ノート:甲州征伐/甲州征伐1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

表題について[編集]

ここまで内容が詳細になってくると、「天目山の戦い」という局地戦の名称では不都合のような気がしますし、記事の内容としても正しくないと思われますので、記事の表題を「武田征伐」にすることを提案します。 kuma83 2005年12月23日 (金) 02:40 (UTC)[返信]

ノート:小田原の役において、「征伐」と言う言葉は中立的ではないのではないかという意見が出されていますので念のため。--水野白楓 2006年5月6日 (土) 05:29 (UTC)[返信]

征伐という表現は、やはり一方からの史観という印象がありますね。天目山の戦いは、一連の織田軍の甲斐への軍事行動の中に含まれるものなので「甲州崩れ」(仮称)の中の一項目として記載してはどうでしょうか?Nubolari 2006年9月16日 (土) 23:06 (UTC)[返信]

武田氏滅亡といった名称はいかがでしょうか。--Tiyoringo 2007年7月17日 (火) 17:10 (UTC)[返信]

勝頼が掛けたといわれる重税[編集]

記事中に勝頼が「尋常ならざる割合の年貢や賦役を課しており」という表現がありますが、軍役についてはともかく、年貢(棟別他の租税ということだと思いますが)を信玄時代のレベルから大いに増税したという記録があるのでしょうか?そのような記録が無い場合は、この一文は削除するのが妥当だと思います。出展が甲陽軍鑑等の記述であるなら、こと勝頼とその近臣に対する事柄についての記述はそのまま鵜呑みには出来ないと思います。Nubolari 2006年9月16日 (土) 23:26 (UTC)[返信]

IP150.37.251.33さんからの記述[編集]

IP:150.37.251.33会話/履歴さんによる記述について、出典を求めます。この記述は、以前の記述を「織田信長ファンの勝手な想像」としておりますが、果たして実際はどうなのか、検証が必要かと思われます。当事者のIPユーザーの方はもちろん、この記事の執筆に関わられた皆様にも、ご協力をいただければ幸いです。--Bellcricket 2007年7月3日 (火) 10:37 (UTC)[返信]

勝手ながら150.37.251.33氏の記述は全てコメントアウトさせて頂きました。私は日本史には知識が無いので確たることは言えませんが、はっきり申し上げて150.37.251.33氏の文章はそれ以前の問題で、文章それ自体が百科事典のレベルに達していません。ウィキペディアはエッセイの発表場ではありません。ですのでコメントアウトさせて頂きました。らりた 2007年7月3日 (火) 12:08 (UTC)[返信]


武田征伐に関する記録は後世の捏造とか書かれてる部分については文句言わないんだねw むしろそっちの方が要出典だと思いますが。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月3日 (火) 19:11 (UTC) に投稿したものです。[返信]

俺の書き込みをカットしたいなら、俺が要出典と指摘した部分も同時に削除しろよ。公平な判断ができないのかな~?あんたらの脳みそはw--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月4日 (水) 07:37 (UTC) に投稿したものです。[返信]

今度俺の書き込みをカットしたら、俺が問題視している部分もカットさせてもらうよ?--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月4日 (水) 07:40 (UTC) に投稿したものです。[返信]

あのさぁ。俺がせっかく一級資料である「信長公記」の記述を紹介したのに、前の状態に戻さないでくれる?この記事を立てた人が事実を歪曲して信長を弁護するための文章を書いているから、その部分を削っただけなんだけど。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月4日 (水) 15:15 (UTC) に投稿したものです。[返信]

暴言は御止め下さい。また、出典の提示を求められているのにそれを無視するというのはいただけません。他人の投稿について同様に出典を問うのは構いませんが、それによってあなたへの質問が打ち消されるわけではないのですから。
ところで「一級資料」って何ですか? そんな言葉は存在しないはずです(根拠の無いスラングとしてなら時々見かけますが)。 -- NiKe 2007年7月5日 (木) 00:26 (UTC)[返信]
ノート:武田狩りで丁度氷さんの指摘なされている通り、以前の武田狩りとこの記事に問題があったことは確かでしょう。その点、修正が必要かと。
ただ150.37.251.33氏の記述はそういう段階の話ではなく「‥‥と織田信長ファンは根も葉も無い妄想をしがちであるが」とか「人間としての器が小さい武将であるといえよう」とか到底百科事典の文章としては採用し得ない文章と「平氏を名乗ったから家柄コンプレックスの現れ」などの根拠不明のおそらくは150.37.251.33氏が独自に考えられたであろう説とが問題であったわけです。その点はご理解いただけたのでしょうか?その点を記載しないならば別段問題はないです。ただいちいち『信長公記』に欠かれているから云々などと書く必要はないですよ。らりた 2007年7月5日 (木) 11:42 (UTC)[返信]

「武田旧臣を登用してはならない」等の旨が書かれた掟書というのは『信長公記』にある国掟のことだと考えられますが、国掟では「忠節人立置く外、廉がましき侍生害させ、或は追失ふべき事」となっており、忠節によっては安堵しても良いことを認めています。そもそも別の条に「国諸侍に懇に扱ひ、さすが油断なき様気遣ひすべき事」とありますから、武田旧臣登用を信長が認めなかったというのは単なる誤読の類でしょう。--丁度氷 2007年7月5日 (木) 12:43 (UTC)[返信]

>Nike あいかわらずアホだなおまえ。以前の「武田狩り」の項目にまったく恣意的な文章が書かれていたから皮肉で恣意的な文章を書き足してやっただけだwそれくらい言われなくても理解しろよ。「一級資料」と書いたことについては、「一次資料」を内容的に第一級の資料であるという意味で書いただけだが、それが気になるのか?www融通の利かない頭してるね。まあさぞかし職場では「使えないやつ」扱いされてるだろうが。

>丁度氷 俺は別に「武田旧臣登用を信長が認めなかった」なんて一言も書き込んでいないし、そういう記事にした覚えも無いが?俺は「武田家遺臣の虐殺は無かった」という一次資料に反する推測を削っただけだがね。それに、たとえ信長がそういう国掟を出したとしても、現地に派遣された部下が虐殺などを行ったら、当然、使用者としての責任はあるだろ。イラクで米軍兵士が住民を虐殺したら、大統領が非難されるのと同じだよ。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月5日 (木) 14:34 (UTC) に投稿したものです。[返信]

本文中の単なる推測部分は削らせてもらったから、元に戻すなよ。「正確な記述」を心がけてるならな?--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月5日 (木) 14:39 (UTC) に投稿したものです。[返信]

「織田軍が武田家遺臣を捕らえてことごとく処刑した」とありますが、どの辺が「ことごとく」なのでしょうか? 該当する箇所を『信長公記』から引用して示してください。また、部下が勝手に虐殺を行ったというのであれば、その例を挙げてください。--丁度氷 2007年7月5日 (木) 14:47 (UTC)[返信]

>丁度氷

信長公記巻十五「信長公御乱入の事」の項に、信長の嫡男・織田信忠が「武田四郎勝頼一門・親類・家老の者尋ね捜して、悉く御成敗」したと書かれているわ。自分でググって確認するくらいのことせんかい、このマグロ野郎どもは。おまえもそうとうのアホだな。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月6日 (金) 02:12 (UTC) に投稿したものです。[返信]

そのすぐ後ろに「小幡、人質進上申し、別状これなし。駿・甲・信・上野四ヶ国の諸侍、有縁をもって、帰順の御礼、門前市をなすなり。」とあるのですが・・・?らりた 2007年7月6日 (金) 03:59 (UTC)[返信]

>らりた

あほか。その小幡氏は現在の群馬県(旧上野国)の小幡氏で、武田二十四将の小幡氏じゃねーよ。信長公記には「武田四郎勝頼一門・親類・家老の者」を皆殺しにしたとあるが、「武田四郎勝頼一門・親類」というのはすなわち甲斐源氏を指し、「家老の者」とは重臣を指すものだろう。甲斐源氏でも重臣でもない木っ端侍まで皆殺しにしていたら、甲斐国から人間がいなくなっていたわw

「直臣」と「陪臣」の区別くらいできるようになってから文句言え。「陪臣」は厳密には「武田家家臣」じゃないぞ。

逆に、下級武士の降伏は許すが「武田四郎勝頼一門・親類」の降伏は一切許さないというのは、俺が書いた「織田家は甲斐源氏の血筋を妬んでいた」という私論を裏付けるものだが?

あと、現時点での記事の内容には不正確な点も議論されるべき点も特に無いが、なんでそういう表示が出ているのかな? 俺に言わせれば、戦国時代の知識がまるで無い連中が寄ってきて、自分の無知を棚に上げて大騒ぎしているだけなんだがw 具体的に「ここが史実に反している」という指摘が無いのであれば、あの表示は外すべきだと思うので、外させてもらうわ。

「この点がわからない」とか疑問があるなら、自分でまず調べてから文句言え。この無知&怠け者どもが。だいたいそれは「議論」じゃないし。

自分で調べる努力をしないやつには、どんな百科事典を用意しても、全てが未検証で議論の対象だよwww--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月6日 (金) 08:08 (UTC) に投稿したものです。[返信]

つまり一門・重臣は処刑したが、下の者たちは許したということですよね。あと、木曾義昌や穴山信君など先んじて降伏した武将は許され、最期まで抵抗した武将は殺した訳で、ごく普通の処置のように思えます。血統コンプレックスが理由なら何故殺されなかったのでしょうか?少なくともこれらのことから「織田軍が武田家遺臣を捕らえてことごとく処刑した」とはならない、もしくは言いすぎだとしか思えません。らりた 2007年7月6日 (金) 08:19 (UTC)[返信]
(追記)信忠が「武田四郎勝頼一門・親類・家老の者尋ね捜して、悉く御成敗」したのは信長が来て国掟を出す前の話であり、信長の命令でやったことではないでしょう。ですので武田狩りの該当部分は削りました。信忠のやったような単なる残党狩りなら別段普通の行為だと思いますが。らりた 2007年7月6日 (金) 08:27 (UTC)[返信]
「織田軍が武田家遺臣を捕らえてことごとく処刑した」という表現は『信長公記』の記述の拡大解釈としか考えられないので、『信長公記』通り「一門・親類・家老の者」をことごとく捕らえて処刑したと書くべきでしょう。武田家遺臣では意味が曖昧すぎます。--丁度氷 2007年7月6日 (金) 10:09 (UTC)[返信]

>らりた&丁度氷

ほんと馬鹿丸出しだねw

虐殺が信長の命令じゃなくて単なる部下の暴走でも、信長には使用者責任があるんだよ。イラクで米軍兵士が無抵抗の捕虜を虐殺したら、大統領が非難されるのと同じだよ。

使用者責任を考えれば、本項における問題は信長の部下が虐殺を行った事実があるか否かであって、信長が命令したか否かはたいした問題じゃない。

おまえらの無知ぶりにもあきれるが、武田家統治下の甲斐国には武田家の一門・親類なんか腐るほど存在していたから、織田軍による虐殺対象は「信長公記」に書かれた人たちには留まらない。

あと、武士の世界では「○○家家臣」と言うときは普通は君主の直接の家来である「直臣」を指すんだが。

武田家でいえば、武田勝頼の家来の家来は「陪臣」といって、厳密には「武田家家臣」じゃないのな。

ヤクザの世界で組長から直盃を受けたかどうかと一緒で、「直臣」と「陪臣」とでは扱いに雲泥の差があるのな。

だから「武田家の一門・親類・重臣を探し出してことごとく処刑した」という事実があれば、「武田家家臣を探し出してことごとく処刑した」と表現しても、虚偽ではないんだよ。織田軍が下っ端の侍をどれだけ助命しようが、「武田家家臣」を助命したということにはならない。

わかったか無知野郎ども。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月6日 (金) 13:33 (UTC) に投稿したものです。[返信]

まず「降伏したにも拘らず」などとはどこにも書かれていません。またことごとくの主語は信忠であって織田軍ではありません。もちろん信忠が総大将ですが、織田軍全体で布令が出されていた訳ではありません(少なくともそのような記録は信長公記にはありません)。その所を区別してください。あなたは話をずらしていますが、問題になっているのは信長の使用者責任などという現代的な話ではなく、「それが織田軍の全体的な命令によるものか」です。
ノート:武田狩りで言ったことと重複しますが、当時はそのような残党狩りはごく一般的なことであって別段罪悪とも感じていなかったでしょう。それこそ信長が責任を感じるはずもありません。それは現代の感覚で言えば虐殺といえるかもしれませんが。
『信長公記』はざっと見た限りですが、単に殺されたのはたくさんありましたが、降伏したにも拘らず殺されたというなどとはどこにも見当たらなかったです。快川紹喜と恵林寺はそれに近いかもしれませんが、降伏はしてません。どうしてもそう主張したいならご自分で当該場所を示して下さい。それをしないで私の努力不足などとはやめてください。らりた 2007年7月6日 (金) 13:56 (UTC)[返信]
「武田家統治下の甲斐国には武田家の一門・親類なんか腐るほど存在していたから、織田軍による虐殺対象は「信長公記」に書かれた人たちには留まらない」ことを事実で示してください。『信長公記』の拡大解釈で済ませるのは止めてください。--丁度氷 2007年7月6日 (金) 14:01 (UTC)[返信]

>らりた

もうほんと馬鹿そのものw

そもそも、この記事は「武田征伐」に関する内容なんだから、織田軍による武田家家臣探索&虐殺の事実を書かなきゃ話にならんだろうが。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月6日 (金) 14:00 (UTC) に投稿したものです。[返信]

>丁度氷

自  分  で  調  べ  ろ  マ  グ  ロ  野  郎--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月6日 (金) 14:08 (UTC) に投稿したものです。[返信]

事実であれば出典を明記してください。そうでなければ「事実を挙げられない」という事実だけ受け取ります。--丁度氷 2007年7月6日 (金) 14:18 (UTC)[返信]

>丁度氷

歴史的知識もねぇくせに勝手にはまってきて、自分の無知・努力の欠如を棚に上げて、上から目線で話してんなよ?

「日本の苗字7000傑」「家紋World」あたりをググって、勝手に見て納得しな。

そもそも、現実世界のおまえの目の前に俺が行って文献を差し出せるわけじゃないんだから、そんなに「出典示せ」言われてもな。

おまえも職場で「融通が利かないやつ」「使えないやつ」扱いされてんだろうなw

戦国大名の家臣団には「庶流」と言われる分家筋が含まれているのが普通で、特に武田家のような戦国大名の中でも古い家系の場合、家臣団に占める庶流の割合は高いんだよ。

しかも主君の分家筋じゃない家臣でも、婚姻や養子のやりとりで分家筋と親類関係になっているのは珍しくないし。

だから「武田勝頼の一門・親類・重臣を探し出して処刑する」ということは、実質的に武田家の「直臣」を皆殺しにするということなんだよ。

いいかげんこれで納得しろや。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月6日 (金) 15:37 (UTC) に投稿したものです。[返信]

前後の文章を全て引用してみましょう。
三月七日、三位中将信忠卿、上の諏訪より甲府に至りて御入国。一条蔵人私宅に御陣を居えさせられ、武田四郎勝頼一門・親類・家老の者尋ね捜して、悉く御成敗。生害の衆、一条右衛門大輔、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介、今福筑前守、小山田出羽守、正用軒、山懸三郎兵衛子、隆宝、是れはおせうどう事なり。此等皆、御成敗侯なり
これを素直に読めば、この時に殺された名のある武将は書かれている9人、これに書かれていない家来の侍や妻子なども殺されたと思われますが。
IP150.37.251.33氏は誤解をしているようですが、「悉く」は「御成敗」にかかる言葉で「尋ね捜して」にはかかっていません。つまり「(一人残らず)悉く尋ね捜して御成敗」ではなく「尋ね探して(見つかった者たちを)悉く御成敗」です。この時点で信忠に殺された者はこれだけ、記載されていない者が多少は増えることはあっても「武田家の『直臣』を皆殺しにする」などという意味にはけしてなりません。この段より後ろの文で他に(信忠以外に)殺された者の名前を挙げていることからもそれは明らかです。あと、今気がついたのですが時系列がめちゃくちゃでしたので修正しました。らりた 2007年7月7日 (土) 09:46 (UTC)[返信]
武田狩りとして特筆されるべきような事柄事態が存在しないようなのでこの項目へのリダイレクトとしました。らりた 2007年7月7日 (土) 13:55 (UTC)[返信]

>らりた

無知・アホ・怠け者・屁理屈屋・負けず嫌いのらりたは誤解しているようですが、戦国大名の家臣団には「庶流」と言われる分家筋が含まれているのが普通で、特に武田家のような戦国大名の中でも古い家系の場合、家臣団に占める庶流の割合は高いんだよ。
しかも主君の分家筋じゃない家臣でも、婚姻や養子のやりとりで分家筋と親類関係になっているのは珍しくないし。
「日本の苗字7000傑」「家紋World」をググって見てきたかね?
見て調べてきたなら、武田家の分家がやたら多いことが理解できたと思うが。
その分家のうち、甲斐国内に留まって武田家に従う道を選んだものすべてが武田家家臣で、皆「武田勝頼の一門・親類」にあたる。
甲斐国においては、武田家と全然血縁関係の無い者が自然に武田家「直臣」になることなどありえなかった。
武田家と全然血縁関係の無い者でも特に能力を認められた者や武田家当主に気に入られた者は「直臣」に取り立てられることもあったが。
要するに、甲斐国内の武田家家臣団は、「武田勝頼の一門・親類」と、一門・親類ではないが特に武田家当主に認められて「重臣」となった者たちとで構成されている。
だから「武田勝頼の一門・親類・重臣を探し出して処刑する」ということは、実質的に甲斐国内の武田家「直臣」を皆殺しにするということなんだよ。
らりたが基本的に誤解していると思われるのは、武士の世界では「直臣」と「陪臣」の差は歴然としていて、下っ端の侍が「武田家家臣」として扱われることは、他国への使者になった場合などを除いて、通常ありえないのな。
あえて言うなら、武士の世界はヤクザの世界とよく似ていて、現代の会社で部長も課長も平社員も皆「株式会社○○の社員」という意識を持っていて「株式会社○○」から給料を貰っているのとは感覚が違うんだよ。
「織田信長→豊臣秀吉→石田三成」という「主人→家来」の関係があるとき、豊臣秀吉が石田三成をどう処分しようが織田信長には口出しする権限は基本的に無いし、織田信長は石田三成を「織田家家臣」とは思わない。
石田三成も自分を「織田家家臣」とは思わないし、織田信長に対して意見を言うことも原則許されない。
これが武士の主従関係だ。
だから、織田軍が下っ端の侍を助命したからといって、厳密には「武田家家臣」を助命したということにはならんのだよ。
こんなこと、戦国時代に詳しい人ならいちいち説明しなくても当然知っていることなんだがな。
同じようなことをもう1度書かせてもらいました。
また誰かが俺を投稿ブロックした後に、素人考えを書き足すのかな~?—以上の署名の無いコメントは、Takeda1st会話履歴)さんが 2007年7月7日 (土) 22:49 (UTC) に投稿し、さらに150.37.251.33会話/whois)さんが[2007年7月8日 (日) 01:27 (UTC)]に修正したものです。[返信]
ほぼ確信が出来たので、はっきり言います。虚偽を書かないで下さい。どの点が虚偽かを列記しておきます。
  1. 信忠が勝頼の一門・親類・家老連を探し出して殺したのは3月7日のことで、これを==合戦の後==の所に記しては時系列がおかしくなります。信忠の行動に付いては3月7日の時点に私が挿入しておきました。
  2. 同じことの繰り返しになりますが、この時の信忠の行動で殺された名のある武将は挙がっている9人とその一族郎党などでしょう。それ以外の武将は、それこそ勝頼もこの時点では殺されていません。これを武田家臣全てを探し出して殺したなどというのは拡大解釈を超えて曲解に類するものです。
  3. これまた同じことの繰り返しとなりますが、「降伏してきた者を皆殺し」などとは『信長公記』巻15にはどこにも書かれていません。
警告します。これ以上虚偽を書き続ける場合にはブロック依頼に持ち込みます。以上。らりた 2007年7月8日 (日) 03:04 (UTC)[返信]

>らりた

自業自得で恥かかされて怒るなってのw
  1. 信忠が勝頼の一門・親類・家老連を探し出して殺したのは3月7日のことで、これを==合戦の後==の所に記しては時系列がおかしくなります。信忠の行動に付いては3月7日の時点に私が挿入しておきました。
⇒これについては、どの時点を合戦の終了時点と見るかだろ。
まあ時系列にそって位置を移動したことには異論はないよ。
  1. 同じことの繰り返しになりますが、この時の信忠の行動で殺された名のある武将は挙がっている9人とその一族郎党などでしょう。それ以外の武将は、それこそ勝頼もこの時点では殺されていません。これを武田家臣全てを探し出して殺したなどというのは拡大解釈を超えて曲解に類するものです。
⇒「武田家家臣」を全員探し出して殺した、なんて俺がいつ言った?
俺の先祖のように、徳川家康に召抱えられた「武田家家臣」も大勢いたから、そんなことあるわけない。
俺が書いたのは
「『信長公記』には、織田軍が武田家家臣を探し出して、捕まえた者、降伏してきた者を皆殺しにしたことが書かれている」
だから、皆殺しにしたのは「信長公記」の中に登場する「捕まえた者、降伏してきた者」だ。
文章理解能力がないのか?
  1. これまた同じことの繰り返しとなりますが、「降伏してきた者を皆殺し」などとは『信長公記』巻15にはどこにも書かれていません。
⇒「信長公記」巻十五に書かれている者の中で、武田信廉小山田信茂は、侵攻する織田軍に対して無抵抗だったにもかかわらず、殺されている。
特に小山田は、降伏したにもかかわらずだ。
そういう状況があったから、俺の先祖のように、長年支配した領地を捨てて甲斐国を脱出して家康にかくまわれた「武田家家臣」もいたわけなんだがね。
戦国時代の初歩的な知識も無い完全な部外者が「皆殺し計画は無かった」とか何言ってんだって話だよ?
つうか、「信長公記」巻十五の後ろの方読んでいないだろ、おまえ。
織田軍が武田家残党狩りのために報奨金を出したので農民が名のある者の首を次々と持ってきたことが書かれているわ。


「所々にて御成敗の衆、諏訪刑部、諏訪采女、だみね、長篠、是れ等は百姓どもとして、生害させ、頸を進上 則ち御褒美なされ、黄金下され侯ひしなり。是れを見る者、先々まで名ある程の者尋ね捜して、頸を持ち参りキ」


↑「あちこちで処刑した武田家家臣(は以下の者である)」「農民どもに殺させ」とあるのに、これでも皆殺し計画が無かったと言うかw


「ほぼ確信が出来たので、はっきり言います。虚偽を書かないで下さい」?
「これ以上虚偽を書き続ける場合にはブロック依頼に持ち込みます。以上」?
ろくに調べもしないで、上から目線で話してんじゃね~よ(怒)。
これ以上、歴史知らんくせに、でしゃばってくんなって。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月8日 (日) 06:31 (UTC) に投稿したものです。[返信]
ああ、そういえば小山田信茂を忘れていましたね。大変失礼しました。
しかし小山田信茂は信忠の行動とはまるで関係がありません。信茂のことは既に記載済みです。そして同じく降伏した木曾義昌・穴山梅雪は生かされています。それなのに皆殺しなのですか?信廉は単に城を守ることが不可能と感じて逃亡しただけであり、これを無抵抗などというのはこれまた拡大解釈です。
前にも言いましたが、残党狩りはごく普通の行為です。それを以って「皆殺し計画」などとは言いません。しかもこの時に殺されたのは4人ですよ?計画というからには立案者は誰ですか?それはいつ布告されましたか?それを記す史料はありますか?らりた 2007年7月8日 (日) 06:33 (UTC)[返信]

>らりた

「この時に殺されたのは4人」?
上に挙げた文章の中に「是れを見る者、先々まで名ある程の者尋ね捜して、頸を持ち参りキ」とあるだろうが。
そこに挙げられた4人以外にも残党狩りで殺された者が他にもいたことが書かれているだろうが、アホ。
「信廉は単に城を守ることが不可能と感じて逃亡しただけであり、これを無抵抗などというのはこれまた拡大解釈です」
戦わずに逃げるのは無抵抗のうちに入らないってか?
どこの野蛮人だ、おまえは?
「残党狩りはごく普通の行為です。それを以って『皆殺し計画』などとは言いません」
戦国時代の残党狩りは、残党を皆殺しにするためにやるもんだろ。
逆に、戦国時代の残党狩りにあって助命された例があるなら、後学のために聞きたいもんだわ。
「降伏した木曾義昌・穴山梅雪~~~」
木曾義昌・穴山梅雪が真っ先に裏切ったおかげで織田軍はたいした犠牲も払わずに武田領内に入れた。
その2人まで殺したら、以後、敵方の武将で信長に協力する外部者はいなくなる。
穴山梅雪にいたっては、信長が知ったときには既に家康の家臣になっていたし。
武士の世界では、たとえ自分の家臣でも、その家臣の家臣の処分については口出しできないのが原則だというのは既に書いたとおり。
まして家康は盟友だからな。
もう出てくんなって。恥の上塗りするだけよ?
それとも俺を投稿ブロックしてみる?w--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月8日 (日) 06:58 (UTC) に投稿したものです。[返信]
>戦国時代の残党狩りは、残党を皆殺しにするためにやるもんだろ。
だとすれば何故にこの戦いだけをそこまで虐殺だとか皆殺しだとか強調するんですか?
>その2人まで殺したら、以後、敵方の武将で信長に協力する外部者はいなくなる。
そうだとすれば皆殺し計画など存在しなかったことになりますね。
これ以上やっても不毛だからコメント依頼に出しました。らりた 2007年7月8日 (日) 07:17 (UTC)[返信]

>らりた

「だとすれば何故にこの戦いだけをそこまで虐殺だとか皆殺しだとか強調するんですか?」

別に信長の戦いで虐殺・皆殺しと言われているのは武田狩りに限らないが?
比叡山でやった虐殺とか、長島一向一揆でやった皆殺しとか、北陸方面でも一向宗徒の皆殺しをやっているし。
みんな一般的に虐殺・皆殺し等と評価されているが、なんでこの武田狩りについてだけは「虐殺じゃない」「皆殺しを目的としたものじゃない」と言い張るのかな?
信長はそれを天下のためになると思ってやったんだろ?
だったら信長とそのファンには、その過程で行ったことを十字架として背負っていってもらわなきゃ。
信長を殺人鬼みたいに言われるのが嫌ならさっさと信長ファンやめたら?

>>その2人まで殺したら、以後、敵方の武将で信長に協力する外部者はいなくなる。

>そうだとすれば皆殺し計画など存在しなかったことになりますね。

「みんな殺していないじゃん。助かったやつもいるじゃん。俺が正しいことが証明された。ざまぁみろw」

って大喜びしてんのかな?
子どもの口喧嘩じゃあるまいしw
何度も言うが、信長が木曾義昌・穴山梅雪を殺さなかったのは、上に書いた理由で、殺す選択肢と殺さない選択肢を比較したら、殺す方のデメリットが大きいからだろ。
おまえって、1度皆殺しにすると決めたら、後先考えずに予定どおり皆殺しにしないと気がすまないタイプの人なんだね。
でも世の中の人がみんな、そんな融通の利かない、損得勘定もできない人ばかりじゃないんだよ、ボク?
普通の人は、損得勘定して主義や予定に例外を設けることもあるんだよ?
子どもの口喧嘩レベルの反論しかできないなら、もう出てくんなって。
次にあんたがやることは投稿ブロックかな~?--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月8日 (日) 08:52 (UTC) に投稿したものです。[返信]

IP氏のブロックについて[編集]

コメント依頼からやってきましたが、この暴言はひどい。ログインユーザーではないものの、2度のブロック実施後も態度が変わらないようならば無期限ブロックも考慮されるべきだと思います。--Tiyoringo 2007年7月8日 (日) 09:00 (UTC)[返信]

暴言、方針への無理解、さらに出典を要求されてからの不誠実な誤魔化し。しかもブロック中(こう言ってはなんですが、ほんの1日です)にアカウントを作成してブロック逃れの編集。投稿ブロックという措置についても、挑発的言辞を弄しています。
現時点で既に長期ブロックでもおかしくないと思います。ブロック解除後にいくらかでも改善の様子が無ければ、荒らしとして対処するのが適当でしょう。 -- NiKe 2007年7月8日 (日) 09:23 (UTC)[返信]
著述内容を置いて考えたとしても、削除された文章に「百科事典」の記述としてはふさわしくない表現がある点、ノートでの発言が暴言過ぎるなど、いささか問題があるようです。ご自身のページを作られてそこで主張されるならどのような表現方法をされてもかまわないと思いますが、Wikipediaに書き込む以上、百科事典としての書き方のルールは守られるべきで、あの表現とこの言動では内容の是非をおいても執筆はご遠慮いただくべきではないでしょうか。--羽奈瀬蓮 2007年7月13日 (金) 06:04 (UTC)[返信]


私のことを暴言言いまくりの無礼者扱いなさっていますが、他人の書き込みを批判する前にその人が示した資料をちゃんと最後まで読まずに批判するのは無礼じゃないんですかね?(らりた氏のことです)
あなた方ウィキぺディアの管理人(?)諸氏は、誰かが書きこむたびに「おまえの書き込みが正しいという証拠を示せ」と言いまくっているようですが、「正しい証拠を示せ」というのは、つまりは「間違いが無いことを示せ」と言っているのであって、いわゆる「消極的事実の証明(悪魔の証明)」です。
言う方は楽でいいですけどね。
疑うだけでいいですから。
でも議論する人間のルールとしては、間違いがあることを指摘する側が具体的な事実を挙げて「ここに間違いが『ある』」と批判するのが筋だと思うんですけど。
私が関わっている法律の世界で例えるなら、あなたたちは、自分の目で見て怪しいやつを片っ端から警察署に連行して「おまえが無実だということを証明してみろ!」と迫る警察官みたいなものです。
法律の世界では、疑いをかける方が「有罪である」という証拠を出すのが当たり前なんですが。
ウィキペディアではそうじゃないようですね。
ウィキの各ページについて、具体的な事実を挙げて間違いを指摘するだけの知識や時間の余裕が無いなら、管理人にならなきゃいいんじゃないかと思いますが。
ほっとけばいいでしょう。
ほっといても、誰か知識のある反対意見者が異論を唱えて書き直してくれますよ。
私には、なんでそんなに必死になって書き込みを疑いまくって、検証可能性を保証しようとしているのか、意味がわかりませんね。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月16日 (月) 10:11 (UTC) に投稿したものです。[返信]
まず暴言を控えられたようで、その点大変喜ばしいことと思います。出来たら署名も為されると大変良いかと思います。
しかしですね。私はあなたの間違いに対して一々指摘をしたはずですが。
「資料をちゃんと最後まで読まずに」というのはあなた自身に当てはまる言葉です。あなたが論拠として挙げた
>武田四郎勝頼一門・親類・家老の者尋ね捜して、悉く御成敗。生害の衆一条右衛門大輔、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介、今福筑前守、小山田出羽守、正用軒、山懸三郎兵衛子、隆宝、是れはおせうどう事なり。此等皆、御成敗侯なり
>所々にて御成敗の衆、諏訪刑部、諏訪采女、だみね、長篠、是れ等は百姓どもとして、生害させ、頸を進上則ち御褒美なされ、黄金下され侯ひしなり。是れを見る者、先々まで名ある程の者尋ね捜して、頸を持ち参りキ
などはあなたの言う皆殺し計画を何も証明していません。この文章は単にその時にこういうことがあって、それらの人物が殺されたということを示す文章に過ぎません。
蛇足ながらいえば、後者の「是れを見る者」以降の文章はいちいち史書に名を記すまでも無い者たちが殺されたことを示すに過ぎず、あなたの論法を借りれば「織田軍が下っ端の侍をどれだけ『殺そうが』、「武田家家臣」を『皆殺しにしようとした』ということにはならない。」です。
前にも言いましたが、皆殺し計画というからには事前に布告があって、それが全軍に通達されるということが必要です。それを示す史料は何かありますか?少なくとも「信長公記」には存在しないと言っておきます。
また悪魔の証明に関してですが、この場合は「皆殺し計画が存在する」と主張、あるいは「降伏してきた者を全て処刑」という記述を付け加える、ことを要望するあなたがその証拠を示す必要があります。繰り返しますが「信長公記」にはそのような記述はありませんでした。降伏してきたにも関わらず殺された小山田信茂もいますが、これはあなたが書き加えた部分である信忠の行動とはなんら関係しません。また信廉は単に城を守るのが不可能と感じて逃亡しただけであり、その後の行動に付いては殺されるまで(抵抗したとも無抵抗とも)何も書いていません。らりた 2007年7月16日 (月) 11:59 (UTC)[返信]

>らりた

「百姓どもとして、生害させ」をどう読んだら「百姓たちが自分の意思で殺した」という意味になるんでしょうかね?
日本語を理解できる人なら、どう読んでも使役の意味だとわかるはずですが。
つまり、上の部分は「百姓たちに殺させた」と読むのが自然で、完全に虐殺命令があったことを示唆していますが?
「褒美を受けた者を見た他の者も、武田家中で名のある者を探し出して殺して首を持ってきた」
と書いてあるのですから、普通に「武田家家臣」=信玄・勝頼の「直臣」はターゲットになりますが?
信廉については、抵抗したという文献が「ある」ことを示して証明するのがあなたの立場です。
「信廉は無抵抗で捕らえられたのではない」なんて説、あなた以前に言う人に会ったことは無いので、そういう世間一般に広まっている見解をくつがえす文献が「ある」なら、示してください。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月16日 (月) 12:15 (UTC) に投稿したものです。[返信]
あと、「信長公記」の文中には織田信忠が「勝頼の親類を探し出して処刑した」ということがはっきり書かれていますが、勝頼の親類とはすなわち甲斐源氏の一族です。
「勝頼の親類を探し出して処刑した」という文が「甲斐源氏を探し出して処刑した」という意味であることがわからない人は、戦国時代の記事について云々する資格ないです。
基本的知識なさすぎです。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月16日 (月) 12:32 (UTC) に投稿したものです。[返信]
世間一般に広まっている」、あるいは「基本的知識」であるのなら、いくらでも出典を示せるように思えますが。素人には分からない事情でもあるんでしょうか。 -- NiKe 2007年7月16日 (月) 12:37 (UTC)[返信]
「百姓共「を」して」とあれば使役ですが、「百姓共「と」して」であれば単に「百姓たちが」という意味でしょう。また命令が出ていたとしたら「是を見」なくても褒美をもらえることは明白なはず。命令があったとすると不自然な記述になってしまいます。--丁度氷 2007年7月17日 (火) 17:15 (UTC)[返信]

>Nike

「信廉が抵抗した」と書かれている文献があるとは、私は聞いたことがありません。
「ある」というなら出してください。
「信長公記」の記述を見ても、戦わずに逃げ出して捕らえられたのですから、「無抵抗で捕らえられた」と解するのが常識的な判断です。
それを「抵抗した」とあえて逆解釈しなければならない特段の事情でもあるんでしょうか?
あと、知識が無いなら、本文の編集を元に戻すのやめてください。
「百姓どもとして、生害させ」という文は、明らかに織田軍が殺害目的で武田家の残党狩りを行ったことを示しています。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月16日 (月) 12:47 (UTC) に投稿したものです。[返信]
信廉たちが大島城を放棄したのが、2月16日。信廉が信忠により捕らえられて殺されたのが3月7日。その間、約20日の間に信廉が何をしていたかを示す文章はありません。戦わずに逃げ出したとは書いていますし、捕らえられたとも書いていますが、その二つの間には20日の間があるわけです。逃げ出した直後に捉えられたわけではありませんよ。私は「信廉が抵抗した」とは主張していません。「信廉が抵抗した」とも「「信廉が抵抗していない」ともこの文章からでは確定できないと言っているのです。らりた 2007年7月16日 (月) 12:52 (UTC)[返信]

>らりた

私の方は、「信廉が無抵抗で捕らえられた」ことを推認させる間接証拠を十分に出しているつもりですが、あなたの方は逆に「信廉が抵抗した」ことを推認させる間接証拠さえ出していませんね。
これが裁判だったら、100%あなたの負けですよ。
あなたは自分勝手な疑いを持って「信廉は抵抗した」と根拠も無く主張しているだけで、一切立証していませんから。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月16日 (月) 13:01 (UTC) に投稿したものです。[返信]
歴史学は裁判ではありません。裁判ならば「AでなければB」となりますが、歴史学では「Aでもない、Bでもない」ならば「AともBともいえない」が歴史学です。
更にいえばあなたの言っていることはとてもではないけれども間接証拠などとはいえません。らりた 2007年7月16日 (月) 13:06 (UTC)[返信]
(追記)あなたが「無抵抗で」と主張したいならば「無抵抗であった」という証拠を、もし他の誰かが「抵抗した」と主張したいならば「抵抗した」という証拠を示す必要があり、両方とも提示できないならば「どちらともいえない」となり、ウィキペディアに書く場合には「どちらも記さない」となります。私は「信廉は抵抗した」などとは主張しておらず三番目の立場であり、あなたの主張するところは証拠とするに足りないので記すことは不可といっています。らりた 2007年7月16日 (月) 13:11 (UTC)[返信]

>らりた

「信長公記」巻十五をちゃんと最初から最後まで読みましたか?
武田家を裏切った者と織田軍に抵抗した人は、1人で抵抗した場合でも(←朝比奈弥四郎)、下の名前もわからないような者(←芋川)であっても、抵抗したことがきちんと記録されています。
したがって、もし信玄の弟である信廉が織田軍に対して何らかの抵抗をしたのであれば、必ず記録されているはずですが、そうした記述は「信長公記」には一切ありません。
ゆえに、信廉は無抵抗のまま捕らえられて殺されたと考えるのが妥当な判断です。
歴史学における事実認定については、文献に書かれていることが全て、文献に書かれていないことは事実でも虚偽でもないとする実証主義的な手法は批判されているそうですね。
法律の世界でも、いまどき実証主義は流行りません。--以上の署名のないコメントは、150.37.251.33会話/Whois)さんが 2007年7月16日 (月) 15:02 (UTC) に投稿したものです(Alljalによる付記)。[返信]
どうでもいいですけど真田昌幸は?武田家家臣(父幸隆は二十四将に確実に入る重臣)にして信長への徹底抗戦(勝頼を岩櫃城に迎えて篭城するつもりだった)を企て、滅亡後降伏して本領安堵されて滝川一益の与力となったはずですが?。あと本能寺の変については『信長公記』の記述が正しいと歴史学界ではなっていませんし、長篠の戦いの鉄砲三千丁も実は千丁のところを後から三を書き足したのでは?という説があったりと、『信長公記』に書かれていることだから何が何でも正しいとは限りまんし、そもそもなぜに武田家についての記述を『信長公記』だけに限るんでしょう?--べっ甘七みつ・たけタカひろ 2007年7月16日 (月) 17:26 (UTC)[返信]
「推認させる間接証拠」ではなく、「信廉は無抵抗のまま捕らえられて殺されたと考えるのが妥当」とされている文献があるなら、それを示していただければと思います。歴史学の信頼できるほう方言であれば、実証主義的な手法に拠らず、そのような記述をしていても、構いません。ウィキペディアでは、投稿者による「推認」は、原則として受け入れられないのです。Wikipedia:独自研究は載せないを参照してみてください。--Ks aka 98 2007年7月17日 (火) 07:53 (UTC)[返信]


この間からずっとなんですが、俺を書き込み禁止にした上で批判意見を書き込むのはやめにしてもらえませんかね?
フェアじゃないですよ。
それともこういうやり方がウィキの議論の仕方ですか?
あなた方ウィキ管理人(?)諸氏のそういう態度が某所で超ひんしゅくを買っていることをお知らせしておきます。


>べっ甘七みつ・たけタカひろ


真田家の動向に関しては「信長公記」には書かれていないようですね。
「信長公記」だけを資料として挙げているのは、武田家滅亡の経緯を記した、信頼性の高い資料が他に思いつかないからですよ。
いわゆる1次資料に書かれているからといって内容を鵜呑みにできないのは、ウィキの史料批判のページにも書かれているとおりで、承知しています。
ただ、「芋川」とかいうどこの馬の骨とも知れない者でも織田軍に抵抗したことが「信長公記」には記録されているのは間違いないことです。
「芋川」とやらについてさえ記録されているのですから、もし、武田家のVIPである信玄の弟・信廉が抵抗したのであれば、同じ文献の中でそれについても書かれているのが当たり前で、書かれていないのは不自然極まりないことです。
したがって、抵抗したことを示す資料も特に無い以上、無抵抗のまま捕らえられたと推認するのが当然です。


>Ks aka 98


あなた方の言うとおり、古文書に書かれていることが歴史の全てで、書かれていないことについて何も推認することが許されないのなら、歴史学は、古文書を現代語に翻訳するだけの作業になります。
ウィキにおける歴史学の定義は「古文書を現代語に翻訳すること」だと他のサイトで宣伝していいですか?
上に書いたように、そういう実証主義的な手法は歴史学の分野では批判されているそうですが。
あと、検証可能性についてですが、amazonで入手できる本の名前を適当に1冊挙げれば、それであなた方は満足するんですか?
その程度の検証可能性があるかないかであなた方がここまで必死になる意味がわかりませんが。—以上の署名の無いコメントは、Takeda1st会話履歴)さんが[2007年7月17日 (火) 10:23 (UTC)]に投稿したものです(Alljalによる付記)。(IP:150.37.251.33と同一人物です)[返信]


文章表現が直られた様なので討論に参加させていただきます。正直なところ、内容如何に関わらずあの暴言では会話をしたいと言う気にはなれませんでしたので……。
ちょっと内容を整理いたしたいのですが、無記名さん(仮にこう呼ばせていただきます。お名前がないと不自由で困るのですけど)は何を一番主張されたいのでしょうか? どうも論点があっちに行ったりこっちに行ったりしてしまっていて、途中から読むと本題がどこにあるのかがはっきりしないのです。
一応、いくつか問題になっているところを私の手元にある証拠を交えてお答えさせていただきますと、信長が落ち武者狩りをやったということ、それが戦国時代では厳しい方であった、と言う点には賛成します。無記名さんも仰られているように、延暦寺や長島などでの信長の落ち武者狩りは厳しい事は事実ですし、武田に対してのみそれが寛大であると言う必然性は確かにありません。
ただ、本文の清和源氏に対するコンプレックス云々、と言うのは賛成いたしかねます。近江の名門である京極氏、越前の朝倉氏の降伏した朝倉景鏡はじめ、織田氏より名門である一族でも助命された人物は多数に上ります(後で殺された例もありますけど)。武田氏に対してだけコンプレックスを持つのもおかしなものでしょう。甲州の1/4を支配していた小山田氏を降伏後に殺害した事も考えると、甲州攻めでの落ち武者狩りは、純粋に後の甲州統治を考えた結果であると考えた方が自然だと考えます。
次に「直臣」「陪臣」の件ですが、武田の制度はもうちょっと複雑です。武田氏の場合、まず『同心』『被官』と言う区分があります。行政面の区分で、『同心』は武田家当主(以下仮に信玄とします)に直属する家臣、『被官』は家臣の部下となります。『同心』の場合は信玄から直接報酬や知行を受ける立場と言うことですね。
これと同時に、軍事制度の『寄親』『寄子』の関係があります。『寄親』は信玄直属の指揮系統に属し、『寄子』は家臣の指揮下にある人物を指します。
武田氏の場合、この二つが並立しています。したがって、『山県勢同心の寄子○○氏』と言った場合、軍事上は山県昌景の指揮下にあるけど、行政上は信玄直属と言う事になるのです(『甲陽軍艦』『高白斎記』『甲州法度之次第』『壬午起請文』など)。
こうなるとどこからが「直臣」でどこからが「陪臣」かと言う区分が難しくなるのはお分かりいただけるかと思います。実際、武田の制度は旧時代に属しており、簡単に「直臣」「陪臣」で判断できるものではありません。
その上で「ことごとく処刑した」との事ですが、これには確かに誤解があります。故人ですが議員であった金丸信氏の金丸氏は武田氏の庶流ですが、ずっと山梨県に在住しておられます。また、下条氏(武田信成の子・武春の子孫)も同県敷島町大下条の辺りに本領安堵(7/19追記:巨摩郡中郡筋西下条とする史料があり、こちらの説の方が有力のようです。失礼いたしました。--羽奈瀬蓮)されました。信玄の弟、河窪信実の子・信俊は甲州松尾郷で200貫文安堵の文章が残ります。
そのほかに、重臣関係では土屋昌次の子、直次郎が山梨県青島庄市川に移住しましたが織田徳川時代を通じてそこに所領を持ち、奥近習六人衆の一人、曽根昌世は徳川に付きましたが、織田政権下でも本領安堵され(史料によっては織田家に降伏した、とするものもあります)、馬場信春の孫は甲州北山筋平瀬村(御岳昇仙峡奥)で帰農して現在まで存続しています(『甲斐国志』『甲斐志料集成』『壬午起請文』『山梨百科事典』、及び『甲斐路』『甲斐史学』など武田氏に関する研究論文などから一部抜粋。武川衆など武田氏との関係が定かでない事例は除きました)。
信長が反抗するものは皆殺し、と言う政策を取った事は事実として考えられると思いますが、降伏した者や帰農した者は武田の親族・重臣・同心・被官・寄親・寄子を問わず、甲州でも存続しています。
以上の史料と現代でも存続する家がある以上、降伏した人物への本領安堵は歴史的事実としてよいのではないでしょうか。
とりあえず問題となっていた部分のうち、私がお答えできる点をお答えさせていただきました。重ねてのお願いで恐縮ですが、無記名さんが一番主張なさりたい所をお教えいただければ幸いです。--羽奈瀬蓮 2007年7月17日 (火) 13:29 (UTC)[返信]
追跡調査の結果を記載します。
まず上記で『逃亡=反抗』か否か? と問題とされている点ですが、他の戦国大名ではどうかは解りませんが、織田家においては『逃亡=反抗』として認定していたと思われる点が何箇所か存在します。
天正元年北近江の樋口直房が勝手に敵と講和し逃亡したため、関盛信が討ち取った事例(『関文書』『当代記』など)。
天正五年に謀反した松永久秀の嫡子久通は、信貴山城落城後に大阪を目指して逃亡したが殺されました(諸説あり)。
家族を捨てて逃亡した荒木村重の家族に対する態度も傍証にはなりえるでしょう。
また、実際に逃亡後に反抗を続けた例としては越前一向一揆の若林長門(天正三年越前から加賀に逃亡→天正八年柴田勝家の北陸方面軍に敗北、斬首)や七里頼周(同天正三年越前から加賀に逃亡→天正五年上杉謙信が頼周に来援の書状を出し、1月後に手取川合戦。頼周の没年は不明)のように、しばしば逃亡しても抵抗を続けた人物もいます。
一方、先に記述したように馬場氏や同じ武田家中の望月氏(この方の家に伝わる鎧は当時の武田軍装を伝える重要資料だそうです……閑話休題)、他のところでは因幡の吉岡定勝、丹波の志賀頼久ら、織田家に降伏はしていないが帰農した人物には取り立てて処罰などはしていません。
これらの事例を見るに、織田家に置いては「織田家の統治力の確保」を主眼とし、降伏(織田家のシステムを受け入れる場合)、帰農(統治上問題とならない場合)には比較的寛大です。
一方、逃亡に置いては織田家のシステムに組み込まれることを拒絶した敵対行為とみなし、処罰対象として認定していたとするのが自然ではないでしょうか。織田軍の軍律の厳しさは当時でも知られていますし、個人的感想ですが、そのように認定しているのはどちらかと言うと厳格と残忍さを持つ信長らしいようにも思えます。
その上で正用軒(逍遥軒)信廉の態度についてですが、まず「逃亡」に関して。
信長公記には記されていませんが、天正十年一月二十日、信州大島城を放棄。この際、本人一人で逃亡したのではなく、信廉勢を引き連れて甲斐へと「撤兵」しています。これは織田軍から見れば戦略的撤退と見られても仕方がないでしょう。
そのまま信廉勢は塩尻から諏訪を通って甲斐に入り、御岳の金桜神社奥に避難(ここまでは記録があります)。この地には織田徳川両軍が甲斐を去る日を待った、しかし山狩りが始まり、逃げ切れないと悟ったので部下を解散させて降伏した、との伝承が残ります。なお、この伝承によると信廉は御岳に篭り武田再興を図った、との事。
一方、無抵抗であったとする伝承、伝説は地元甲府でも聞けません。勝頼と不仲だったため、新府城に同行しなかったと言う説はありましたが。山狩りが始まってからの降伏は無抵抗の降伏とは言えないでしょう。
湯浅常山(1708‐1781)著述の『常山紀談』と言う本によると、降伏しても刀を手放そうとしなかったため、謀殺に近い形で殺害される信廉の姿が描かれています。この本の信憑性は史実を見る上では当てにならない本とされていますが、信廉が無抵抗とは言いがたい態度であった、と言う事は当時でも一般的だったのではないでしょうか。--羽奈瀬蓮 2007年7月19日 (木) 01:24 (UTC)[返信]
書き落しがありましたので補足します。
【武田家のVIPである信玄の弟・信廉が抵抗したのであれば、同じ文献の中でそれについても書かれているのが当たり前で、書かれていないのは不自然極まりないことです】との事ですが、同じ所に書かれた一条右衛門大輔(信玄の弟・一条信龍)に関して何も書かれていない事がその理由の傍証となりえます。
信龍・信就親子は手勢を率いて徳川勢と交戦して捕らえられたことが徳川史料『三河物語』等に明記されています。ですがこの事は『信長公記』には記載されていません。忘れてはいけないのは、『信長公記』を書いた太田牛一は信長直属の軍に所属しており、武田を攻略したのは嫡男信忠の軍だと言うことです。
時系列で見ると武田滅亡時の三月十一日には、信長本隊はまだ岩村にいて、信濃にすら入っていません。仮に信長の手元に来る情報にだれそれが抵抗したが捕らえられた、と言うのがあったとしても、軍官僚でもなく一軍の将でもない太田牛一の立場に細部の情報が入るとも思えません。
『信長公記』に信廉が抵抗した記録がないから無抵抗だ、とするのなら『三河物語』の信龍に関する記述が虚偽となってしまいますし、もしそう主張なさるのでしたらその証拠を提示する必要があるのではないかと思われます。--羽奈瀬蓮 2007年7月19日 (木) 02:27 (UTC)[返信]
補追。
私は言語学者でも古文書研究家でもないので、図書館にある『信長公記』の訳本を調べました。
『信長公記 現代語訳』(新人物往来社)
『信長公記 新訂』(新人物往来社)
『信長公記』奥野高広、岩沢愿彦校注本(角川書店)
『信長公記 新装 原本現代訳』(教育社)
以上四種、版違いも含めて6冊の『信長公記』の訳を見ましたが、巻十五の問題とされている「百姓どもとして、生害させ」の部分はほぼ全て「百姓たちが自分の意思で殺した」とされています(表現上の差はありますが)。少なくとも織田軍が使役したとしている本はありませんでした。
先述したように私は古文の研究をしているわけではありません。が、無記名さん(Takeda1stさんでよいのでしょうか?)が【日本語を理解できる人なら、どう読んでも使役の意味だとわかるはずです】【基本的知識なさすぎです】とまで仰る以上、上記の本の出版社及び訳注者に対し、公式の訂正申請を出されるべきではないでしょうか。信長は専門外の私が普通に手に取る事ができる本の訳が間違っているのだとすれば、そのほうが日本文学史上における問題であるように考えます。
ところで、『IP150.37.251.33さんからの記述』から下があまりに長くなっているように思われます。
ノートを分割すると言うのができるのかどうかちょっと自信がないのですが、そこから上と下が文量・内容共に差がありすぎますので、分割提案をさせていただきます。
管理者様、ご一考をお願いいたします。--羽奈瀬蓮 2007年7月20日 (金) 00:57 (UTC)[返信]
とりあえず、ここに書きます。歴史学は、学問として妥当と考えられるならば、推認を行えるでしょうし、行うべきなのでしょう。それは、「歴史学」のフィールドで、論文や研究発表として行ってください。ウィキペディアでは、古文書に書かれていること、古文書に書かれていることから歴史学なり他の学問なりで得られ、発表された知見を、百科事典にふさわしい記述としてまとめなおすだけの作業をしているのです。「amazonで入手できる本の名前を適当に1冊挙げれば、それであなた方は満足するんですか? 」その通りです。その程度の検証可能性すら満たせないのであれば、ウィキペディアはその記述を信用できないものとして除去します。amazonで入手できなくとも、かつて公刊されていれば、それで十分ですから、できるだけ信頼性の高いものが望まれます。--Ks aka 98 2007年7月17日 (火) 13:50 (UTC)[返信]
Takeda1st(でよろしいのでしょうか?)さんこんばんは。ミリヲタのハシクレのの意見ですが、「信廉は逃亡したという記録はあるが戦ったという記録がない。だから信廉は無抵抗であった」というのはちょっとちがうのではないでしょうか。こういう場合、逃亡するという行為は抵抗の一種だと考えられます。信廉が無抵抗であったというのは積極的に織田方に降伏の意を表明していえるものでしょう。この場合だったら使者を立てて開城する、自らはすすんで織田方に身を預けるというのが無抵抗ということになるのです。逃亡するということは、反抗する意志があることだと追っ手の側が考えるのは妥当なことです。降伏せずに逃亡した人間がその末に捕らえられればその時点で恭順の意を表そうが命請いをしようが処刑されるのは当然のことです。
それから検証可能性について誤解があるようですが、一次資料であるところの「信長公記」に対してだれそれが論文なり著書なりでこういうふうに解釈していると記述すればいいのです。それがないと誰の意見・解釈なのかわからないですから独自の研究だといわれてもしょうがないじゃないですか。--Red Star Belgrade 2007年7月17日 (火) 14:01 (UTC)[返信]
Red Star Belgrade さんの意見ごもっともです。サッダーム・フセインやその息子たちも逃亡して抵抗運動を行なった事実もありますし。源義経にしても頼朝と戦おうとしたが兵が集まらず逃亡していますし。--Tiyoringo 2007年7月17日 (火) 17:09 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

現在の記事名は織田氏POVであり、武田崩れへの改名を提案します。[1]GOOGLE検索件数などでは圧倒的に武田征伐の方が多くなっていますが不適当だと思います。--Tiyoringo 2007年8月19日 (日) 05:15 (UTC)[返信]

織田氏POVという視点よりは「研究者がどちらを使っているか」で判断するべきと思います。Googleの検索数では判断材料にはなりえないので、知識のある方に教えていただきたいところです。らりた 2007年8月24日 (金) 12:26 (UTC)[返信]
検索エンジン上での検索結果はWikipediaでの情報源になりえない情報源(個人ブログ及び広告サイト等)も無差別に出されるので、何についての情報源にもなりえません。小田原の役などでも揉めていますが、「征伐=中立的ではない」ではなく研究者や学会の方針に従うのが百科事典として妥当であると思います。--kouko0515 2007年11月2日 (金) 11:31 (UTC)[返信]

2年前に武田崩れへの改名を提案しましたが蜀漢の滅亡などと同様、武田氏の滅亡といった記事名の方が良いように思います。武田氏滅亡、武田家の滅亡、武田家滅亡、他にも候補として考えられるかもしれません。--Tiyoringo 2010年6月26日 (土) 04:24 (UTC)[返信]

武田勝頼の死で武田氏は「滅亡」したことになるんでしょうか? 甲斐武田氏一門でも穴山梅雪などはその後も生きていますし、第一、武田氏は甲斐だけでなく日本中に同族がいます。その点では本文の記述の方にも問題がありそうです。--モンゴルの白い虎 2010年6月26日 (土) 11:17 (UTC)[返信]
戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡したといって良いように思います。若狭武田氏や安芸武田氏がありますが定義説明できちんと書けば良いように思います。--Tiyoringo 2010年6月26日 (土) 11:49 (UTC)[返信]

コメント 「甲斐武田氏の滅亡」であれば定義に合致しますが、「武田氏の滅亡」ではどの武田氏なのか不明です。しかし実際、書籍や論文では「武田氏の滅亡」のほうが使用回数が多いのではないでしょうか。なぜならば、甲信越の地方史などではわざわざ「甲斐」と付さなくてもわかる上、戦国時代の著名な大名ですから何も前置きがなければこちらの表現が使われるでしょう。また、武田征伐という表現についても中立性等による問題は特に無いと考えます。--秋田城之介 2010年6月27日 (日) 12:16 (UTC)[返信]

『山梨県史』通史編2中世においては、第九章が鴨川達夫氏の執筆で「武田氏の滅亡と徳川氏の支配」となり、第一節が「武田氏滅亡への道」、第四項が「武田氏の滅亡」となっております、ご参考までに。わたしは一通り武田氏研究の文献・論文等を見渡してはいるつもりですが、織田・徳川連合軍による武田攻めについて、あまり専論として扱われたことも少ないと思いますし、研究者内部での用語の統一も、あるようでないような状況ではないのかなぁと思います。--でここ 2010年6月28日 (月) 00:34 (UTC)[返信]

体感的には歴史関係の書籍や論文を見ていても「武田征伐」は見かけないような気がします。現在、ノート:九州の役にて似たような改名議論問題を抱えいますが、まずは記事の定義や主題(その記事は何なのか?何を基に作られているのか?)についての合意形成を行ってはいかがでしょうか?かつて、この記事名は天目山の戦いであったようで、それは今では節に包括され、記事の定義が異なってきたわけです。(記事に記事名を合わせたり、記事名に記事を合わせたりと手法は色々あると思いますが)
なお、参謀本部編『日本戦史 長篠役』元真社1903年にはメインテーマではありませんが戦後動静として「第三篇 戦後ノ動静及結果 第三章 武田ノ滅亡」の章題があるようです。谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』吉川弘文館2006年には信長視点のためか節題に「伊賀の平定と武田氏討伐戦」、見出しに「信忠の信濃侵攻」「武田氏の滅亡」があります。
さて、記事には参考文献が書かれていますが、主な出典になっているものがあるのでしょうか?出典から記事が作られるのですから、名称が割れている中で、その記事を構成するための出典元の呼称は無視できないと思います。--Yasumi 2010年7月2日 (金) 23:58 (UTC)[返信]
(コメント)多少脱線気味かも知れませんが、吉川弘文館の『国史大辞典』第9巻のP1033に「てんもくざんのへん(天目山の変)⇒武田氏(たけだし)」という誘導があります。一見すると、武田氏の滅亡のことをそういう呼び方をするのかと思ったのですが、当の武田氏の項目には勝頼の滅亡に関する事件の名称は登場しておりません。「天目山の変」なる言葉は実際に用いられているものなのでしょうか?--水野白楓 2010年7月16日 (金) 13:37 (UTC)[返信]

両軍の数字について[編集]

ここで上げられている数字ですが、織田軍の天目山の闘い(正確には田野の戦い)の損害がいかなる史料によるものかはわかりませんが「千人」だったりして、到底、信じがたいのですが?落ち武者で疲れきり女を含めて百人、武士の数が41人程度であった勝頼一行相手に織田軍が千人もの損害を出すでしょうか?この項目以外の数字にもいろいろ疑問があります。高遠城の織田勢の損害が千五百人というのもどういう典拠によるものでしょうか?高遠城の戦いにしろ天目山の戦いにしろ史料価値の高い信長公記を信用せず武田方の信憑性の低い史料を信用している感じなのですが。信長公記では高遠城の戦いも含めた武田討伐の戦いを楽勝のように記していますし、実際、織田勢が大きな損害を出した形跡はありません。--バオール 2010年7月8日 (木) 09:34 (UTC)[返信]

織田・徳川連合軍による甲斐侵攻および武田家の滅亡に関しては「信長公記」および「甲乱記」が基礎資料で、これに「家忠日記」であるとかわずかな文書が加わる程度であると思います。織田勢の損害状況とかも記されているとすればこれらの資料であると思うのですが、どなたか確認できますでしょうか。ただ、「信長公記」は信頼できて「甲乱記」は信頼できないとか、そういう価値判断を我々が下してしまうと独自研究に抵触してしまうものと思われますので、あくまでまずは武田家の滅亡に関して言及された武田氏研究や信長関係文献を調査して、それに基づいて著述していくべきであると思います。
本項以外でも武田氏関係記事をわたしが見ていて気になるのは、合戦における軍勢の数なのですよね。これらはおそらく「甲陽軍鑑」に依拠しているものと思われるのですが、実証的な研究者の著作を見ていても、軍勢の実数に関しては言及されることが少ないのです。合戦の具体的経緯などについては文書が残存していれば記録史料とあわせて経緯を説明し、場合によっては「甲陽軍鑑」の記述を参考にするという方法論が取られているように思うのですが、wikipediaにおける合戦の経緯などは少々「軍鑑」POVになっているものと思うのです。
「信長公記」や「甲乱記」の資料価値に関する議論はともかく、おそらく本記事もそうした編纂史料のPOVになっているのではないでしょうか。「信長公記」は資料的価値が認められるので経緯の説明においては全面的に活用してよい、あるいは「甲陽軍鑑」はそうではないから記述をすべて疑えとか、そうした利用の仕方は独自研究にあたるものであると考えますし、まず文献収集をしてから本項の記述を洗っていって、まずは編纂史料の記述のうち、研究者の間ではどこまでを真として扱っているのかを精査していくべきかと思います。--でここ 2010年7月8日 (木) 13:02 (UTC)[返信]
武田を攻めた徳川勢の記録「三河後風土記」によると、いかに田野の戦いにおける武田軍が闘うどころではなく、あっさりとやられたかがわかります。軍記的な史料では勇壮に闘って織田軍に大損害を与えながら死を遂げていったように書かれていますが、武田勝頼は実際はずっと石の上に腰掛けていたことが記されており、信勝、土屋といった武田の武士たちも実際は疲労と飢えで抵抗するどころではなく、かなりあっさりと討ち取られていったと書かれてます。しかも非常に説得力がある記述でここに書かれたような勇壮な最後より遥かにリアリティがあるものでした。勝頼一行が新府城を出て以来ずっと歩きづめで疲労り極だった事、野宿の連続であったこと、勝頼一行に兵糧を運ぶ小荷駄隊が随伴していたわけもなく彼らは深刻な食料不足の状態だったというのは非常に説得力があります。また高遠城の戦いについてもここの記述は織田軍の苦戦を強調しすぎてあり、わずか半日で陥落した件。信忠が午後二時に検分を終えたとする簡素な記述からして織田軍の被害を過大に見すぎです。--バオール 2010年7月16日 (金) 13:51 (UTC)[返信]
バオール様、情報ありがとうございます。ただ、記録史料を元に我々が何かしらの解釈をしてしまうことは独自研究に該当するものであろうかと思います。今後は、武田氏研究や織田・畿内政治史研究等関係分野における文献において武田氏の滅亡に関してどのように著述されているのかを精査する作業が必要になってくるものと思われます。--でここ 2010年7月16日 (金) 18:08 (UTC)[返信]

改名提案2[編集]

一年前にも改名提案があったようですが、本項目「武田征伐」を「武田氏の滅亡」にすることを改めて提案します。武田征伐という呼称よりも、一般的かつ的確だと思ったからです。当時の織田信長は大儀名分を得ない状態で武田氏と戦っており、これは対等な戦争ではないかと思います。また、たとえば「安土桃山時代史第 1 巻」の第六章第三節「武田氏の滅亡」のように、織田信長が武田氏を滅ぼすまでの顛末を記した表題に使われる例も多いようです。--貫鉄 2011年7月26日 (火) 06:51 (UTC)[返信]

本件についてなのですが、平山優氏の近著『天正壬午の乱』においては第一章を「武田勝頼の滅亡」として、いわゆる武田討伐・武田氏の滅亡を記しています。
天正壬午の乱とは勝頼滅亡から徳川家康による甲斐・武田遺領掌握までの争乱ですが、平山氏が武田討伐・武田氏の滅亡を「勝頼の滅亡」としているのは、天正壬午の乱において穴山氏の動向が絡んでくるからであると思われます。つまり滅亡したのは武田宗家であるのですが、天正壬午の乱や穴山武田氏の断絶までを「武田氏の滅亡」とするならば、定義が若干変わってくるのではないかと考えます。
穴山信君は信長に通じて宗家相続を保証されているわけですから、信長が討伐しようとした「武田家」はあくまで勝頼の系統であるわけですよね。改名の議論も必要ですが、このあたりの厳密な定義も加筆していきたいものです。--でここ 2011年7月26日 (火) 08:56 (UTC)[返信]
信長に宗家相続を保証されれば、自動的に宗家当主扱いになるというわけでは無いと思いますが、穴山武田氏など他の武田氏の扱いを考えなければいけないということは、でここさんのおっしゃるとおりだと思います。「甲斐武田氏の滅亡」や「武田勝頼の滅亡」のほうがいいかも知れませんね。--貫鉄 2011年8月4日 (木) 06:01 (UTC)[返信]

コメント なぜ「武田氏の滅亡」なのでしょうか?でここさんの懸念点もありますが、「天目山の戦い」や「武田征伐」に比較して優位かどうか十分に示されていませんので、現段階では反対します。--秋田城之介 2011年8月2日 (火) 02:49 (UTC)[返信]

比較してみてまず、たとえば「天目山の戦い」に戻すこと、それはそれでいいと思いますが、現在の記事内容はそれだけに留まっていないようです。「武田征伐」は大義名分を得ていない戦であり、あまり使用例が無い言葉だと認識しています。--貫鉄 2011年8月4日 (木) 06:01 (UTC)[返信]
大義名分を得ていない戦なのかどうかは我々が断定することではありません(そういう意見を言うなということではありません)。比較して多く呼称されているかどうかも含めて、全く根拠が示されていないと言っているのです。「記事内容はそれだけに留まっていない」と言われますが、それはどういった意味ですか?--秋田城之介 2011年8月8日 (月) 05:18 (UTC)[返信]
一つの指標として、グーグルの書籍検索で検証してみますと、「武田征伐」より「武田氏の滅亡」が多いです。また、書籍のタイトルになっているものでは「天目山」を冠するものが多いようです。「武田征伐」を採用するタイトルは無いと思いますが、小題はあるかもしれません。--貫鉄 2011年8月16日 (火) 06:21 (UTC)[返信]
「武田氏の滅亡」が「武田征伐」より多いというのであれば、そういった書籍等を列挙してください。また、「記事内容はそれだけに留まっていない」と言われますが、貫鉄さんはどういった意味でコメントしたんですか?--秋田城之介 2011年8月29日 (月) 02:36 (UTC)[返信]
今までに挙がったものを含みますが、少し調べても以下のような文献に見られます。翻って、「武田征伐」の使用は少ないように見られます。今更ですがこの見識も、もしかしたら私の不勉強から来るものかもしれませんが、現時点ではそうとしか言えないのです。また、井戸端において関連する議題を秋田城之介さんが提案されていたので、そこで質問させていただきました。--貫鉄 2011年9月5日 (月) 10:00 (UTC)[返信]
* 安土桃山時代史第 1巻 (早稲田大学大版部、1916年、渡辺世祐)
* 長野県史 考古資料編(長野県史刊行会、1982年)
* 長野県史 通史編第3巻中世(長野県史刊行会、1987年)
* 天正壬午の乱 (学研、2011年、平山優)
コメント 「記事内容はそれだけに留まっていない」といことに関してもコメントをお願いします。また、井戸端の方でも意見が出ていましたが、「甲斐武田氏の-」なのか「武田氏の-」なのかハッキリしたほうが良いと思います。また、「武田攻め」などの意見も出ていましたが、どうでしょうか?この項目は確かに、政権側の行動とは言い難い面があり、また「武田征伐」も知名度的に今一歩であり、改名も一つの道だと思いますが改名後の名称がハッキリしないのでは到底賛成できません。--秋田城之介 2011年9月7日 (水) 02:48 (UTC)[返信]
返答が遅れてすいません。「記事内容はそれだけに留まっていない」というのは、天目山の戦い以外の周辺事情や戦いが、既に多く入ってしまっている現状を指します。改名後の名前に関してはみなさんとの話し合い次第ですが、今のところ私は「甲斐武田氏の滅亡」「武田氏の滅亡」で良いのではないかと思っています。「武田攻め」は、用途が広すぎているような気がします。--貫鉄 2011年9月16日 (金) 09:28 (UTC)[返信]
「甲斐武田氏の滅亡」であれば妥協案として同意できますが、「武田氏の滅亡」には同意できません。--秋田城之介 2011年9月21日 (水) 05:00 (UTC)[返信]

コメント インデント戻します。「甲斐武田氏の滅亡」で合意形成できそうであればその案でいこうかと思います。秋田城介さん以外の方もご意見があればお願いします。--貫鉄 2011年9月24日 (土) 06:24 (UTC)[返信]

コメント 意見が書きこまれない状況ですので、一週間後を目処にページを移動したいと思います。--貫鉄 2011年10月4日 (火) 08:45 (UTC)[返信]

コメント 平山優氏による天正壬午の乱に関する二著が発表された最近の研究動向からすると、武田氏の滅亡は天正壬午の乱の前提として包括されるという考え方もできそうですね。この考え方をプッシュするわけではありませんが。

「武田氏の滅亡」という政治・軍事的な出来事は信長・織田政権の統一政策にも位置づけられますし、戦国大名武田氏・武田領国の解体過程にも位置づけられますし、甲斐国中世・近世移行来の出来事としても位置づけられますし、もっと広く武田氏滅亡・信長横死後の東国情勢・豊臣政権との関係の中にも位置づけられます。

「武田氏の滅亡」という出来事はそれぞれの研究史テーマごとに扱われているのであって、それ個別を扱った研究動向というのは、管見の限りでは存じ上げません。典拠において概念提示・用語統一が成されていないのであれば、そもそも本項はwikipediaにおいて単独立項されるべきではないのかもしれません。--でここ 2011年8月8日 (月) 08:58 (UTC)[返信]

たしかに概念提示というのは重要かもしれません。しかし用語統一されていないというのは、単独立項を妨げる理由にはならないと考えます。--秋田城之介 2011年8月11日 (木) 15:59 (UTC)[返信]

(コメント) 天目山の戦いなどいろいろな戦がありますから、それらを分割すれば、それぞれに適切な名前を付けることができるのではないでしょうか?--Historical rox 2011年8月14日 (日) 13:34 (UTC)[返信]

もしHistorical roxさんが分割を強く推すのであれば、分割提案を出すべきではないかと思います。--秋田城之介 2011年8月15日 (月) 14:32 (UTC)[返信]
分割は改名後でもできますが、分割に当たって分量を決める必要があり、議論が長期化するような気がします。具体的な案を提示されたほうが良いと思います。--貫鉄 2011年8月27日 (土) 05:07 (UTC)[返信]
(コメント) 誤解を招く発言だったかもしれません。あくまで理想論です。現実問題としてはバラバラにしなくても、例えば「天目山の戦い」とそれ以外に、便宜的に分けると言ったような。分割提案を出すつもりはありません。--Historical rox 2011年9月18日 (日) 14:02 (UTC)[返信]
そういった考え方はでここさんの意見に近いのではないでしょうか?これは、使用状況を踏まえた改名と矛盾せずに実行できることだと思います。例えば、「武田氏の滅亡」から特定の戦いを分割(あるていど加筆は必要ですが)するような形は可能だと思います。--貫鉄 2011年9月19日 (月) 05:30 (UTC)[返信]

最後の書き込み(私の書き込み)から10日経ちました。改名に関してみなさんどう思われているでしょうか?もし書き込みがない状況が続くのであれば、改名の実行を提案させていただきます。--貫鉄 2011年8月27日 (土) 05:07 (UTC)[返信]

平山優氏の「天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史」によると、信長は事前に

・朝廷に積極的な工作を行い、正親町天皇に勝頼は天下に寇(あだ)なす『東夷』と認定させることに成功していた(『増訂 織田信長文書の研究』)。

・さらに天皇の「叡慮」が綸旨で奈良興福寺、京都石清水八幡宮・吉田神社・三千院・青蓮院・本願寺など機内の有力寺社の他に、伊勢神宮にも伝達され、信長の武運のための祈祷が実施されたばかりか、誠仁親王も自ら石清水八幡宮に行幸し、祈祷を行うとの情報が流れた(『多聞院日記』)。

・事実、朝廷の戦勝祈願の祈祷とは、「御敵退治御祈祷」「御敵退散」=天下泰平国家安全と位置づけられている(『山梨県史』資料編6中世3下県外記録 75・82~84)

・このように勝頼は、織田信長の朝廷工作により、「御敵」(朝敵)と指弾されることとなった。

ということなので、大義名分はあります。また戦いの後、信長が勝頼らの首を京都に送って獄門にするよう命じた事(信長公記)も、この事実を裏付けています。

210.88.243.111 2011年9月13日 (火) 13:07 (UTC)[返信]

たしかに、210.88.243.111さんのおっしゃるような事実はあるのでしょうが、「朝廷工作による大儀」と「本人の役職・立場による大儀」ではだいぶ異なってしまうと思います。また、信長が勝頼らの首を京都に送って獄門にするよう命じた事に関しては、単に処罰を命じたことであって、武田征伐の用語には関係ありません。--貫鉄 2011年9月16日 (金) 09:28 (UTC)[返信]

>「朝廷工作による大儀」と「本人の役職・立場による大儀」ではだいぶ異なってしまうと思います。

具体的に何が異なるのでしょうか?なにかが異なったとしても、どのみち武田家は朝敵として討伐されたわけですから、少なくとも「当時の織田信長は大儀名分を得ない状態で武田氏と戦っており、これは対等な戦争ではないかと思います」という意見は完全に否定できると思います。

>信長が勝頼らの首を京都に送って獄門にするよう命じた事に関しては、単に処罰を命じたことであって、武田征伐の用語には関係ありません。

これは信長が「勝頼の首を京で獄門にできる大義名分を得ていた」という証拠で、両者の立場の違いを示すものです。「信長は大義名分を得ていたかどうか」を論争の焦点にするのであれば、関係を認めないわけにはいきません。

あと、たまたまノートをのぞいたところ大義名分の話をしていたので、知っている事を教えて差し上げましたが、私はページの名前には興味がありません。なので、「信長が大義名分を得ていたのは分かったが、それでもページの名前を変えたい」というのであれば、お好きにどうぞ。210.88.243.111 2011年9月20日 (火) 01:26 (UTC)[返信]

大義名分についてはこれ以上私からはなんとも言えませんが、コメントありがとうございました。--貫鉄 2011年9月24日 (土) 06:05 (UTC)[返信]

報告 2011年9月24日 (土) 06:24 (UTC) 及び 2011年10月4日 (火) 08:45 (UTC)から異論がありませんでしたので、ページの移動を実行いたします。みなさんご協力いただきありがとうございました。--貫鉄 2011年10月10日 (月) 05:53 (UTC)[返信]

報告 コメントまだ一週間経っていないので戻しました。甲斐武田氏はまだこのときに滅亡していないとの見方も示されており、それに対する回答がそうが思わない、というものだけでは合意に達しているとは言いがたいと思います。--ジャムリン 2011年10月10日 (月) 06:34 (UTC)[返信]
返事が遅れてすみません。戻しの理由についてはわかりました。甲斐武田氏はまだこのときに滅亡していないというのは甲斐武田家全体ということでしょうか?しかし新府が破却され勝頼とその後継者が亡くなった時点で本家は終わりではないでしょうか?「穴山武田家」と「甲斐武田本家」はあくまで別だと思います。--貫鉄 2011年11月13日 (日) 05:05 (UTC)[返信]
戦国大名としては終わっていても、穴山氏系とは別に甲斐武田氏はここでは終わっていません。甲斐武田氏でもまだ数代は続いていることが解説されています。--ジャムリン 2011年11月17日 (木) 02:40 (UTC)[返信]
私やでここさんが参照していた出典では、後世に武田氏が残っていても「武田氏の滅亡」が使用されていました。これは戦国大名として本拠地と当主を失えば、それはいったん滅亡したことを意味する、こういう考えを肯定するものだと思います。甲斐武田氏は高家として再興したのは事実ですけど、じゃあ滅亡してないかというとそうではないと考えるべきではないでしょうか。--貫鉄 2011年11月20日 (日) 05:21 (UTC)[返信]
それでは「戦国大名としての甲斐武田氏の滅亡」になるのでしょうか?紛らわしい上に優位性も緊急性もなく「戦国大名として本拠地と当主を失えば、それはいったん滅亡したことを意味する」という優勢な定義や定説がない限りは独自研究の域を出ないと思います。--ジャムリン 2011年11月28日 (月) 19:05 (UTC)[返信]
緊急性はありませんが、優位ではあると思います。そういった文献が多いのは事実ですし、「甲斐武田氏の血脈は続いているから武田氏の滅亡と呼ぶのは不適切だ」といっている学者の意見もないわけですから、そういった意味ではジャムリンさんのお考えのほうが独自研究に近いのかなと思います。私は○○征伐が気に入らないとかそういう意味で提案しているわけではなく、あくまで最も通用している名称が適切な形だと申し上げているだけですので、冷静にご判断ください。--貫鉄 2011年12月10日 (土) 07:51 (UTC)[返信]
優位といえるほどの根拠は提示されていないです。実際に歴史的にでも、ここで滅亡していないわけで、ここで滅亡したことにしましょうという研究者の定義もないように思いますが。--ジャムリン 2011年12月15日 (木) 16:28 (UTC)[返信]
たとえば平山優著『穴山武田氏』では武田氏の滅亡後として穴山梅雪の動向を書いています。私はここで滅亡していないから、といっている学者を存じていません。ですから私からみてジャムリンさんの意見は残念ながら説得力のないものになってしまいます。--貫鉄 2011年12月17日 (土) 05:52 (UTC)[返信]
この後の甲斐武田氏の名跡は無いものとするという研究者の定義もないようです。平田氏は無視していいとの見解なのでしょうか?--ジャムリン 2011年12月17日 (土) 07:49 (UTC)[返信]

(インデント戻す) ですから「甲斐武田氏の名跡が続いているから、これは武田氏の滅亡とは言えない」と言っている研究者が居ないので、滅亡は適切であると思うのです。甲斐武田氏の名跡があっても、大名としては滅亡したと考えられているのではないでしょうか?--貫鉄 2012年1月3日 (火) 06:48 (UTC)[返信]

ですから「名跡は続いているけど、これは無視していい」とする研究者がいるのですか?--ジャムリン 2012年1月3日 (火) 07:35 (UTC)[返信]
無視して良いかどうかは誰も問題にしていないではありませんか!「甲斐武田氏の名跡が続いているから、これは武田氏の滅亡とは言えない」という研究者が居ないので、私は「甲斐武田氏の滅亡」を使うことが適切だと思っているのです。
以前にも書きましたが、『穴山武田氏』の中では、武田氏の滅亡後(はっきり滅亡と書いてあります)として穴山梅雪の動向を書いています。このように一族として生き残りが居ても勢力としては一旦滅亡したものと考えられております。
ジャムリンさんがそれでもなお、いやそれは違う、とおっっしゃるのであれば、それを裏付ける書籍などを付けた上でコメントをお願いします。このままですとコメント依頼として第三者にお願いすることにもなるかもしれませんので。--貫鉄 2012年1月15日 (日) 08:24 (UTC)[返信]
裏づけも何も、事実と違っていること、しかも浸透しているわけでもない記事名をわざわざ押す事は何の理にも適うものではないでしょう。--ジャムリン 2012年1月15日 (日) 10:17 (UTC)[返信]
複数の専門書でも 武田氏の滅亡 は用いられている用語です。ジャムリンさんが独自の解釈でそんなことはないと思うからといって候補から排除するのはおかしいと思います。Tenseki 2012年1月21日 (土) 05:14 (UTC)[返信]
独自な解釈というより純然たる事実です。史実と異なっていることが判っている上に曖昧な意味のある言葉であり、研究書のように研究記述の流れの中で使用されている言葉を、用語として項目名にするほどの正当性は感じられません。--ジャムリン 2012年1月21日 (土) 10:09 (UTC)[返信]
いいえジャムリンさんは武田氏の滅亡を武田氏血脈や名跡の断絶のみを意味以外の見解や出典を認めておらず明確に独自研究を適用しています。独自の解釈で事実の範囲を決定して事実から除外するのはジャムリンさんの責任の範囲でやっていることです。武田氏の滅亡が研究記述の流れの中だで使用されているかのような批判がありましたが、それ以外にも項目名称として花見朔巳の「綜合日本史大系安土桃山時代」や中村孝也ほかの「安土桃山時代」で武田氏の滅亡は使用実績があるのでジャムリンさん主張は成立しません。Tenseki 2012年1月24日 (火) 06:39 (UTC)[返信]

インデント改)史実を正しく表していないことには変わりなく、誤解されやすい項目名を緊急に優先しなければならない理由がないことにも変わりありませんし、項目名であっても「戦国時代・桃山時代という「歴史の流れの一時期」の中で使用されていることも、また「研究記述の流れ」であるかと思われます。ここが「戦国時代または桃山時代限定wikipedia」であったのなら、また別の議論もあったと思います。--ジャムリン 2012年1月24日 (火) 10:02 (UTC)[返信]

やっぱり独自研究じゃないですか。改名候補を排除する理由になりません。Tenseki 2012年1月27日 (金) 05:05 (UTC)[返信]
そもそも排除しておりませんし、何が何に向かっての排除でしょうか。未だ意見交換としての議論中の段階です。Tensekiさんにおかれましては、正しく議論を把握してから参加していただきたいものです。--ジャムリン 2012年1月27日 (金) 07:10 (UTC)[返信]
報告 Wikipedia:コメント依頼/Tensekiを提出させていただきました。--秋田城之介 2012年1月27日 (金) 09:03 (UTC)[返信]
コメント 今議論というか説得の最中ですので、今すぐ投票というのは歓心いたしません。それとジャムリンさんへ。たとえば『甲斐武田氏の滅亡』であれば歴史上一回ですし、私があげたようにこのような表現は使用されており、独自研究ではありません。逆に武田征伐が正式だという論拠は未だいただいておりません。その点をふまえて、今後どうされるのか、一旦『天目山の戦い』に戻すかどうかも含めてご検討ください。--貫鉄 2012年1月29日 (日) 09:16 (UTC)[返信]
定義文においても武田征伐の主体として「織田信長の」とあります。ですが「甲斐武田氏の滅亡」というと、甲斐武田氏が主体としても史実と齟齬がある上、織田氏の武威の他、複合的な要因によるものとなるでしょう。「甲斐武田氏の滅亡」の典拠としている章題としている文献にしても、どこからどこまでを「甲斐武田氏の滅亡」として解説されているのか統一されているのでしょうか?『天目山の戦い』に戻す場合、他の合戦を分割するなりの話としてなら検討に足るものと考えますが、行動の主体を織田信長に置いての包括的な記事とするのであるなら、現行のままで不都合はないでしょう。--ジャムリン 2012年1月29日 (日) 10:27 (UTC)[返信]
定義分で解決する問題であるなら、武田征伐に「織田信長の」が省略されていることで解決するなら、同様に武田氏の滅亡に「戦国大名甲斐」が省略されていても問題の無いことです。最近出た黒田基樹さんの「戦国北条氏五代」にも「武田滅亡に見た圧倒的な織田軍の力」というタイトルと「武田氏の滅亡」が使われています。Tenseki 2012年1月30日 (月) 02:00 (UTC)[返信]

改名提案前の調査投票[編集]

記事名支持の調査投票[編集]

改名提案に先立って情勢把握のための調査投票を行います。なおこれは議決投票ではありません。

条件付反対 なぜ議論を経ずに投票を独断で準備されるのでしょうか?また「天目山の戦い」という選択肢が無いのもおかしい話です。--秋田城之介 2012年1月27日 (金) 09:03 (UTC)[返信]
反対 Wikipedia:投票#投票の告知にあるような「投票は入念な準備を行うことが強く推奨されます。」には当たらないため、Wikipedia:投票/リストから除去しました。提案者におかれましては、投票実施について、投票方法、投票結果の適用について十分合意を形成してください。--Tiyoringo 2012年1月27日 (金) 12:46 (UTC)[返信]
報告 Template:意見募集中に掲載された投票リストからも除去しました。--Henares 2012年1月27日 (金) 13:27 (UTC)[返信]
投票に賛成です。多数決をとれば常識が勝つはずです。参加者の常識に従いましょう。投票の反対理由が合意がないとのことですが、合意すればいいんじゃないですか?合意への反対理由がひとつもないのですから一週間後に合意成立で投票に移りましょう。それとお願い事項ですが、私のような初心者でも投票できるようにしてください。--多賀城佐 2012年1月29日 (日) 04:20 (UTC)[返信]
投票するかどうかもそうですが、投票のやり方、取扱いについても十分な議論がなされておりません。全員が一致する必要は必ずしもありませんが一人でルールを決めて投票するようなやり方は適切ではありません。--Tiyoringo 2012年1月29日 (日) 04:41 (UTC)[返信]
なぜ純然たる調査投票に反対なのでしょうか?問題点の指摘がない反対ですが、反対のための反対でしょうか?反対は具体的にお願いします。調査投票の目的についても、議論を始める判断ためと書いてあります。コミニティの意見を聞くという初歩的な手段に反対する理由があれば説明が必要です。なお期間から条件から念入りな準備はしてあります。Tenseki 2012年1月30日 (月) 01:39 (UTC)[返信]
Tensekiさんの提案ですが、Wikipedia:調査投票の方法に沿ったやり方で提案されているとはいえません。そこの冒頭にあるように、ウィキペディアは多数決主義ではありませんWikipedia:調査投票の方法#調査投票の手順の1にある「どんなに苦労を伴うものであっても合意に至る努力をすることが非常に強く推奨されます」にあたる努力は提案者であるTensekiさんによって行われていません。2の投票の性質についての合意形成に一週間程度かけてくださいとありますが、こちらもなされておりません。3では実情調査のために行われてはなりません。とありますがTensekiさんの提案理由には「改名提案に先立って情勢把握」とあり、これに反しています。--Tiyoringo 2012年1月30日 (月) 12:14 (UTC)[返信]
Wikipediaは勝ち負けを競う場ではありません。とはそのとおりでしょう。でも管理者選出や記事選考で日常茶飯事で投票は行われていますよね。選択問題では有効な解決方法のひとつでしょう。それに議論をする切欠にも優れた方法だとおもいます。僕もなんでもかんでも議決投票をやるべきだとは言っていません。合意のためにも投票を先行するべきだと思います。
Tiyoringoさんの指摘した三項目は拘束力がない条項のようですが、1.努力の有無はTiyoringoさんが独断で決めるのなら別ですが、私は努力された結果だと認識しました。2.一週間の合意期間は準備されています。私も改めて確認を取りつつありますので合意しましょう。3.語尾だけ引用して「投票が実情調査のために行われてはなりません。」を投票不可の理由にするなら、むしろ議決投票をしようとしているノート:小田原の役ノート:九州の役は投票ができないはずです。しかしそうではないでしょう?調査投票ですから問題ないはずです。
それにノート:九州の役ではTiyoringoさんの参加しているところで小判キングさんが調査投票を実施していますが容認していましたよね?なぜ人によってルールや態度を変えるのでしょうか?Tiyoringoさんにとって不足している何を取り除けば投票に賛成してもらえるのか教えてください。ウィキペディアは多数決主義ではありませんから議決投票でなく調査投票になっているのではないでしょぅか。--多賀城佐 2012年1月31日 (火) 11:51 (UTC)[返信]
投票方式を考える努力はされているかもしれませんが、投票方式について他の利用者と協議する努力は全く取られておりません。--Tiyoringo 2012年1月31日 (火) 11:56 (UTC)[返信]
協議が必要なら必要と思った人が協議すべきでしょう。具体的な反対でないなら協議のしようもないでしょう。Tensekiさんが調査投票を掲げていたとしても対話拒否をしているわけではありません。むしろ対話を求めているように思います。どちらにしろ一週間以上の合意期間をめどに下項で合意形成を試みていますのでよろしくお願いします。候補名の登録や比較の仕方から議論をスタートさせるのに適した投票だと思います。--多賀城佐 2012年1月31日 (火) 22:11 (UTC)[返信]

合意形成[編集]

合意がないと指摘がありましたのでルールどおりに動向調査のための調査投票をすることを提案します。提示された叩き台を出発点に反対意見の方は投票の障害となる理由(取り除けば合意できる条件)を付けてください。(なお、期間については合意形成後からの繰り延べとします多賀城佐 2012年1月31日 (火) 22:13 (UTC)追記) 賛成 提案票--多賀城佐 2012年1月30日 (月) 11:16 (UTC)[返信]

反対 投票で議論に終止符をうとうという合意さえできておらず、障害を除けば容易に合意できる状況にはなっていないように見えます。--Tiyoringo 2012年2月1日 (水) 11:54 (UTC)[返信]
僕は議論を始めるにも投票結果を見てからのほうが良いと思います。それにしても一存で提出された投票準備の告知を握りつぶして良いのでしょうか?コメントを付けた人で投票に反対なら不足しているものが何かを指摘して投票を推進するか?それとも投票自体に変わる問題解決の別案を具体的に示す必要があるでしょう?ただ単に投票が阻止できればなんでもいいのですか?--多賀城佐 2012年2月5日 (日) 10:14 (UTC)[返信]
投票実施もそうですし、投票方法、それの利用について他の利用者との協議の努力が見られません。もともと投票で決着しようという合意がなされたわけではありませんので、少し修正しただけで投票が実施できるものではありません。--Tiyoringo 2012年2月5日 (日) 10:23 (UTC)[返信]
投票で決着しようなんて提案はしていませんので不当な批判です。私の提案はあくまでも拘束力を伴わない調査投票なのに。対話の努力はあるのですが、問題を解決する方向で対話してくれないではありませんか?投げっぱなしの提案よりはましだと思います。Tenseki 2012年2月6日 (月) 05:58 (UTC)[返信]
賛成 あくまで調査投票ですので。--Yayoinokoe 2012年2月8日 (水) 08:06 (UTC)[返信]
提案公示時点でアカウントなし。--hyolee2/H.L.LEE 2012年2月8日 (水) 08:30 (UTC)[返信]
投票を呼びかけたり、投票準備の告知をしたことが私のブロックの要因とされているので、今回の投票提案は取り下げます。却下された方々においては、私にかわって、今回以上の良い方法で改名議論が解決することを祈ります。Tenseki 2012年2月9日 (木) 07:12 (UTC)[返信]
投票による情勢調査が議論解決のきっかけになると思っていただけに残念でなりません。仕方がないのでで投票に反対された方の議論による解決に期待します。--多賀城佐 2012年2月10日 (金) 11:00 (UTC)[返信]


情勢投票に反対した方は代案の提出をお願いします。反対のための反対でないのなら。このままでよしとしているなら何も申しません。--多賀城佐 2012年2月11日 (土) 04:30 (UTC)[返信]

「武田攻め」「武田氏の滅亡」「甲斐武田氏の滅亡」「甲州平定」などの中で妥協できる案、もしくは「天目山の戦い」に戻すか、場合によっては現状維持か、などさまざまな形が考えられます。私は「甲斐武田氏の滅亡」もしくは「天目山の戦い」に戻すことを主張させて頂きます。--貫鉄 2012年2月11日 (土) 07:57 (UTC)[返信]
それでは議事の進行をよろしくお願いします。--多賀城佐 2012年2月13日 (月) 11:01 (UTC)[返信]

まず、ジャムリンさんにお聞きしたいのですが、「武田攻め」「武田氏の滅亡」「甲斐武田氏の滅亡」「甲州平定」などの中で妥協できるものはありますか?それより「天目山の戦い」に戻すほうが良いとお考えになられますか?--貫鉄 2012年2月15日 (水) 08:50 (UTC)[返信]

武田征伐ではダメだという理由は何なんですか?--多賀城佐 2012年2月16日 (木) 22:29 (UTC)[返信]
広く認知されている呼び方ではない、というのが大きな理由です。さらに織田信長は明確な大義名分や政権としての正当性もありませんでしたので、これは対等な立場であると思ったからです。--貫鉄 2012年2月25日 (土) 08:47 (UTC)[返信]
天皇からの綸旨が出されてしまった時点で大義名分は立っていると考えられます。そして武田氏であろうが甲斐武田氏であろうが「甲斐武田氏の滅亡」「断絶」とされる事象は他にもあり(武田信満の滅亡)、主体が織田信長の行動によって成っている本項においては今の記事名で不足はないと思われます。--ジャムリン会話2012年3月13日 (火) 02:25 (UTC)[返信]
綸旨だけでは上下の関係を肯定することはできないと思いますし、もしそうであっても認知度では『天目山の戦い』のほうが上ですから、緒戦はその前史にすれば良いと思います。あと、信満の自害を『甲斐武田氏の滅亡』と呼んでいる文献はありますか?私は知らないのですが、そこは重要なことだと思います。--貫鉄会話2012年3月14日 (水) 08:16 (UTC)[返信]
少なくとも武田征伐で間違ってはいないはずです。問題はないでしょう。--多賀城佐会話2012年3月15日 (木) 11:08 (UTC)[返信]
間違っていないという意味ではほとんどの案に当てはまっています。どれが適切かを検討してくださるようお願いします。--貫鉄会話2012年3月20日 (火) 07:12 (UTC)[返信]
不都合ないなら良いではありませんか。--多賀城佐会話2012年3月20日 (火) 10:17 (UTC)[返信]

   そのとおりです。--Gamlin会話2012年3月17日 (土) 07:00 (UTC)[返信]

今の題名でも問題ないので改名の議論は打ち切るということでよいですか?--多賀城佐会話2012年3月26日 (月) 09:50 (UTC)[返信]
即座の打ち切りには反対です。大義名分(政権として成立しているか?など)や認知度などをについて、具体的な意見をお願いします。--貫鉄会話2012年3月27日 (火) 06:37 (UTC)[返信]
具体的な意見とは、改名が必要であると言っている人が提出すべき根拠です。それがないのですから話を進めることは不可能です。具体的な根拠ができてから改名を提案してください。--多賀城佐会話2012年3月27日 (火) 09:53 (UTC)[返信]
ちょっと待ってください、根拠はすでにあります。改名提案2冒頭と、そして去年の九月に以下のような文献で武田氏の滅亡が使用されている根拠を書いてています。一方で武田征伐が採用されている例は少ないものです。
  • 安土桃山時代史第 1巻 (早稲田大学大版部、1916年、渡辺世祐)
  • 長野県史 考古資料編(長野県史刊行会、1982年)
  • 長野県史 通史編第3巻中世(長野県史刊行会、1987年)
  • 天正壬午の乱 (学研、2011年、平山優)
多賀城佐さんにおかれましては、過去に述べたことも読んだ上で意見を表明ください。--貫鉄会話2012年4月14日 (土) 08:56 (UTC)[返信]

(インデント)私が4月14日に根拠を述べてから反対コメントがありませんので、これ以上無ければ一週間後の移動を念頭にしたいと思います。--貫鉄会話2012年4月28日 (土) 05:11 (UTC)[返信]

反対 改名しなければならない理由がなく、必然性もないため、反対します。--ジャムリン会話2012年4月28日 (土) 09:38 (UTC)[返信]
コメント 私は賛否を表明いたしませんが、コメントさせていただきます。客観的に見て貫鉄さんの提案には一定の理由が示されております。多賀城佐さん及びジャムリンさんは反対に当たって、それらに有効に反論すべきだと考えます。それらを無しに反対を表明され続けることは、議論の無用な長期化を招くと思います。--馬屋橋会話2012年4月28日 (土) 16:18 (UTC)[返信]
実際に武田氏が該当事象で滅亡してはいないこと、記事で解説されている内容が元々織田氏からの行動を契機にした事象であること、甲斐武田氏の(一時的な)滅亡と目される事象が他にあること、朝廷の同意有りと見なされる史料・知見があること等々今までの議論で上げてまいりましたが、馬屋橋さんにその何れも有効な反対と判断していただけないことは、私と致しましては残念なことです。--ジャムリン会話2012年4月28日 (土) 16:38 (UTC)[返信]
コメント ジャムリンさんのおっしゃる「武田氏が該当事象で滅亡してはいない」、「織田氏からの行動を契機にした事象」、「武田氏の滅亡と目される事象が他にある」、「朝廷の同意有りと見なされる史料・知見があること」といった主張に対しては貫鉄さんやTensekiさんから反論もいくつかありました。それはそれで考えていただくとしてもう一つ重要なことは、利用者の主張なのか?現状認識なのか?という点です。貫鉄さんが改名論拠で使用された、「使用状況」は二次資料を元にした事実、現状認識です。しかし、ジャムリンさんが主張なさっている4点はそれ自体が理由にならないという見方(例えば貫鉄さんは、信満の自害を『甲斐武田氏の滅亡』と呼んでいる文献が無いと反論されているようですが)もあり、なおかつそれらを理由として研究者自身が「武田家の滅亡は適切でない」と結論付けているわけではありません。つまり、ジャムリンさんという利用者の主張であると思うのです。その内容が間違っているという問題ではありません。ただ、これでは具体性に欠き、合意形成を阻害する恐れがあります。上記の例で言えば、信満の自害を『甲斐武田氏の滅亡』と指している文献を示して意見を述べるのが筋ではないでしょうか。--馬屋橋会話2012年4月30日 (月) 17:07 (UTC)[返信]
一つのことだけ指摘されていますが、根本的な問題の改名の必要性の有無については、何ら回答を得ていないと思いますが。貫鉄んの主張は「征伐以外の名前にしたい」というところから始まっていて、むしろ「征伐」として齟齬のない点の織田側の動きが記事の解説に必要なことや、中央の討伐言質が取れている点を指摘されても関係ないことしてしまうところは合意への妨げではないとでもいうのでしょうか?そもそも貫鉄さんの主張は「改名有りき」が先に立って「改名無し」で良い点を排除しているという点では、貫鉄さんこそ改名以外を受け入れようとしていないとしか見えません。--ジャムリン会話2012年4月30日 (月) 17:30 (UTC)[返信]
ご指摘については、例として一点を挙げたまでです。私が言いたいことは、貫鉄さんが一定の二次資料を挙げたことで認知度を証明しているのに対し、ジャムリンさん及び多賀城佐さんは主張の直接的な裏付けとなる二次資料を挙げていない、というお話しです。貫鉄さんの主張やその理由が前面的に正しいと言っているわけではありませんが、資料を元にした主張には資料を元に発言すべきだと私は考えるところです。また、資料に書いてある事実と、それを元にした推論も議論上では区別されるべきでしょう。
私は本論にはあまり関わろうとは思わないのでこれで失礼させていただきますが、貫鉄さん、ジャムリンさん、多賀城佐さんにおかれましては、健全な議事進行をお願いいたします。--馬屋橋会話2012年5月2日 (水) 17:03 (UTC)[返信]

コメント 馬屋橋さんありがとうございました。ジャムリンさん、馬屋橋さんのご意見も参考にしたうえで、どこまで許容できるかお示しいただけませんでしょうか?私は天目山に戻すして妥協形成ができるのであれば、それでもいいと思ってます。また、馬屋橋さんのおっしゃるとおり、根拠資料もできる限りご提示ください。--貫鉄会話2012年5月12日 (土) 04:27 (UTC)[返信]

コメント 現記事名を改名しなければならない理由がないので妥協する必要を感じません。断絶が二度あったという出典を提示すれば貫鉄さんの方こそ改名断念されるのでしょうか?既に該当記事内容は天目山の戦いだけに留まりませんし、織田信長の主体をもってされている定義を動かす必要も感じません。『世界大百科事典』(平凡社)、『新訂 歴史博物館事典』(日外アソシエーツ)などに項目名として掲載されている「甲州征伐」であったなら、同主題で同範囲を表す記事名ですのでまだ納得できます。--ジャムリン会話2012年5月12日 (土) 05:58 (UTC)[返信]
分割などを行わず、当面の合意を優先する次善策として「甲州征伐」に賛成いたします。しかし、『断絶が二度あった』ということ自体は出展にならないと思います。ジャムリンさんの意見どおりであれば『断絶が二度あったから、滅亡というのは不適切だ』という出展が必要なのだと思います。天目山の戦いで合意形成できないのであれば、次善策を取るしかないように思いますが、いかがでしょうか。--貫鉄会話2012年5月26日 (土) 08:40 (UTC)[返信]
天目山の戦いで合意できるか、もしくは甲州征伐で合意すべきか、ジャムリンさんのご意見をお願いします。--貫鉄会話2012年6月10日 (日) 10:24 (UTC)[返信]
既に意見は出していますが、「甲州征伐」ならば、現行記事範囲を包括できる記事名ですので、「甲州征伐」ならば合意できます。--ジャムリン会話2012年6月10日 (日) 10:28 (UTC)[返信]
わかりました。13日ほどたちましたが、ほかの方から案も出ないようなので妥協案・甲州征伐へ移動したいと思います。--貫鉄会話2012年6月23日 (土) 09:06 (UTC)[返信]

(報告)移動しました。二週間くらい経ったら過去ログ化をしたいと思います。ジャムリンさんありがとうございました。--貫鉄会話2012年6月23日 (土) 09:10 (UTC)[返信]

移動作業、お疲れ様でした。--ジャムリン会話2012年6月23日 (土) 16:12 (UTC)[返信]

記事名候補比較[編集]

投票予定者は投票開始までに下の比較表に支持候補の追加、支持候補の肯定的意見の追記、非支持候補の否定的意見の追記をまとめて編集してください。(投票開始後の編集は行わないこと)

改名候補比較表  (p=:肯定的意見、n=批判的意見)
番号 評価要素 A.武田征伐 B.武田氏の滅亡 C.武田攻め
01 記事主題の確認と
定義等の変更点
(改名の対象は?)
11 日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの[1] (→他項へ統合)
12 その記事へのリンクを作成しやすいもの[2] (→下22項へ統合)
21 認知度が高い[3]
(出典で最も一般的か)
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
22 見つけやすい[4]
(リンクしやすい)
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
23 曖昧でない[5]
(的確である)
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
24 簡潔[6]
(短く要点を突いている)
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
25 首尾一貫している[7]
(類似記事の傾向)
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
31 信頼できる情報源における慣例[8] (→他項へ統合)
32 正式な名称を使うこと[9]
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
41 出来る限り一般的に知られており通用しやすい(歴史的事件の慣例)[10] (→他項へ統合)
51 中立的な用語[11]
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
番号 出典、その他 A.武田征伐 B.武田氏の滅亡 C.武田攻め
61 主題の専門書名
  • 1.
  • 2.
  • 3.
  • 1.
  • 2.
  • 3.
  • 1.
  • 2.
  • 3.
62 主題の論文・専門書小題
  • 1.
  • 2.
  • 3.
  • 1.
  • 2.
  • 3.
  • 1.
  • 2.
  • 3.
63 主題の辞典類項目
71 その他1
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  • (p)1.
  • (n)1.
  1. ^ Wikipedia:記事名の付け方
  2. ^ Wikipedia:記事名の付け方
  3. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  4. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  5. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  6. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  7. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  8. ^ Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには
  9. ^ Wikipedia:記事名の付け方#一般的な指針
  10. ^ Wikipedia:記事名の付け方#歴史的事件
  11. ^ Wikipedia:ウィキプロジェクト 軍事史#記事名
  12. ^ 『』、年月
  13. ^ 『』、年月
  14. ^ 『』、年月


武田征伐の改名候補に対する調査投票[編集]

投票の主題 現「武田征伐」の記事名により良いタイトルの支持状況
投票場所 ノート:武田征伐#改名提案前の調査投票
投票に先立つ議論
投票者の資格 2012年1月27日 (金) 05:01 (UTC)の時点(調査投票の提案日時)で初投稿から1ヶ月以上経過、かつ全名前空間の編集回数が50回以上のログインユーザー。なおこの投票の提案者は投票に参加できないものとします。
投票期間 2012年02月06日 (月) 00:00 (UTC) から2012年02月13日 (月) 00:00 (UTC) までの1週間。
投票のルール
  • この投票は、改名候補に対する支持状況を把握するために行う。
  • 1人1票とし支持候補に投票する。多重アカウントによる投票は無効とします。
  • 投票予定者は投票開始までにノート:武田征伐#改名候補比較の支持候補の追加、支持候補の肯定的意見の追記、非支持候補の否定的意見の追記を編集することができる。
特記事項 この調査投票は、改名提案に先立って情勢把握のための調査投票です。議決投票ではなく、多数決によって直接記事の内容を決めるものではありません。ただし少数派となった意見の支持者には、自説が自明の理としては受け止められていないことを念頭に、より強い論拠を求めるものとし、また多数意見の支持者に対しても少数意見が無視できない程度に集まった際には、少数意見を納得させるための努力を求めるものとします。

投票所[編集]

投票要綱を確認の上、支持する記事名候補の下に一行ずつ署名を入れてください。

  • 武田征伐を支持
  1. (署名)
  • 武田氏の滅亡を支持
  1. (署名)
  • 武田攻め
  1. (署名)

投票結果[編集]