ドゥドゥ・プクワナ

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ドゥドゥ・プクワナ
Dudu Pukwana
出生名 Mthutuzeli Dudu Pukwana
生誕 (1938-07-18) 1938年7月18日
出身地 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国 ポート・エリザベス、ウォルマー・タウンシップ
死没 (1990-06-30) 1990年6月30日(51歳没)
ジャンル ジャズクウェラ
職業 ミュージシャン作曲家
担当楽器 サクソフォーン、ピアノ
活動期間 1970年代 - 1990年
レーベル 77 Records、ヴァーティゴヴァージンキャロライン、Affinity、ICP
共同作業者 モンゲジ・フェザジョニー・ダイアニルイス・モホロクリス・マクレガー

ドゥドゥ・プクワナ[1]Dudu Pukwana1938年7月18日 - 1990年6月30日)は、南アフリカ共和国のサックス奏者、作曲家、ピアニストである(ただし、彼のピアノ演奏は知られていない)。

略歴[編集]

南アフリカ初期[編集]

ドゥドゥ・プクワナは、南アフリカ共和国ポート・エリザベス、ウォルマー・タウンシップで生まれた。彼は家族でピアノを学びながら育ったが、1956年にテナーサックス奏者のニッケル・モヤケに出会い、アルトサックスに転向した[2]。1962年、プクワナはヨハネスブルグ・ジャズ・フェスティバルにおいて、モヤケのジャズ・ジャイアンツ(1962年、Gallo/Teal)にて最優秀賞を受賞した。初期の頃は、キッピー・ムケッツィとも演奏していた。クリス・マクレガーがその後、彼を先駆的なセクステットであったThe Blue Notesに招き[3]モンゲジ・フェザ、ニッケル・モヤケ、ジョニー・ダイアニルイス・モホロと一緒に演奏した。The Blue Notesはしばしばマクレガーのグループと見なされているが、プクワナは最初期において主要な作曲家であり、すべてのグループ・メンバーが重要な役割を持っていた。

ヨーロッパ移住[編集]

異人種による混成グループがアパルトヘイト下では違法だったため[4]、The Blue Notesは当局からの嫌がらせを受け、1964年にヨーロッパへと移住し、フランスチューリッヒで演奏を行った後、最終的にはロンドンに落ち着いた[3]。1960年代後半にThe Blue Notesが分裂した後、プクワナはマクレガー率いるビッグバンドのブラザーフッド・オブ・ブレスに加わった[3]。作曲家としてプクワナは、ブラザーフッドにおいて最も愛されている曲の1つである「Mra」を書いた。

1967年2月、プクワナはアメリカの『ダウン・ビート』誌で初めて言及を受けた:「テナーサックス奏者ロニー・スコット率いるオールド・プレイスはなかなかブレイクできず、リーダーのオルガンとアルトサックス奏者のドゥドゥ・プクワナをフィーチャーしたボブ・スタッキー・トリオによって経済的成功を収めました」。このトリオは後にフィル・リーがギターに参加してカルテットへと発展し、BBCの番組『ジャズ・クラブ』で2回、パフォーマンスを行った。カルテットとして、バンドはベルサイズ・パークにある「Witches Cauldron」で定期的にセッションを行った。バンドは、ロニー・スコッツ・ジャズ・クラブへの定期的な出演を含め、1967年を通じて一連のイギリスにおける日程を完了した[5]

アサガイ、スピアーでの活動[編集]

彼はさらに、フェザとモホロとともに2つのグループを結成した。1つ目は、ヴァーティゴ・レーベルのために録音を行ったアフロ・ロック・バンドのアサガイであった。2つ目はスピアー (Spear)で、1973年にヴァージン・レコードの所有するマナー・スタジオにて精力的なアフロジャズ・アルバム『In The Townships』を録音した。1970年代初頭に数枚のアルバムを録音したアサガイとスピアーは、クウェラのリズムと、ロックのギターと、ジャズのソロとをブレンドしていた[3]

プクワナの激しいサックス・サウンドは、マイク・ヘロン、センティピードトゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ(アルバム『レゲエ・ガット・ソウル』)の録音や、ミシャ・メンゲルベルク、ハン・ベニンクとの即興演奏(アルバム『Yi Yole』 1978年、ICP)など、さまざまな場面で聴くことができた。モンゲジ・フェザ、エルトン・ディーンキース・ティペット、ルイス・モホロとともに、プクワナはほとんどエレクトリック・アルバムとなったが、2曲の強力なアコースティック・ナンバーを含む『ダイヤモンド・エクスプレス』(1977年、Freedom)をレコーディングした。彼の親友であるモンゲジ・フェザが1975年に亡くなり、それがThe Blue Notesの同僚であるジョニー・ダイアニ、クリス・マクレガー、ルイス・モホロと並び立ってつくられたアルバム『Blue Notes For Mongezi』(オガン・レコード)に影響を与えた。彼はまた、アルバム『Witchdoctor's Son』(1978年、SteepleChase Records)をはじめとした元The Blue Notesの同僚であるジョニー・ダイアニの作品にゲストとして参加し、彼の最高の録音作品のいくつかでフィーチャーされ、ドラマーのジョン・スティーヴンスと幅広く演奏した。ヒュー・マセケラ(アルバム『Home Is Where the Music Is』、1972年)や、トロンボーン奏者のジョナス・グワングワ(African Explosionのアルバム『Who (Ngubani)?』、1969年)を含む幾人かのアフリカ人バンド・リーダーたちが自身のグループに彼を招いた[3]

Zilaとその後[編集]

1978年、プクワナはJika Recordsを設立し、自身のバンド「Zila」を結成した[3]。ギターの南アフリカ人Lucky Rankuと、パワフルなボーカリストである女性、Pinise Saulをフィーチャーしたものである。Zilaは、アルバム『Sounds Zila』(1981年)、一部にBracknell Jazz Festivalでの録音を含む『Live in Bracknell and Willisau』(1983年)、キーボード奏者のジャンゴ・ベイツとプクワナがソプラノサックスを使用する最終作『Zila 86』(1986年)を録音した。また、ジョン・スティーヴンスとのデュオによって、ジョニー・ダイアニに捧げられたフリー・セッション『They Shoot to Kill』(1987年、Affinity Records)を録音している。

1990年4月16日、プクワナはウェンブリー・スタジアムで開催されたネルソン・マンデラ・トリビュートに参加した[6]。彼はロンドンで肝不全によって1990年6月に亡くなった[2]。それは長年の友人で同僚であったマクレガーの死後まもなくのことだった。

ディスコグラフィ[編集]

リーダー・アルバム[編集]

  • Kwela (1967年、77 Records) ※Gwigwi's Band名義。2006年『Mbaqanga Songs』として再発
  • Dudu Pukwana and Spear (1969年、Quality) ※Dudu Pukwana & Spear名義
  • Simba and Assagai Afro Rock Festival (1973年、Contour)[7]
  • In The Townships (1973年) ※Dudu Pukwana & Spear名義。モンゲジ・フェザの想い出に捧げられている。
  • Flute Music (1975年) ※Dudu Pukwana & Spear名義
  • 『ダイヤモンド・エクスプレス』 - Diamond Express (1977年) ※旧邦題『アフリカン・クロスオーバー』
  • Yi Yole (1979年、ICP)
  • Sounds Zila (1981年、Jika)
  • Live in Bracknell and Willisau (1983年、Jika)
  • Zila 86 (1986年、Jika)
  • Mbizo Radebe (They Shoot to Kill) (1987年、Affinity) ※with ジョン・スティーヴンス
  • Cosmics Chapter 90 (1990年、Ah Um)

アサガイ[編集]

  • 『アサガイ』 - Assagai (1971年、Vertigo)
  • Zimbabwe (1972年、Philips)

参加アルバム[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ドゥ・ドゥ・プクワナ」「ドュドュ・プクワナ」の表記もある。
  2. ^ a b "Mtutuzeli Dudu Pukwana", South African History online.
  3. ^ a b c d e f Colin Larkin, ed (1997). The Virgin Encyclopedia of Popular Music (Concise ed.). Virgin Books. p. 983. ISBN 1-85227-745-9 
  4. ^ Apartheid - Facts & Summary”. HISTORY.com. 2015年11月27日閲覧。
  5. ^ "1967 - Kwela with Gwigwi's band", The Blue Notes.
  6. ^ Peter Elman, "Nelson Mandela: An International Tribute for a Free South Africa", Tony Hollingworth website.
  7. ^ Assagai Afro Rock Festival”. Inconstantsol.blogspot.com. 2019年10月4日閲覧。

外部リンク[編集]