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ノート:復活 (キリスト教)

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出典の明記テンプレにつき

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履歴を見ますと自分でも出典なしで加筆している場所もありますので心苦しいのですが、やはり参考文献が一つも無く脚注形式の出典の一つも無い現状は是正の必要があると考えました。キリスト教理解の根本に関わる重要な記事であり、大幅な質の向上が不可欠です。私からも優先的に当記事にリソースを投入し、出来る限りの協力をさせて頂くつもりです。--Kinno Angel 2010年4月22日 (木) 10:23 (UTC)[返信]

全面的改稿提案

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現状、これほど重要な項目が一つも参考文献を伴わずに書かれている事態は異常です。といって現行の記事を一行ずつ出典をつけて検証していくリソースは当方にはありませんし、また膨大な作業量を必要としてしまいます。現在の記事の骨格となっている2大編集([1][2])をなさっているのは利用者:Aphaiaさんですが、Aphaiaさんは現在、投稿が制限されている状態です。

出来るだけ元の記述を残すようには努めますが、プロジェクト:キリスト教にも呼びかけて反対が2週間の間に無ければ、全面的に改稿したいと考えます。

中立的観点の維持のために、以下の文献を使用する予定です。さらに増える事も有り得ます。

プロテスタントの文献が少ないのですが、これについては教派・人物・思想潮流のバランスを考慮するに当り、私の力量不足により、「リベラル」-「福音派」という、ともすれば大雑把に過ぎる分類でしか中立的観点が達成出来ず、そのためには却って使用する文献の量を減らさざるを得ないという事情があります。それぞれの思想潮流の観点からの加筆を、他執筆者の皆様にお願いしたいと思います。--Kinno Angel 2010年10月15日 (金) 00:12 (UTC)[返信]

最近プロジェクトキリスト教に加入した新参者です。ある理由からキリスト教に関する記事とは距離を置いておりましたが、方針を変えることにいたしました。といっても全教派を俯瞰的に把握できるようなことはできません。主にプロテスタントの一部教派についてになります。蔵書は追ってお知らせいたしますので、まずはそれを判断の基準にしてみてください。役に立てるどころか、足を引っ張ってしまうこともあり得ますので、そうなりそうな気配を感じたら教えてください。それではよろしくお願いいたします。--Sillago 2010年10月17日 (日) 18:47 (UTC)[返信]
Sillagoさん、コメントをありがとうございます。残念ながら経済的理由から(それほど当方、経済的に潤沢な状況にはありません)プロテスタントの文献を新たに購入する余裕は当面ありません。利用している小さな図書館(規模的には図書室といった方がしっくり来るかも)にあるものの中から、総合的なものを選んでみたら以上の3冊になったということです。ウィリアム・バークレーなどもあったのですが、彼だけ特に取り上げるバランス上の意義は見出せませんでした。
一応、当方で総合的に改稿した後、プロテスタントの個別教派による見解について加筆頂くという事で如何でしょうか…--Kinno Angel 2010年10月18日 (月) 02:17 (UTC)[返信]

(インデント戻す)Kinno Angelさんのご提案に従います。今回、サポートに徹します。ですので添削などして頂けると嬉しいです。ただし、良い記事を創るという目的において、意見を表明させて頂くことはありかもしれません。以下、「復活」に関係のありそうな蔵書を列記します。

なお、これら文献をすべて記述することになると、プロテスタント一部教派にひどく偏った記述が突出してしまうことは明白なので、咀嚼をした上でバランスを考慮した上で上梓することになると思います。中立性の観点から、なるべく多くの教派の考えが反映されるべきだと思いますが、これは結構大変な作業かもしれません。すこし分析に時間をいただければ、と思います。それと、旧約時代のイスラエルの民の復活観という観点の記述も必要かもしれません。--Sillago--Sillago 2010年10月18日 (月) 18:23 (UTC)[返信]

コメント Sillagoさん、ありがとうございます。特に福音派の総合的著作が当方のすぐ利用できる場所には不足していまして(新聖書註解はなぜか全巻揃っているのですが)、しかも教派ごとの理解となるとお寒い限りです。御助力を頂けますと助かります。--Kinno Angel 2010年10月24日 (日) 15:21 (UTC)[返信]

大幅編集報告

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以下、一連の大幅編集につき説明申し上げます。

まず、「概要」節を大幅に加筆・修正しました。聖書の引用に当っては、該当聖書箇所を復活の理解と関連付けている文献と必ずセットにすることを旨とし、「聖書箇所」のみを出典にはしていません。教派・思潮ごとに聖書の釈義は多様だからです。聖書箇所の摘示は、多様な教派・思潮の関連文献とセットにする。この方針は、今回の大幅編集中、一貫して続けるつもりです。
復活についての現存する最古の記述はパウロ書簡中にある。→削除
確かにテサロニケの信徒への手紙の古さについてはあまり立場による争いは極めて少ないものと思われますが、「復活についての現存する最古の記述」とまで言ってしまうのには躊躇いが生じます(第一、ここでは断言口調で書かれているにも関わらず、次の段落では「最古と【考えられて】いる」とあるのは矛盾です)。出典を探すだけのリソースの優先度合いは低いと判断し、この文章は削除しました。
パウロにおいてキリストは「死人のうちから最初に甦った」「初穂」であり、キリストとの神秘的一致によって、信じるものはその復活にも与ることができるとされる。→削除
加筆・修正した「概要」節に殆ど同様の趣旨のことをパウロ書簡の摘示とともに盛り込みましたので、重複として削除しました。「神秘的一致」については、超教派の中立的観点の維持が困難な複雑な視点を含む術語と判断し、当面まとめて削除としました。
またマリヤという名前の登場人物が別の2名であったとして合理的に理解できるという解釈もある。→削除
大変面白い解釈であり、そういう解釈が存在する蓋然性は高いとは思うのですが(もしかしたら正教会にもあるのかもしれません)、現時点、不勉強の私には文献を用意出来ませんでした。調べている最中に文献が見つかれば(正教会関連書籍から出て来たら大恥・汗)記述を復帰しますが、当面は削除します。
ほか、様々な箇所に、出典を加えつつ加筆修正、視点をぼやかさない記述を心がけております。
現時点の報告はここまでです。明日以降(場合によっては今晩中にも)、さらに加筆・修正を繰り返します。工事中テンプレでの予告期間内に大幅修正を終える事を予定しております。--Kinno Angel 2010年11月15日 (月) 14:58 (UTC)[返信]
申し訳ありません、もう少し工期がかかる見込みが出て参りましたため、工事中テンプレの工期を変更させて頂きました。作業にかかってみますと想定以上に時間がかかっていること、さらに福音派の見解の担保するためにも新聖書注解の出典箇所をさらに拡充したいということから、さらに時間を頂きたいためです。平に御容赦を賜りたく存じます…。--Kinno Angel 2010年11月16日 (火) 23:20 (UTC)[返信]
この編集に限りませんが、大幅編集に際して気をつけている事を申し上げます。特に最後の審判に係る問題なのですが、「行い」「行為」「善行」「信仰」「信仰者の復活」といった表現を意識して避けています。超教派の項目ではこれらの概念につき、超教派の術語として用いるのは極めて困難だからです。それぞれの教派ごとの説明でなら使う事は可能と考えます。--Kinno Angel 2010年11月18日 (木) 12:12 (UTC)[返信]

一旦の大幅編集完了報告と、今後の編集について

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大幅編集をこれにて一区切りついたものとして報告させて頂きます。工事中テンプレは外しました。皆様ご協力ありがとうございました。ただ、これで完成された訳ではありません。

まず「神学」節ですが、「神学」という節名が非常にぼやけており、今後の編集によっては際限なく拡大していく事が危惧されました。従いまして節名を変更しましたが、この節は改めて問題にすべきものと思います。これは、別に節を設けて議論させて頂きます。

次に、各教派の節ですが、私にとりましてはこれが限界でした。教派ごとのページは別に礼拝に限定した内容を志向したものではなく、神学理解なども豊富に盛り込めば良いのですが、時間の限られている中で神学に暗い(さらに西方の神学と言えば尚更暗い)私に出来る事はここまでだったと言う事です。皆様の加筆(特に空欄になってしまっているプロテスタントについて)をお願いしたく存じます。

重ねてご協力に感謝します、ありがとうございました。--Kinno Angel 2010年11月20日 (土) 15:49 (UTC)[返信]

多忙でjawpにおいてはルーチンワーク以外できませんでしが、ぼちぼち加筆などしようかと思いますので、添削・ご指導よろしくお願いします。--Sillago 2011年1月9日 (日) 11:47 (UTC)[返信]

改名提案

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現在大幅な改稿中・工事中の本記事ですが、併せて改名提案もさせて頂きます。平等な曖昧さ回避を実現すること。および「(キリスト教)」とした方が、聖書解釈などに宗教学などの視点まで考慮する必要性がなくなるためです。

神学・聖書解釈に非キリスト教の立場からの解釈が大変多い現状、それらの視野まで考慮する記事を構成するのは、事実上不可能です。あくまで「キリスト教におけるキリスト教の復活解釈」に絞った方が、中立的観点を達成するのは相対的に容易となるでしょう(ただでさえ教派ごと、および非リベラル対リベラルの視点の中立性確保だけで骨が折れるのです)。従って「復活 (キリスト教)」への改名を提案します。--Kinno Angel 2010年11月15日 (月) 08:02 (UTC)[返信]

復活 (曖昧さ回避)」は、括弧なしの「復活」に改名する提案も併せます。--Kinno Angel 2010年11月15日 (月) 08:03 (UTC)[返信]
実は私も全く同じことを考えておりましたが、「復活」の改稿が一通り済んだ後、提案するつもりでした。またその方がよいでしょう。--Sillago 2010年11月16日 (火) 15:06 (UTC)[返信]
コメント 提案が日曜夜(JST)ですので、反対無しで1週間後に改名するとしても、自然と改稿が一通り済んだ後に実施させていただく事になるかと思います。Sillagoさん、コメント、ありがとうございます。--Kinno Angel 2010年11月16日 (火) 23:20 (UTC)[返信]
報告 Wikipedia:移動依頼での依頼に基づき、復活 (曖昧さ回避)から復活へ移動しました。--Penn Station 2010年12月1日 (水) 15:25 (UTC)[返信]
コメント 一連の改名が提案通り行われましたこと、皆様に感謝申し上げます。解決済みテンプレを貼らせて頂きました。Penn Stationさん、ありがとうございました。--Kinno Angel 2010年12月1日 (水) 16:05 (UTC)[返信]

「第二の創造・身体の復活」節につき

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上でも書きましたが、この節は従来の「神学」節の名を変えたものです。「神学」では節の方向性が不透明だったからです。ただ、この「第二の創造」という表現、私の手持ちの西方教会の事典にはありませんでした。カトリック教会からは検索は容易なのですが、プロテスタントではどうなのでしょう?その辺の事情につき、現時点ではまだ調査が完了していません。ただ、出典が無い現状を放置するのはよくないと思われます。告知テンプレを貼り付けて置きましたが、時間が出来れば、可及的速やかにこの節の出典の改善にも取り組んで参りたいと思っております。--Kinno Angel 2010年11月20日 (土) 15:49 (UTC)[返信]

プロテスタント神学では存在しないはずですが、「第二の創造」とはいったいどこから持ってきた表現でしょうか?疑問です。--イザヤ 2010年11月21日 (日) 17:07 (UTC)[返信]
からだの復活としては、ウェストミンスター信仰告白が32章「別のものではない全く同じからだをもってよみがえらせられ」と告白し、ヘンリー・シーセンの『組織神学』(p.800)の「復活のからだの性質」の説明に「復活のからだは完全な新創造ではない、といってもよかろう。もし新創造だとすると、現在のからだではなく、別のからだということになる。」と述べます。ただ、その節の現状の記述は再臨のとき天に地に「再生」があるという解釈「栄化される人間だけでなく、地と天にも「再生」があり」(ロイドジョンズ『キリスト者の戦い』p.172)とか、黙示録の新天新地と創世記に対応関係があるとか、こういった神学についての説明なのかも知れませんが、出典がついてないと何とも言えません。--イザヤ 2010年11月21日 (日) 17:30 (UTC)[返信]
コメント イザヤさん、コメントをありがとうございます。以下の「非神話化」については、改めて返信しますが、まずこちらに返信します。
どうやら少なくとも、「キリスト教神学においては、復活は「第二の創造」のはじまりである。」といった、全教派におけるかのような表現は不当のようですね。
「第二の創造」についてですが、ローマカトリックからは比較的検索が容易でした。糸永司教によるブログにはっきりと「第二の創造」が「キリストの復活」と結び付けられて記載されています。対して正教会からは、「第二の創造」の文言は見当たりません。ただ「新しい創造」という表現はカリストス・ウェア府主教の文章で「ハリストスの復活が新しい創造であることを意味します。」とありますので、これを出典にする事は出来ると思います。ただ、ローマカトリックにおける「第二の創造」と、正教における「新しい創造」を全く同じに考えて記述していいものかどうかは、私の現時点での知識・調査能力を越えています。
イザヤさんによるプロテスタント関連の御説明についてですが、名古屋正教会のページに「再臨のハリストスによってこの世が再創造されて実現する「神の国」。」という表現がありますね。
以上、検討しますと、「第二の創造」につき、超教派の記述として構成するのは大変煩雑で困難な事が予想されます。ローマンにおけるそのものズバリの「第二の創造」論と正教における「新しい創造」の比較、さらにプロテスタントにおける各種見解まで並べるとなると、リソースが恐ろしく大きなものになりそうで、しかも独自研究を避けるのも大変な困難であると思えます。
従いまして、この編集を行いました。「第二の創造」はカトリック教会の節に移し、正教会の節には「新たな創造」を記載しました。節名は「第二の創造・身体の復活」から「身体の復活」に変更しました。もしこの編集に問題があるとイザヤさんがお考えでいらっしゃれば、一旦差し戻して頂いても構いません。
当方としましては、「身体の復活」節の改良をさらに志向しております。--Kinno Angel 2010年11月22日 (月) 01:54 (UTC)[返信]

非神話化について

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まず、大がかりな作業をしてくださったKinno Angelさんにお礼を言います。

非神話化にかかわる編集について説明します。バックハウス著『現代の神学』(新教出版社,p.91-92)は、ブルトマンの主張する復活について「復活の指針は、<死人が再び生命を取り戻す>ということを言おうとするのではなくて、<イエスは、死がなんら害を加えることのできない生命を送りたもう>ということを意図している。」と述べます。

en:Carl Fredrik Wisløff(ヴィスロフ)の『現代神学小史』はブルトマンの非神話化をこう解説します。 「新約聖書は、現代人とは全く異なる神話的な思考方法をもっていた。新約聖書が世界を三層に見ていること、すなわち、天と地と地獄という分け方をわれわれはそのまま受け入れることができるだろうか。悪魔や天使の存在は、まことに神話的な表現である。奇蹟についても、これを歴史的な出来事とはみなしえない。現代の進歩した世界において、これらのことをそのまま受け入れる必要はない。イエス・キリストについてはどうか。処女降誕は、彼を崇拝する者のつくった神話的物語である。このようにして、十字架も復活も、終末も、非神話化されなければならない。」「現代人に宣教するためには、新約聖書の神話的な表現の奥にある真理を見出さなければならない。どのようにしてそれは可能であろうか。それは「実存的解釈」によって可能になる。」p.115

自由主義神学とブルトマンの相違は哲学的前提であり、「自由主義神学者たちは、人間の中にある理性の確かさに信頼していた。しかし、ブルトマンは、人間に対して、彼らほど明るい見通しをもっていなかった。こうして彼は、正統主義神学と自由主義神学の両者に対する批判者として立つのである。」p.116

「復活もまた、神話的物語である。イエスが現実に、肉体をもって復活したことは信ずることができない。では何が大切なのだろうか。弟子たちの信仰が大切なのである。弟子たちは、十字架とともに復活を宣教した。原始教団がもった復活への信仰は、今ここで、みことばが宣教されるときにわれわれのものとなる。宣教においてわれわれは現実に復活のキリストに会うのである。」p.118

古い自由主義神学との相違はありますが、ブルトマンの思想は福音派がリベラルの典型、代表格とみなす見解です。彼が問題となるのは古い自由主義神学との距離ではなく、正統主義との距離です。宇田進著『現代福音主義神学』は「聖書の「非神話化」論-現代のリベラル神学に共通する発想と基本的論理」(p.262-266)と呼び、いのちのことば社『新聖書辞典』の「復活」の項目は「今日でも学者たちの中にキリストのからだのよみがえりを公然と否定する者がいる。彼らは、イエスは初代教会の宣教(ケリュグマ)の中によみがえったのだ、イエスは弟子たちに生ける影響を与えたのだ、という。」(p.1077)、と述べ、ブルトマンらは「キリストのからだのよみがえりを公然と否定する者」とみなされています。尾山令仁著『聖書の教理』(p.22)は「ブルトマンの非神話化に至れば、もはや信仰を持つことすらできなくなってしまうでしょう。」と指摘します。ヴィスロフはブルトマンを、聖書の霊感と権威を否定したゴットホルト・レッシングの聖書批評学、ヘーゲルやカントの哲学的前提という二つの流れが貫いている(p.112)と説明します。ブルトマンが自由主義神学と相違があるのは、解釈法であって、リベラルのもう一方の柱である高等批評は受け入れているのです。

自由主義神学から出発したが自由主義神学を退けたブルトマン」とする説明は、たとえば「人権」の説明に、「アメリカは自由の抑圧者の国から出発したが自由の抑圧者を退けた。」と書いたらどうでしょうか。大いに異論がでて両論併記が大変だと思います。しかし、アメリカの「理念」にそのような思想があると説明するとか、アメリカの「歴史」のところに「○○大統領はこのように述べた」と書くなら問題はないはずです。ヴィスロフが「今日に至るまで「非神話化」は神学の重大な論議の対象になった。おびただしい論文が非神話化を巡って発表された。」(小史p.111)と述べるとおり、非神話化は良くも悪くも特筆性のある神学であり、脚注に飛ばさずに本文に非神話化と入れたほうが自然です。むしろ非神話化の項目を充実させるべきです。また、両論併記にスペースを割かずに済むという利点もあります。--イザヤ 2010年11月21日 (日) 17:07 (UTC)[返信]

編集報告

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この編集につき報告します。概ねイザヤさんの編集に異議無いのですが、見解を見解を述べている箇所に統一しました。--Kinno Angel 2010年11月22日 (月) 12:49 (UTC)[返信]

「旧約」の項目について

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詩篇を引用している聖書ですが、なぜ文語体(?)なのでしょうか。現代訳にしてもいいでしょうか。

↑久しぶりで署名を忘れました。--木人 2010年11月28日 (日) 09:55 (UTC)[返信]

審判の語について

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最後の審判の前までに、死後の回心の機会があるとする思想もあるようですが、カトリック教会では私審判で天国、煉獄、地獄に振り分けられてしまうのであって、煉獄に行った人たちは天国に行けるわけですが、他の人は公審判において行先がかわるわけではないはずです。改革派教会には予定の教理があるので、最後の審判で行先が決まるわけではありません。すでに地上の生涯で行先が決まっていて、復活の状態がそもそも信者と不信者とで違っており、改革派正統教理によれば、最後の審判において不信者に対しては、宣告があるだけです。両論併記にするのは難しいのでいったん消しました。--イザヤ 2011年1月7日 (金) 17:02 (UTC)[返信]

大変分かり易い御説明をありがとうございます。要約欄での説明の段階で合点がいったのですが、超教派の節から、私の執筆した該当部分を削除させて頂きました。--Kinno Angel 2011年1月7日 (金) 17:04 (UTC)[返信]

外部リンク修正

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編集者の皆さんこんにちは、

復活 (キリスト教)」上の2個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月4日 (水) 14:29 (UTC)[返信]