていた「ミスリーディング」が回避されるのだと私は考えます。今はそうした記述を執筆できる方がいらっしゃらないようだし、残念ながら私にもそうした編集を行うだけの能力がありません。従って、少し強調された形で注意を喚起する記述を残しておくことは決して不適切でもないし、それが、下手に表現を弱めて淡白な記述に直すよりも、未完成な百科事典にとって次善の策であると考えるべきなのではないかと思います。
  • 収斂/収束について。
収斂という用語が収束に改められたのは、常用漢字を用いる方が良いという(意味ではなく字形に関する)意見によるものであるようです。現在の高校教科書では収束とするのが一般的です。「昔は収斂とも書いた」というYahoo辞書の記述も見ました。しかしこれらの点は、「函数/関数」でも全く同様です。函数を関数と表記するようにしたのも常用漢字を用いるという字形に着目したものですし、高校では関数と教えています。Yahoo辞書にも『昔は「函数」と書いた』とあります。数学辞典の見出しもすでに「関数」です。私は、どちらがより一般的に用いられているかという点については、「関数>函数」以上に「収束≫収斂」であるという意味で「函数or関数」という問題と「収斂or収束」という問題に差があることを認めますが、「表記上の問題で、どちらの表記を用いる側にもそれなりの根拠がある」という点については同じ問題であると考えます。従って、「表記の機械的置換は好ましくない」という原則が適用されると考えます。ここで貿易風さんの編集が行われることが、今後「収斂→収束」という置換が他の(より多くの閲覧者の目に触れる)記事で別の編集者により行われる前例になったりするのは望ましくないと考えます。「収束or収斂」に関しても、コミュニティ全体かもっと多くの方たちの議論によってどちらかに統一しようという合意が得られるまでは、「函数or関数」と同様の原則で考えるべきだというのが私の考えです。
貿易風さんは期限を区切って、今の記述と提案されている記述とを比べ、今の記述の優位性を示す根拠を提出できなければ、自分の適切と考える編集を行うと表明しておられます。もちろんそうしたことが禁止されているわけでもないし、そのための手続きに何か瑕疵があるというわけでもないと思います。しかし、私が主張しているのは、重大な過誤の修正でもなければ、そのほかの緊急性を有する編集であるとも思われず、しかもAnti-minさんがおっしゃっていたように非常に限定された項目であるこの項目で、質的向上よりも表記上の修正に拘ることには、別のいろいろな問題があるのではないかということです。もし貿易風さんが、「注意喚起」や「収斂or収束」を適切な形で修正したいと思われるのなら、もう少し大きな場で議論するべきだと再三私が申し上げているのはそういう理由によるものです。あえて極端な言い方をするなら、現在提案されている修正を行っても記事の内容が向上するとも思えないし、「注意喚起」に関する上の論点を別にすれば、優劣はさほどないでしょう。しかし、その編集をAnti-minさんと議論を呼び起こした貿易風さん自身の手で行うこと、wikipediaの記事にとって深刻な問題であると考えるのならばなおのことより大きな場で議論するべき問題であるにも関わらず非常に限定された項目の編集に拘っているように見えること、などに疑問を呈しているわけです。執筆者の編集環境についての論点は、働けよおっさんのコメントの中に述べられているので繰り返しません。私も同意見であるとだけ述べておきたいと思います。
言葉遣いなど失礼な物言いがありましたらお詫びします。--Henon 2010年11月22日 (月) 14:31 (UTC)
(インデント戻し、Henonさんへのレス)
ぼくが前回の発言で聞きたかったのは、要するに「2週間後にほかに特に反対意見がなかったという条件の下で、ぼくが提案を実行した場合に差し戻したりノートで異議をとなえたりする気はあるか?」ということです(あとになって「やっぱり納得できない」「いやでも反対とは言わなかったじゃないですか」というようなやりとりをしたくないので確認をしておきたいということです)。またも若干の曖昧さが残る回答をいただいてしまいましたが、「今回の編集を行いたいと強く希望されるなら差し戻しなどをするつもりはありません」とのことなので積極的に反対されているわけではないと解釈します。Henonさんがぼくの提案に対して「特段の質的向上をもたらすわけではない」との意見を持っておられることやその理由などは一通り理解いたしましたが、ぼくは今回の提案によってこの記事が多少はよくなると思って提案しているわけですので、このまま反対意見がないままであれば提案内容の適用を実行しようと思います。
不必要な議論を続けても益が無いのでHenonさんの意見に特に反論などはしませんが、もしかしたら事実誤認があるかもしれないのでいちおうそこだけ指摘しておくと、Henonさんは「編集途中のスタブを貼った方が良いと思います」といった対話が先行するべきだと述べられていますが、ぼくはそもそもこの記事にスタブあるいはなんらかのテンプレートを貼ったことはありませんし(履歴をご確認ください)、そもそもこの記事がスタブ(=書きかけの記事)だとも思っていません。--貿易風 2010年11月23日 (火) 03:42 (UTC)
貿易風さんへのレス)今回の貿易風さんとAnti-minさんとの間のやり取りは、そもそも貿易風さんが英文のまま残されていた箇所をコメントアウトし(収斂を収束に置換し)たことから始まったのではなかったでしょうか。「翻訳スタブ」というのがお気に召さないなら、「英文がそのまま残されている箇所は、日本語訳がつくまでコメントアウトして頂けませんか」というような形式も考えられたはずです。私が言いたいのはそういうことです。
全般的な私の主張のまとめ)私が問題としている点は主として次の3点です。
1.「注意喚起」の文章について。
  • 「○○とは限らない」や「○○もある」という弱い表現にしてもミスリーディングが避けられると判断できるかどうかは執筆者や読み手に依存していますし、本来なら「(望ましい性質を満たさないにも関わらず)強力なものである」という根拠を記述することが望まれる部分だと考えます。
  • Anti-minさんや働けよおっさんの意見は、弱い表現にするとミスリーディングを生む可能性が高まるということだと推察され、私もそれはそれでひとつの判断だと感じます。
  • 「望ましい性質」が列挙されているのに、それの一部あるいは全部を満たさない強力な総和法があると特段の根拠記述なく述べられるというのは記事として不十分だとさえ思われます。
  • いま緊急に編集しなければならないとも思われないので、やや強い注意喚起の表現のまま残しておく方が今後のためにも良いのではないかと考えます。「う」という助動詞がまずいなら「注意すべきである」でもいいのではないでしょうか。
2.「収斂」と「収束」の表記について。
  • 収束の方が一般的であるという貿易風さんの根拠は「函数or関数」の場合と全く同様で、そのことを根拠に「収斂→収束」という置換を許容すると、他の記事においても「収斂→収束」という機械的置換が行われ、それを戻そうとする人との間で編集合戦が起きたり、それなら「函数or関数」の方も同じことではないかということになる可能性もありえます。私が提出した科研費データベースの値では収斂を利用しているものはなかったという点では、「函数or関数」の問題よりも状況がややはっきりしているという点はありますが、しかし少なくともまだ「収斂」で習った人たちもいらっしゃいますし、「収束」への変更の経緯なども「函数or関数」の場合と同様です。ですから表記上の機械的な置換を特定の記事に対して軽々に許容してしまうことは今後のためにならないと考えているわけです。カテゴリ全体での合意がない状況では、あくまでもそういうことは推奨されないと考えるべきだと思います。
  • 「発散級数」という項目はかなり専門的な項目であり、この項目を閲覧する方が「収斂」では意味を理解できず「収束」の方なら意味が理解できるといった状況は考えにくいのではないかと思います。もし「収斂」と書くことによって意味が理解できないという可能性が重大な問題だと考えるなら、特定の記事よりも数学カテゴリの執筆者の方々の間で議論し合意形成を図るべきだと考えます。(これは次の第3の論点にもつながります。)
  • もし「収斂」という用語に拘っている人がAnti-minさん一人だけなら、数学カテゴリの執筆者の間でも「収束」を用いるという合意が速やかに形成できるはずで、そのような手続きをとった方が今後のためだと考えます。
3.執筆環境について。
  • wikipediaの(数学関連)記事を充実させていくために多くの方々が編集活動や翻訳活動に参加してもらえることが望ましいのは当然です。そうした方々にとって、表記上の問題である「収斂or収束」や「函数or関数」の問題についての議論や「注意するべきであろう」という記述が適切か否かといった議論に時間を費やすよりも、記事そのものの執筆に時間をかけられるよう配慮するべきだと私は考えます。
  • 貿易風さんは、『「記事執筆に集中して議論には参加しない」というスタイルを通すのであれば「自分の書いた記事が変更されても文句はいわない」ことを引き受ける必要がありますし、逆にそれがいやなら「納得がいかない部分については議論に参加して自分の意見の正当性を説明する」必要があるわけです(「記事を書くのに集中して議論に参加しないが自分の記事が変更されることには納得しない」というスタイルはWikipediaでは認められない)。』と述べられています。記事の内容に関わる論点ならいざ知らず、単に表記上の問題で(wikipediaの記事を充実させるための十分に貢献している)ある特定の執筆者をその種の議論に巻き込むことは、その執筆者にとって議論すること自体が煩わしく感じられてしまうのは当然だと思います。そういう形で執筆者の編集意欲が奪われてしまうのは、wikipediaの記事を充実させるという本来の目的には適わないと考えます。
  • だからこそ、表記上のルールについてはカテゴリの編集者たちの間で議論して概括的なルールを定め、それ以外の点については原則として執筆者の判断にゆだねましょうと考えるほうが良いと私は考えます。それが私の考える執筆環境を整えるよう配慮したほうが良いと考える理由です。
  • 従って、貿易風さんが「注意すべきであろう」という記述が問題であると感じ、「収斂」という用語よりも「収束」という用語を使うことがより適切だと考えるなら、特定の執筆者との間で議論するのではなく、広く編集者たちの間で表記上のルールに新しく追加するという合意を形成するべく議論するべきなのではないかと申し上げているわけです。例えば英語版のように「注意喚起の文章はなるべく避けるようにする」とか「収斂と収束の選択は原則として収束を使うことが望ましい」といった大枠ができれば、個別の編集者との間で表記上の問題点について議論する労力は軽減されると思います。
最後に少しだけ愚痴)私は今の記述を残しておくメリットについてもいくつかの論点を提起したつもりですが、貿易風さんは「不必要な議論を続けても益が無い」、要するに自分の編集に反対するかどうかの意思(だけ)を表明せよと断定されています。自分の編集を行うことに異議を挟むつもりがないのならこれ以上応答するつもりはないかのような表現にも思われます。いささか応答するのに疲れました。これ以上あまり発言しないほうがよいのかもしれません。--Henon 2010年11月23日 (火) 17:24 (UTC)--Henon 2010年11月24日 (水) 14:30 (UTC)
時間がないので散発的なコメントで恐縮ですが.
  • 今回の議論の過程において貿易風さんは,議論を反映した具体的な結論に至るべく提案内容を調整されているのに,どうしてHenonさんは議論のきっかけに拘られるのでしょうか.下の方にも書きますが,必要以上に議論の発端に拘る姿勢は Wiki ベースで進めるプロジェクトにそぐわないものであると考えます.
  • Henonさんのご意見によると,記事を編集する際にはそれまでの経緯や過去の執筆者の背景・性格まで考慮すべきである,とのことです(wikipediaの編集歴が豊富であること を理由の一つとしたノートページでから始めるべきではなかったでしょうか という発言,ある特定の執筆者をその種の議論に巻き込む という発言から).御自身が JAWP への参加形態としてそうされるのは自由ですが,他の編集者に要求したり勧めたりすることではありません.御意見に従うと,記事を編集する際には毎回「記事の履歴を確認」「主要な編集者(群)を特定」「彼らの編集歴を調査」「それに合わせた編集方法(編集予告するか否か)の判断」というプロセスを課すことになります.少なくとも「実行しようとしている編集が議論を引き起こすか」という微妙な判断をしなければなりません.これは Wiki ベースのプロジェクトに参加するための壁を無駄に引き上げるだけです.
  • また,ノートページでから始めるべきではなかったでしょうかという御意見のほかの理由「表記上の問題であること」「緊急性が低いこと」について,私ならばまさにその理由で余計な議論を引き起こすことを避けて,予告なしに更新するでしょう.ただし,説明を求められたら説明しますし,結果的に差し戻しになったら拘らずに手を引くかもしれません.考え方は人それぞれです.
  • 本来なら「(望ましい性質を満たさないにも関わらず)強力なものである」という根拠を記述することが望まれる部分だと考えます。」簡潔に記述できるのならそうすればよいと思いますが,私の感覚からするとやや百科事典の範囲を逸脱しています.根拠が明解ならば,「望ましい性質を満たす場合」と統合して記述できるはずで,そうなっていないのは未だ研究段階であるか,根拠が複雑で微妙なものであるか,何か事情があると考えられます(私も記事内容については詳しくないので推量になってしまいますが).教科書もしくは研究論文にて扱われる類の話題ではないかと思います.
  • 総じて,Wiki ベースで作業するということは,内容を更新するための負担(文書整形のための覚えにくい文法,サーバへのアップロード,過去の内容の保存,etc.)はできるだけ減らす,代わりに状況が変わったり誤りを含んでいたり問題が起きた場合にはどんどん内容を更新する,ということです.ですから,原則は,編集したい個人が自身の基準で「これでいく」と決めたらとりあえず定型的に投稿し,問題が起きたときに対応を考えるというスタイルになるかと思います.判断を要するような作業はなるべく投稿のプロセスに加えるべきではありません.今回の件で,問題が起きてからの対応は,より適切な方法があったかもしれませんが,発端となった編集に問題点はないと考えます.NGiraffe 2010年11月24日 (水) 00:15 (UTC)
 編集姿勢に関する点については場所を変えた方が良いとの御示唆も頂きましたので、利用者‐会話:Henon#発散級数の項目についてにレスを書いてみました。よろしければごらんください。--Henon 2010年11月24日 (水) 14:13 (UTC)
Henonさんへのレス)
ぼくはHenonさんがどんな意見をもたれているのかということは発言の内容を読んで理解しましたが、その内容が「提案の内容へ反対する根拠」として示されているのか「提案には反対しないが思うところがあるので表明しておきたい意見」として示されているのかによって反応は違います。
例えば「執筆者が議論に集中できる環境づくり」の話について、それを根拠に提案に反対されるのであれば「環境づくりとやらを理由に記事の編集が抑制されるべきではない」と反論するでしょうが、「Henonさん個人としてこう思う」ということであれば、ひとつの価値観として否定はしません(もともと環境・雰囲気の話はHenonさんではなく働けよおっさんがはじめられたものですが、Henonさんも同意見であると表明されているのでこういう書き方をしています)。
で、Henonさんは「提案に反対する」という立場をとることもできるということを承知の上であえて「合意形成を阻む程度には提案に反対はしないが述べておきたい意見はあるのでそれは書いておく」という立場を選択されているようなので、「合意を確定する上でしなくてもいい話」に関しては(まあ思うところはありますが)特にぼくのほうからコメントは書きません(議論自体を目的にWikipediaにきているわけではないので)。
ただ具体的な案の出ている「注意すべきである」についてだけコメントしておきます。それは現状の表記よりは好ましいと思う半面、「~べき」という価値判断を百科事典側が行わないほうがいいと思うので賛成はしませんが、「注意が必要である」ぐらいだったらぼくはあまり気にしません(気にする人もいると思います)。もっともこれまで出た中で最善の選択肢は現在提案しているもの(利用者:働けよおっ/test2)だと考えているので、この点について提案内容の変更などは(少なくとも現時点で)考えていません。--貿易風 2010年11月24日 (水) 12:41 (UTC)
上記の愚痴では少し不適切なことを書いてしまったと反省しています。お詫びして打ち消し線を入れさせていただきました。
その上で、「注意して然るべきであろう」を「注意が必要である」に書き換えることならば、現状の打開案としては賛成できると思います。
「節としてのミスリーディングを避けるべきである」というAnti-minさんや働けよおっさんの意見にも沿うものではないかと思います。「例外であるにも関わらず強力であることの根拠が現状十分に書ききれない以上、特段の注意が必要である」という私の見解にあえて付け加えるとすると、「あるべき性質」に対する例外であるならばなおのこと特段の注意が必要なのではないかということです。この点で「○○とはかぎらない」では弱いのではないかと考えているわけです。
NGiraffeさんへのレスにも書きましたが、私が主張したいことは、記事を変更するなとか、編集合戦を起こしたことを反省しろということではなく、むしろ、該当記事を変更するよりも前に、「収斂or収束」では「収束」を使うことを推奨する(か否か)とか、「注意を促す記述は控える」(か否か)といった表記上の概括的な取り決めについて、数学カテゴリ全体で意見を募って合意形成を行う方が今後のためではありませんかということです。今のところAnti-minさんが編集活動を再開される様子がないならばなおのこと、今後同じような対立が起きることを防ぐためにもそうするべきではないのかということです。--Henon 2010年11月24日 (水) 14:30 (UTC)
「注意して然るべきであろう」の部分の具体的な書き換え案については、前回のコメントですでにぼくの考えは述べているので繰り返しません。
「包括的な取り決め」については、ぼくはいまのところそういったものを提起する気はありません。今回ぼくがこの記事で行っている2つの提案と同じ種類の変更がこの記事以外を含む一般の場合すべてで適切であるかどうかわかりませんし、なにをもって「同じ種類」と判断するのかとかいう問題もありますので(ちなみにぼくは「注意喚起」というよりは「百科事典側による価値判断(を読者に押し付けるような記述)」が行われることを気にしていて、「読んだ結果として注意が喚起されることが期待される記述」を書くことは否定しません)。もっとも、どなたかがそういった包括的議論を開始された場合はもしかしたらなにか意見を述べるかもしれませんし全体的な方向性としては支持すると思います。--貿易風 2010年11月26日 (金) 12:29 (UTC)
賛成 私の意見を結論から書きますと、
  1. 「収斂」→「収束」には積極的賛成。
  2. 「注意喚起」の表現は消極的賛成。(つまるところ変えても変えなくてもいい)
です。2については消極的賛成なので、1についての意見を述べさせていただきます。
昨日このノートの議論を見付けまして、1に関しては、何も言わず機械的に変更してしまおうとする貿易風さんの態度にも問題ありかな、と思いました。しかし、貿易風さんとAnti-minさんの議論や、Anti-minさんの編集履歴などをじっくり拝見し、一晩考えてみました。その結果、やはりAnti-minさんの翻訳姿勢の方に問題があり、「収斂」は「収束」に修正するのが妥当である、という結論に達しました。
まず第一に、上でも科研費データベースなどの例が上げられているように、「収斂」は現在ではまず使われない用語である、という点で「関数/函数」や「線形/線型」の問題とは状況が違うと考えられます。
そして、数学関係の記事で「収束」と「収斂」の使われている例をざっと見てみたところ、「収斂」を使っている記事のほとんどが、Anti-minさんが新規立項したもの、もしくは既存記事にAnti-minさんが加筆したものでした。つまり「収斂」という言葉にこだわっているのはほぼAnti-minさんだけ、ということです。もちろん「収斂」でも通じないことはないわけですが、そういう古い用例にこだわるというのも、ある意味で「独自研究」の一種というべきもので、読者にも編集者にも混乱と困惑をもたらす行為だと思います。
また翻訳に限らず、ある分野の新しい記事を書く者は既存の記事で使われている用語を尊重すべき、つまり、複数の表現がある専門用語はなるべく日本語版の他の記事で使われている用例に合わせるべきである、というのが私の考えです。(もちろん既存記事の用例が明らかにおかしいとか特殊すぎるような場合は別ですが)
これは私の意見なので、そんなことはガイドラインに書いてないぞ、とつっぱねられてしまえばそれまでですが、記事の統一性や読みやすさを守る上でも翻訳記事を書く人にはそういう配慮があってしてしかるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。--Loasa 2010年11月23日 (火) 11:25 (UTC)

(報告)2週間経過しましたので、提案していた内容の編集を行いました(差分)。--貿易風 2010年12月2日 (木) 13:07 (UTC)