ノート:ジュリアス・ソーパー

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記事の問題点について[編集]

問題点が二つあり。改善を提案し協力を求める。

1)検証不可能な文献を除けば、本項はほぼ一書を元にした立項であり、著作権的にも「一書引き写し」的剽窃の問題がある。更なる複数の出典が求められる。ただし、情報源が一書だからといって、この人物がウィキペディアに掲載するに足る歴史的重要人物であることに異議を唱えているわけではない。

2)文章化された本文と表とのバランスに問題がある。表形式を排除するわけではないが、各行に一書からの注釈を施しているが、これでは逆に注釈のない行に「要出典」を貼らざるをえない。むしろ本文に表の一部は揉み込んで表そのものを簡略化し、表は「何々に基づく」として行ごとの注釈を止めるべきだと思う。--IyataYada会話2021年9月17日 (金) 19:38 (UTC)[返信]

@IyataYadaさん、初めまして。
さて早速ですが1)2)とも賛同し、編集しました。
1)典拠について。
  • 今度は『Who's who』に典拠が偏ってしまいましたが、文節単位でなく短文単位に付け直すと減らせると考えます。どう思われますか?
  • せっかくページ番号を添字にされたのですが、ご指摘のとおり、なるほど同じ出典から引いたページ範囲が少ないですね(2件)。そこで、Harvnbという引数を使いました(Harv形式でカッコなしno bracket)。sfnという引数ですと、毎回、人名などの要素を書く手間があり、HarvnbはRefタグで挟む分、同じ脚注を2回目以降はname付きのタグで省略できるのが楽です。資料の数が多い場合は、sfnで統一する方法もあります。
なお、本来は区別する要素は著者の姓を使うようですが、書名で代用することもあるようです。
2)箇条書きから平文への書き換えについて。
加筆もしたため、少し見づらいかもしれませんが、おおむねご指摘のところは解決できましたでしょうか。
3)見出し変更の提案。
見出しは、そこにリンクを貼って別の記事内に置いている人があるかもしれないので、ノートページで変更の希望を書き、通常は「7日ほど(できれば14日ほど)待ったら予告どおり実行します」と予告すると穏やかのようです。
ア 「人物」を「概要」に
イ「生涯」を「経歴」に
アは、なるべく変更したいです。同じことが何度も書いてある印象の解決にもなります。長い記事ではないのですが、あらすじのようにまとめを記事の冒頭に置くと、ざっと知りたいとき便利だと思います。
イは、他の記事でも「生涯」を使っていますし、そのままでもOKかもしれません。記述がほぼ仕事人生で、特に大きなドラマもないことから発想しました。本来は「人生のおしまい」というのが「生涯」(生きていることの涯て)の意味らしく、ちょっと注意されたのを思い出しました。
なお大統領と握手したなどトリビアな情報は記事後半に埋めるかどうか迷いました。他にあまりトリビアな情報がないので、まとめのシメ代わりに配置しました。でも、どういう場で大統領にあったのか、詳しい出典は見つからず、想像ではたくさん人が集まる会場で大統領が国民に顔見せしたのか、あるいは選挙対策で教会の集票を期待し、教会代表の会合に大統領が来たのではないかと想像します。
のっけからあれこれ書きました。今後ともよろしくお願いします。
--Omotecho会話2021年9月29日 (水) 17:58 (UTC)[返信]
Reply to Omotecho
本当にありがとうございます。英語版にしようかと思い、すぐに気づいたことがあります。没年月日です。根拠を生年月日と同じ注ナンバー[1]のWho's Who in the Far East 1906-7, Juneとしていますが、この本は図書館等で[ ]入りの1906年発行と推定されています。生年月日は記載されていても没年月日があるはずはないと思い原本を閲覧しましたら、やはり没年月日の記載はありません。
また、該当ページが316となっていますが、実際は296ページでした。そこで念のため316ページも見ましたが「T」で始まる人名欄でした。全体のページ数は352ページですから同じ本です。日本から閲覧できるかどうかわかりませんがURLを書きますね。ここ(https://archive.org/details/whoswhoinfareast00hongrich/page/296/mode/2up) を確認してみてください。
没年月日は墓碑にもあるはずなので後で見てみます。いずれ時間ができたら英語版に立項したいと思っています。--IyataYada会話2021年9月29日 (水) 18:26 (UTC)[返信]
Reply to Omotecho
念のためですが私の参照したWho's WhoはWikisourceではなく原本の映像です。Wikisourceを信頼していないわけではありませんが(笑)念のため確認したわけです。
下記は墓碑銘版および墓記のサイトです。英語版では使いたいと思います。もちろん日本語版にも追加するかもしれません。
https://www.findagrave.com/memorial/87359162/julius-soper
ありがとうございました。--IyataYada会話2021年9月29日 (水) 18:44 (UTC)[返信]
Reply to Omotecho
見出しの件、同感です。私も従来から「人物」カテゴリーなのに見出しに「人物」というのには違和感がありました。おっしゃる通り、
人物⇒概要、生涯⇒経歴
が妥当と思います。よろしくお願いいたします。--IyataYada会話2021年9月29日 (水) 20:14 (UTC)[返信]
@IyataYadaさん、時事刻々お返事に感謝します。出典の『Who's Who』の件はすっかり寝ぼけていて失敗しました。ソーパー生前の発行ですので、同書編集部に生没年を記す必要はありませんでしたね。この記事の生没年を『W's W』に載っていたと勘違いしたのかしら。
興味があるのに未消化な部分は、2回目の離日前に手がけた「英学関係の翻訳」、また交友関係です。実は一次資料に近いと敬遠し、ソーパーが勤め先の大学紀要、アメリカの宣教師会議のレジメがあるかどうか、ほぼ手付かずです。女性宣教師の記事を編集したとき、青山学院に繋がる人々と日本中の「英和(女)学院」の結びつきが追いきれませんでした。
さて、旧聞とは想像しつつ、The Wikipedia Library ご利用の要件は満たしておられるようですので、ぜひご利用をお勧めします。有償のオンライン抄約が読めます。(無料)
ただし現状はまだインタフェースを改善中だそうで、複数出版社の串刺し検索は、まもなく導入とのことです。
現状でもWorldCat でめぼしいものを探してから、内容を読むのに TWL を検索する、オンライン版の提供元がアクセス権登録制なら申請してみるという使い道はあるようです。ケンブリッジ系などもあり、ピアレビュー付き論文集も閲覧できるなど学術機関につながっていない私には誠に贅沢なのですが、串刺し検索ツールが整うまで、使いこなすのに時間がかかるのは難点です。
ところで今日のオマケは{{Reply to/ja|利用者名}}。半角バー「|」の後に先方の利用者名を記すとアットマーク付きの頭辞が書け、また個人設定で「言及の通知」受信を有効にした相手には、自動でコメントがついた知らせが届きます。日本人用に「さん付け」になる点が便利と思います。オンラインに限ってお手伝いできる点がおありでしたらご教示ください。(※=PCビューでページ最上段にボタン。モバイルなら画面最下部欄外「デスクトップビュー」→PC版の表示に切り替え→画面最上部→以下、左記のPCビューと同じ)

ソーパーさんに花を一輪献上。--Omotecho会話)/ 4文字追加。2021年9月30日 (木) 11:28 (UTC) / 2021年9月30日 (木) 11:26 (UTC)[返信]
{{reply to/ja|Omotecho}} <--- これありがとうございます。英語版は簡単で前の部分を単に「u」にするだけなんですが日本語版では赤線になってしまいました(笑)。
いろいろとありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。2015年から登録していますが比較的アクティヴになったのは最近です。--IyataYada会話2021年9月30日 (木) 23:49 (UTC)[返信]
説明が下手ですみませんでした。返信の小技は前後のnowikiタグを外してくださいますか? ソーパーから磯辺(磯部)弥一郎に移り、振り返ると明治をまた違う角度から眺められました。こちらこそよろしくお願いします。--Omotecho会話2021年10月1日 (金) 00:34 (UTC)[返信]


@Omotecho: 望外の素晴らしい改善に感謝します。英語版立項が期待できます。--IyataYada会話2021年9月29日 (水) 17:32 (UTC)[返信]

見出し変更(提案)[編集]

以下の見出しの変更を提案します。

ア 「人物」を「概要」に。まとめの節とするため。

イ「生涯」を「経歴」に。小見出しで整理したため。

ご意見をよろしくお寄せください。2週間お待ちして10月15日以降に変更を行う所存です。
--Omotecho会話2021年10月1日 (金) 00:39 (UTC)[返信]

疑問点[編集]

(1)ソーパーが自ら漢学の授業をしたかのように読め、記述が漠然としています。学舎で誰が漢学を教えたのか。現実には教員を学外から招いたのではないかと想像され、ご存知の方に教えを乞いたいです。

課題:本文に「耕教学舎で英学と漢学を教授」とありますが、ソーパーの履歴に漢学を学んだという記述がなく、出典を探しても不明でした。

参考例:同じ監督教会の宣教師ドーラ・E・スクーンメーカーの場合、教科は英学に限定せず日本語(国語)を学ばせたことを並松信久が指摘しており、時期は1876年(明治9年)以前とのこと。ソーパーの授洗者に慶應義塾の関係者があることから、同様に漢学を教えに通う人が同塾もしくは他にあったのではないでしょうか。

以下、並松文献より引用します。典拠は記事本文と同じ。

(前略)英語教育のみに固執するのではなく、日本語教育の必要性も訴えて、慶應義塾から高津柏樹(1836-1925)を招いて、習字と漢書の講義も実施(後略)
並松信久「明治期における津田仙の啓蒙活動 : 欧米農業の普及とキリスト教の役割」『京都産業大学論集』第30号、2013年、pp.112-113。

(2)女子小学校の創設の地は麻布の津田仙の自邸か(並松)、麻布本村町の岡田平蔵邸なのか(青山学院女子短期大学の年表)どちらかが正式の開学の地かもしれませんし、別の記事とも典拠付き。矛盾を感じ、解決できればと考えます。
--Omotecho会話2021年10月1日 (金) 08:24 (UTC)[返信]