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テグデル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テグデル
احمد تگودار
イルハン朝第3代イルハン
在位 1282年6月21日 - 1284年8月10日
別号 スルターン・アフマド(Sulṭān Aḥmad / سلطان احمد)

死去 1284年8月10日
配偶者 ドクズ・ハトゥン
  アルマニ・ハトゥン 他
王朝 イルハン朝
父親 フレグ
母親 クトゥイ・ハトゥン
宗教 イスラム教
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テグデル(Aḥmad Tegüder, アラビア語: تكودار احمد, ペルシア語: احمد تگودار, ? - 1284年8月10日)は、イルハン朝の第3代君主(在位:1282年6月21日 - 1284年8月10日)。

初代君主・フレグの7男。フレグの第3正妃であったコンギラト部族出身のクトゥイ・ハトゥンとの息子であり、同母兄に4男のテクシンがいる。フレグ家の王族でムスリムになったことが確認できる最初の人物で、テグデル・オグルアフマド・テグデルアフマド・ハン Aḥmad khān などと称された。『集史』などのペルシア語ではタクーダール(Takūdār تگودار)と表記[1]

生涯

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生まれ

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フレグの7男として生まれる[1]。幼少期にキリスト教の洗礼を受け、ニコラウスという洗礼名をつけられた[2]。しかし成年に達すると、イスラーム教徒とともに育てられたため、イスラームを信奉するようになった[2]

即位

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1282年アバカ・ハンが崩御したため、マラーガ市に居合わせたハトゥン、親族の王侯および諸将軍はアバカに対する葬礼とその後嗣を選出する審議をするために会議(クリルタイ)を開いた[1]。これより先、アバカから召されていた息子アルグンはその途中で父の崩御の知らせを聞き、マラーガ市に赴いた[1]。この地でハトゥンたちや親族の諸王侯は慣習に従ってアルグンに杯を献じた[1]。アルグンに忠誠をつくしている将軍ブカはアバカ家の将校たちに対してアルグンに仕えるよう命じた[1]。やがてアバカの弟であるテグテルはグルジア王国から葬礼の場所に到着した[1]。葬礼が終わったのち、集会に参加した人々はジャガトゥに赴いた[1]。会議は三派に分かれ、フレグの子であるアジャイ、コンクルタイ、フラジュウの3人、フレグの次男ジュムクル(ジョムクル)の子である王侯ジュシカブ、キンシュウは将軍シクトルスウンジャク、アラブ、カラ・ブカと共にテグデルを推挙した[3]。将軍ブカ、アルク、アク・ブカおよびアバカ家の将軍たちはアルグンを推挙した[3]。フレグの妃でアバカの妃となったオルジェイ・ハトゥンはアバカの弟モンケ・ティムール(モンケ・テムル)を推挙した[3]。しかし、まもなくモンケ・ティムールが死去したのでオルジェイ・ハトゥンはクトイ・ハトゥンと同じく、アルグン側についた[3]。しかしながら、チンギス・カンのヤサによれば、カン(ハン)位を継承すべき者は王室の年長者であったため、テグデルの方が優勢であった[3]。アルグンの重臣の一人であるシーシー・バクシーはテグデルが軍の諸将の大多数に支持されているのを見て、アルグンに自発的に譲歩するよう勧め、アルグンがこれを承諾するやいなや、1282年5月6日に満場一致でテグデルは第3代カン(イルハン)に推戴された[3]。アルグンのもとに留まっていた宰相(サーヒブ・ディーワーン)のシャムスッディーン・ジュヴァイニーはテグデルのもとに呼ばれた[4]。6月21日、親族の諸王侯と諸将がテグデルに忠誠を尽くすという誓いを立てた後、テグテルは王侯コンクルタイとノヤン・シクトルによって玉座へ案内された[4]。テグデルはすでにイスラーム教を信奉していたので、スルターン・アフマドと称した[4]。スルターン・アフマドは即位の祝典を挙行し、シャフゥ・タラに保存されていた宝物を選ばせ、これを王侯、王妃、将校たち、および軍隊に分配した[4]。兵士はそれぞれ102ディーナールをもらった[4]。そうこうしている間にアルグンが遅れてやってきたが、自分を待ってくれなかったことを怨んだ[4]。スルターン・アフマドはアルグンに多大の敬意を表し、アルグンのために保留しておいた黄金20バーリシュ[注釈 1]を手渡した[4]

イスラーム信奉を表明

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スルターン・アフマドがとった最初の処置は自分のイスラーム信奉のことを表明することであった[4]。スルターン・アフマドはバグダードの官庁に対して次の勅書を送った[4]

われらはすでに即位し、われらはイスラーム教徒なり、バグダードの住民にこの幸福なる知らせをせよ。アッバース朝ハリーファの時代より学林・寺院に属せし者すべてを、それらに返還すべし。おのおの、寺院と学林に対してなされた寄付財産に対するその権利を回復せしめよ。イスラームの法律を犯すなかれ。なんじらはイスラーム教徒なり。バグダードの市民たちよ。而してわれらは預言者が「このイスラームの宗派が復活の日に至るまで勝ち続けるなり」と言いしことを知る。われらはこの予言が正しき事、天の天使が真実なることを確信す。唯一の神あり。それは永遠なり。なんじ、喜ぶべし。これを全州に知らしめよ。[5]

スルターン・アフマドはマムルーク朝のスルターン・カラーウーンに書を送って自分がイスラーム信仰を固持していることを告げた[5]

マジュド・アル=ムルクを死刑に処す

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スルターン・アフマドは自分の副官としてノヤン・スウンジャクを選び、財務庁(ディーワーン)を引き続きシャムスッディーン・ジュヴァイニーに委ねた[6]。アルグンが出発した後、スルターン・アフマドは1282年7月4日にスィヤー・クーの地を去り、マジュド・アル=ムルクと投獄中のアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーを自分の元へ出頭させるよう、ハマダーン市に命令を送った[6]。両名が宮廷へ到着すると、マジュド・アル=ムルクはシャムスッディーン・ジュヴァイニーに対する陰謀と中傷を再開し、財政収入の徴税請負全権をまたも入手しようとした[7]。しかし、シャムスッディーンはスルターン・アフマドの妃でコンギラト部出身のアルマニ・ハトゥンの庇護により、アフマドの恩寵を得ていたので、マジュドを破滅させようとした[7]。シャムスッディーンは自分に対し、あらゆる非難をしてきたマジュドのことをアフマドに訴えた[7]。マジュドはアルグンに書を送って「シャムスッディーンはあなたの父上に毒をもって殺し、今私の生命を奪おうとしています」と伝えた[7]。しかし、シャムスッディーンはマジュドの甥であるサアドゥッディーンを使ってこのアルグンとの密通を告発させることに成功した[7]。これによってスルターン・アフマドはまず、アラーウッディーンが没収されていたものをすべて彼に返還し、スウンジャクとアルクに命じて、マジュドの罪状を調査させた[8]。二人が彼の家宅捜査していた時に、彼の衣服のなかから黄色と紅色で未知の文字が書かれた1枚のライオンの皮を発見した[8]。これによってマジュドは有罪判決を受けたが、スウンジャクは死刑を科すことは欲しなかった[8]。しかし、シャムスッディーンは友人のアブド・アル=ラフマーンを使ってスウンジャクに対して強硬な態度で迫ったため、マジュドの死刑が決定した[8]。1282年8月1日、スルターン・アフマドはマジュドをシャムスッディーンのもとへ引き渡す命令を交付すると、多数の人々が剣と小刀を帯びて牢獄の前に集まった[8]。シャムスッディーンはマジュドの生命を助けようと思っていたが、アラーウッディーンとハールーンが反対したため、牢獄から放たれたマジュドは群衆によって一瞬のうちに殺され、ばらばらにされた[8]。マジュドの四肢は各州に送られ、彼の首はバグダード市内に懸けられた[9]。アラーウッディーンは自分の財産を取り戻し、スルターン・アフマドによってふたたびバグダード長官に任命された[9]。アフマドは彼に御衣の一襲を着せ、免税特許状(パイザ)を下付し、これら恩寵を与えることによってアラーウッディーンが政務から引退しようとしていたのを阻止した[9]

マムルーク朝との講和

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スルターン・アフマド(テグデル)と宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニー(『集史』パリ本)

宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーとシャイフ・アブド・アル=ラフマーンはスルターン・アフマドのイスラームに対する熱意を利用して、マムルーク朝のスルターンとの友好関係を結ぶようアフマドに勧めた[9]。アフマドはこの二人を尊敬し、二人の講義を聞くために二人の家で一日の大部分を過ごし、ほとんど政務に携わらなかった[10]。アフマドの母であるクトイ・ハトゥンはいつもそこへ会いに行き、国事もここで決定された[10]。一方で即位に協力してくれたシクトル・ノヤンとスウンジャク・アカを顧みなかった[10]。アフマドはイルハン朝におけるワクフ全体の管轄をシャイフ・アブド・アル=ラフマーンに委任し、これら宗教上の寄与財産の収入をその本来の目的にのみ適用すること、キリスト教徒とユダヤ教徒の医師と占星術者保護のために寄与財産の支出帳簿に登録されていなかった彼らの年金と謝礼金を取り消すことを命じた[10]。同額の年金は公金から給付されることになった[10]。また、メッカへ赴く巡礼者の隊商(キャラバン)の行進とカーバ神殿向けの食糧発送に対して必要な措置がとられた[10]。同時にアフマドは偶像院とキリスト教会堂をイスラーム寺院に変えるよう命令した[10]

1282年8月25日、アフマドはマムルーク朝のエジプトへ使節を派遣することを決め、スィヴァース市出身の法官(カーディー)でシーラーズ市の大法官クトブッディーン・マフムードと、ルーム・セルジューク朝の君主であるスルターン・マスウードの後見人アミール・バハー・ウッディーンを選び、アラタクの宮殿から彼らを派遣した[11]マールディーン王はその宰相シャムスッディーン・イブン・ベイティーを使節団に参加させた[11]。スルターン・カラーウーンはその使節が数多くの随員と盛大な供奉をつれて出発したことを知って、国境のビーラ市付近へ二人の侍従(ハージブ)を派遣し、使節団を出迎えて同行させ、諸州の知事たちに使節団を監視すること、使節団と交渉を持つことを禁止し、夜中にしか旅行させないことを命令した[11]。使節団はアレッポ市に入り、この地で誰も知られずに宿泊し、続いてダマスクス市を通り過ぎて10月の夜中にミスル市に到着した[11]。スルターン・カラーウーンに謁見を許されて使節は跪き、アフマドの国書を手渡し、口頭で使命を伝えた[11]。使節はカラーウーンの返書を携えて帰国の途につき、彼らを連れてきた二人の護衛に警護され、厳重な状態で国境まで見送ってもらった[12]

アフマドはスルターン・カラーウーンの返書を受け取り、1283年夏にアラタクからシャイフ・アブド・アル=ラフマーンをエジプトに派遣してマムルーク朝と和約を締結しようとした[13]

アルグンの反乱

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アルグンは将校たちにそそのかされてハン位を簒奪しようと決心し、バグダード市で冬営していたときに父アバカの親衛軍の一部であったカラウナス万戸と出会ったため、将軍タガチャルの指揮下に置いた[14]。アルグンはタガチャルに万戸長(トゥメン・ノヤン)の称号と旗鼓を与えた[14]。この軍隊はタガチャルの下でアルグンの弟ガイハトゥ、従弟のバイドゥならびにジャウクル、ジャンクトル、ドラダイの諸将およびアバカの旧将と旧臣のすべてと同じくアルグンに忠誠を誓っていた集団であった[14]。アルグンはバグダードの長官アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーのすべての財産を没収し、この総括徴税請負人の属吏が州の課税を一切徴収できないように命じ、アラーウッディーンの代官たちに報復をおこなった[15]。アルグンは彼らの金庫の中にあったすべてのものを奪い、拷問によって数年間に遡る延滞金を取り立てるという名目で莫大な金額を強制的に支払わせた[15]。シーシー・バクシー、ボロト・ティムール、タガチャルは熱心にアルグンを助けた[15]。1283年3月6日、アラーウッディーンはこのことを聞き、脳卒中で倒れて死去した[15]。バグダードの長官は弟のハールーンが就任した[15]

スルターン・アフマドはアルグンの謀反とそれにルームの王侯コンクルタイが合流しようとしているという情報を聞き、用心深く軍の一部をディヤールバクルに駐屯させた[16]。アフマドは勇猛で知られたグルジアの長官アリナクに命じてアルグンの元へ行ってクリルタイに出席するよう伝えさせた[16]。しかし、アリナクはアルグンに買収され、クリルタイには出席できないと返答してきた[17]。宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーはアリナクがアルグンに買収されたのを知り、それをアフマドに伝えた[17]。アフマドはアリナクに自分の娘スルターン・クチュクを娶らせ、彼を高い地位にすることによってこちら側に引き付けようとした[17]。しばらくしてアルグンはジュウシをアフマドの宮廷へ派遣し、シャムスッディーンへの中傷を伝えた[17]。これにアフマドは「宰相シャムスッディーンは政務から離すことはできないし、彼の代わりとなる者はいない」と返答した[17]

春になってアルグンはイラーク・アジャミーに向けて出発し、ライ市の長官に棒刑を加え、これをロバに載せてアフマドの宮廷に送り付けた[18]。アルグンはアフマドに抵抗するための軍隊の増強に必要な財源をあらゆる手段で手に入れようと、ホラーサーン州の宰相ワジーフッディーン・ザンギーを逮捕し、500トゥメンの金額を取り上げた[19]。その後、彼を釈放し、ホラーサーンの行政に復帰させた[18]。さらにアルグンはアフマドにシャムスッディーンの身柄を要求した[20]

アルグンは父アバカから封地として受けたホラーサーンの領有に満足せず、アフマドにイラークとファールスにおけるハン領地を要求してきた[20]。それに対しアフマドは「まずはクリルタイに出席するべきである」と返答し、「出席すれば恩恵を施すし、反抗するなら軍隊を差し向ける」と言った[13]

コンクルタイの処刑

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アフマドはクリルタイ開催を口実として王侯コンクルタイに対し、自分に会いに来るよう通知した[13]。コンクルタイはアラタクに赴き、アルグンにルーム産の珍品を贈り物として送り届け、アルグンは返礼として豹の首輪をコンクルタイに送った[13]。この二人の親密な連携はアフマドの疑惑をかきたてていたのである[13]

1284年1月18日、アフマドは二人が宴会の日にアフマドを捕らえようとしている計画を察知したため、将軍アリナクにコンクルタイを捕らえさせ、背骨を折って殺害した[21]。同時にディヤールバクルに駐屯していた軍隊にはバグダード州でアルグンの将校・属吏たちを捕らえさせた[21]。将軍タガチャル、ジャウクル、ドラダイ、イルチ、スナタイ・ノヤンの子アバイ、ジュウシらは厳重な護衛のもとにタブリーズ市へ連れていかれ、牢獄に入れられた[21]。しかし、王侯ガイハトゥ、将軍バトマジとその他の将校はうまく逃れてホラーサーンへ走った[21]大ルルアタベク・ユースフシャー(ユースフ・シャー1世)にその国の国境をよく警備し、その軍隊を率いてスルターン・アフマドの軍に合流せよとの命令が下された[21]。アフマドは圧倒的な兵力を集め、宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーは戦争の準備に忙殺された[21]。1月29日、総司令官のアリナクは1万人以上の前衛部隊を率いて出発した[21]

アルグンがアク・ホージャ平原で敗北

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「イルハン朝の二人の支配者、アルグン・ハン対スルタン・アフマドの戦い」。イランシーラーズ1582年9月付、サファヴィー朝時代の改訂版『サフヴァト・アル=サファ』(「純粋の精髄」)の葉。

一方、アルグンはその使節が帰ってくると、アフマドの意図について知らされ、ガイハトゥからもことの一部始終を聞き、武力で訴えることを覚悟した[22]。アルグンはホラーサーン、マーザンダラーンに駐屯している軍隊を集め、自分が支配しているすべての場所で国庫金を奪って得た金銀を彼らに分配した[22]。アルグンはダームガーン市においてアリナクがカズヴィーン市の付近に到着し、ライ地方を荒掠してアルグンの私領であるラールのサライを破壊したこと、その属民すべてを捕らえてアーザルバーイジャーンへ送ろうとしたことを聞き、怒りのあまり、アリナクに復讐しようと誓った[22]。アルグンはその部隊を3つに分け、自らは後軍を指揮し、シーシー・バクシーには後方で輜重を守らせ、将軍ノウルーズにカラウナス万戸(トゥメン)1万5千を率いて進軍させ、アリナク軍とはライ市とカズヴィーン市の中間に位置するハイル・イ・ブズルグ村で遭遇した[22]。アリナクはアルグンの間諜を捕らえて敵の位置と兵力を入手し、5月4日にカズヴィーン付近のアク・ホージャ平原でアルグンを発見し、夕暮れまで戦闘になった[22]。アルグンの左翼は潰走したが、右翼は反撃し、アリナクの左翼を追撃したものの、アルグンはかなわないと悟ってフィールーズクー路を経て300騎を率いて退却した[22]。残されたアルグンの兵は四散し、その途中でダームガーン市とその周辺を掠奪した[22]。アフマドはアルグンに対し、戦争を中止して信頼して自分に会いに来るよう勧めた[23]。アルグンは時間を稼ぐため、ノヤン・クトルグシャーレグズィーをアフマドの元へ派遣し、服従すると伝えた[23]

アルグンが降伏する

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アルグンと手を取り合うスルターン・アフマド(テグデル)

1284年4月26日、アフマドはトダイ・ハトゥンとの結婚式を挙げた後、モンゴル軍、ムスリム軍、アルメニア軍、グルジア軍合わせて8万騎を率いてムーガーンを出発した[23]。アルグンの2人の使節はアク・ホージャ平原でアフマドに謁見した[23]。二人はアルグンからの伝言をアフマドに差し出した[24]。伝言では「自分は陛下と戦うつもりはなく、アリナクが攻撃したから自分を守ったまでです」と言っていた[24]。アフマドの諸将はアフマドにアルグンを許して作戦を終えるよう諫めたが、アフマドは耳を傾けなかった[24]。そこで占星術者はこの遠征はアフマドになんの有利な状況を示していないと明言すると、アフマドは怒った[24]。アルグンの使者レグズィーはアフマドに対し、「和睦しなければアルグンとカラウナスが合流し、取り返しのつかないことになるぞ」と脅した[24]。6月1日、アルグンの子ガザン、ネグデル・オグルの子オマル・オグルが多数の将校を伴ってスィームナーン地方の1村落で和睦を求めてきた[24]。3日後、アフマドは王侯トガ・ティムールとスケイを将軍ブカ、ドラダイ・ヤルグチとともに派遣し、アルグンに対して「服従を証明するには自ら自分のもとへ来見するべきである」と通告させた[25]。6月20日、アフマドはハルカーンにてガザンと別れた[25]

アク・ホージャの戦いの後、将軍アリナクはアルグンが少数の部下を連れて退却したことを知り、トゥメンを率いてアルグンを追跡した[26]。アルグンはトゥース市の東北にあるカラート・クー堡塞のなかに立てこもったが、この堡塞の塁壁は大半が破壊されていた[26]。彼の将軍の多くはアルグンが失敗したと思い、アフマドの陣営へ移った[26]。ノウルーズのみはアルグンに忠誠をつづけ、アルグンにジャイフーン(アム)川を渡って退却することを勧めたが、アルグンが従わなかった[26]

アルグンがカラート・クー堡塞に入ってから3日後にアリナクがその前衛部隊を率いて現れた[27]。アルグンはひとり外へ出て大きな声でアリナクを呼んだ[27]。アリナクは1人進み出て跪き、スルターン・アフマドが会うことを欲していると告げた[27]。アリナクはアルグンに1頭の白馬を献上した[27]。二人は一緒に堡塞の中へ入って長い話をし、アリナクはアルグンに降伏するよう説得した[27]。6月29日、ついにアルグンは降伏することを決意し、アリナクと共にウージャーンのアフマドの幕営へ到着した[27]。アルグンは左側から案内され、その帯をはずされた[27]。アルグンはただちにアフマドの幕帳に入れず、灼熱の炎天下のもとで待たされた[27]。その際、アフマドのもとにいたアルグンの姉であるトガンが傘を持って行ってアルグンにかけてやった[28]。先にアルグンの妃ブルガン・ハトゥンが王幕のなかへ案内され、アフマドは彼女を歓迎し、酒杯を送った[28]。その後アフマドは外へ出て狩猟をしてから戻り、アルグンを幕張へ案内した[28]。アルグンは膝を曲げ、モンゴル人の慣例の礼式で臣従を誓った[28]。アフマドはアルグンを抱擁し、二人は涙を流して喜び合った[28]。アフマドは引き続きアルグンのホラーサーン封地を認めつつ、ブカの弟アルクの監視を置いた[28]。アフマドは母のクトイ・ハトゥンと会うまでアルグンの訴訟を審理することを欲していなかった[28]。アリナクはこの日の夜にアルグンを殺害するようアフマドに勧めたが、アフマドは従わなかった[28]。翌日アフマドは愛妃トダイ・ハトゥンに会うため帰路につき、アリナクにはアルグンを厳重に監視するよう委任し、軍の指揮を親族の諸王侯に委ねた[29]

ブカがアルグンを救出

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将軍ブカはもともとアルグンと親密な関係にあったが、スルターン・アフマド即位の時以来アフマドのもとにいた[29]。しかし、最近ではアフマドはブカよりもカラ・ブカという将校の方を重用するようになっていたため、ブカはアルグンを救出することを決意し、7月4日、数人の将軍に連絡して「アフマドはかつてその腹心スケイ、カラ・ブカ、アリナク、エブゲンとともにイスファラーイン市付近でなんじらを殺そうとしていた」と言い、あることないことを吹き込んだ[30]。これにそそのかされた王侯ジュシカブ、フラジュウと諸将はブカに従い、その夜アルグンが軟禁されている幕営に入り、アルグンを救い出した[31]。その後、彼らは甲冑をつけてアリナクの幕営を襲ってアリナクを粉々にして殺した[31]。その他の者は殺されるか臣従した[31]。カラ・ブカ、バヤン、クトブは逮捕されて翌日死刑となった[32]

アフマドの逃走

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1284年7月5日、イスファラーイン市の先でひとりの騎兵がこのことをアフマドに伝えに来た[31]。アフマドの傍らには王侯キンシュウ、アミール・エムゲチン、アク・ブカ、レグズィーがいたが、アリナクやカラ・ブカら要将たちが殺され、こちらに向かってくることを聞くと、急いで逃走することを決意し、カールプーシュ市のトダイ・ハトゥンのもとへ行って夜を過ごそうとした[32]。アフマドはクーミスとイラークの道を取り、サラーブ市付近にあった母クトイ・ハトゥンのオルドへ赴こうとした[33]。途中、随行していた将軍たち小君主たちは次々と後方に残り、宰相シャムスッディーンも離れ、アフマドはわずか馬丁一人を伴ってジャージャルムに着き、イスファハーンへの道を取った[33]。アフマドの輜重と宝蔵を護送していたスウンジャクは道をムスルミーにとり、サラーブ市でアフマドに合流した[33]。しかし、スウンジャクはこの途上でタイジュウ・クシュジとキトガ・クルジに追いつかれて攻撃された[33]。7月13日、スウンジャクは宝蔵を守り抜き、アフマドと共にモンゴル人がコンクル・ウラングと呼ぶシャルーヤーズの地に到着した[34]。ここでアフマドはブカのオルドを掠奪した[34]。7月18日、アフマドは自分のオルドに到着すると、母を抱擁し、この出来事について説明した[34]。アフマドはデルベントまで逃走しようと考えたが、母クトイ・ハトゥンはオルドに留まり、諸将の援助を得るほうがよいとした[35]。翌日、王侯カラ・ブカ・オグルとシクトル・アカはアフマドの帳幕を護衛し、アフマドに逮捕令が出ていることもあってこの場に留まった[35]

アフマド逮捕される

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しばらくしてブラから得た通報に基づいて進軍を開始したカラウナス部隊がアフマドのオルドに到着し、婦人の天幕の中に入って衣服と宝石を掠奪した[36]。王幕にあった絨毯、金銀、衣服、布帛なども略奪され、クトイ・ハトゥンが身に着けていたものさえも奪われた[36]。クトイ・ハトゥン、トダイ・ハトゥン、アルマニ・ハトゥンらは裸にさせられ、カラウナス人たちは想像し得るあらゆる冒涜行為を犯した[注釈 2][36]。つづいてアフマドを拘束し、衣服を奪った[36]。アルグンがムスルミー付近に到着すると、カラ・ブカとシクトルがカラウナス部隊を率いて縛り上げられたアフマドを連れてきた[37]。アルグンは「メリウ」[注釈 3]を叫びはじめ、将校たちもこれにならった[37]。彼らは酒杯をとってアフマド捕縛をほめたたえ、アルグンに祝いの言葉を述べた[37]

アフマドの処刑

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アルグンに処刑されるスルターン・アフマド(テグデル)

アルグンは7月26日水曜日、ムール水を渡って次の日曜日にユズ・アガチュ付近のアブ・シュールに足を止めた[38]。将軍タガチャル、クンチャクバル、ドラダイはタブリーズ市で拘禁されていたのをアルグンによって釈放され、彼らとコンクルタイの旧臣はアフマドの尋問を任された[38]。彼らはアフマドがアフマド即位に尽力したコンクルタイ、アバカの旧将たちに忘恩の罪があると裁判した[38]。また、アルグンに対し敵意を抱いていたことも責めた[38]。アフマドは自分の過ちを告白した[38]。アルグンと諸将はクトイ・ハトゥンに免じてアフマドを助命しようと思っていたが、コンクルタイの母と諸子、親戚は復讐の声を挙げたため、アルグンはアフマドを殺す命令を下した[38]。1284年8月10日、スルターン・アフマドはコンクルタイが殺されたのと同じく、背骨を折られて処刑された[38]

宗室

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集史』「テグデル・アフマド紀」によると、テグデルはに男子は3人、女子は6人いたという。

父母・兄弟

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  • 父 フレグ・ハン
  • 母 クトゥイ・ハトゥン
  • 同母兄 テクシン(フレグの四男)

后妃

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  • ドクズ・ハトゥン[注釈 4] 大ハトゥン
  • アルマニ・ハトゥン[注釈 4] クビランジとアルスランジの母
  • トデグ・ハトゥン[注釈 6]
  • トデイ・ハトゥン[注釈 7]
  • イル=クトルグ・ハトゥン[注釈 8]
    • クルグジン(側室)

男子

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  • 長男 クビランジ 母アルマニ・ハトゥン
  • 次男 アルスランジ 母アルマニ・ハトゥン
  • 三男 ナウハンジ 母クルグジン(側室)

女子

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  • 長女 キュチュク 母トクズ・ハトゥン[注釈 9]
  • 次女 クンチュク 母アルマニ・ハトゥン[注釈 10]
  • 三女 チチェク 母アルマニ・ハトゥン[注釈 11]
  • 四女 マイヌウ 母アルマニ・ハトゥン[注釈 12]
  • 五女 サイルン 母トデグ・ハトゥン[注釈 13]
  • 六女 ケルトゥルミシュ[注釈 14]

脚注

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注釈

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  1. 金バーリシュは75金ディーナールと同じ[4]
  2. 元来、チンギス・カンのヤサでは内乱中に婦女子を虐待することは禁止されていた[36]
  3. モンゴル人は賞を競った時に勝者が掌を打ち、「メリウ」を叫ぶのが慣例であった[37]
  4. 1 2 コンギラト部族出身。
  5. フサイン・アカの娘。
  6. ムーサー・キュレゲンの娘。
  7. コンギラト部族の某の娘。父アバカの側室のひとり。アバカに嫁ぎその正妃ミリタイ・ハトゥン亡き後にその地位を継承、王女ユル・クトルグ、ノカイの母となる。後にテグデルが受け継ぎ、テグデルの大ハトゥン位を最後に継いで、その死後はアルグンの妃となった。
  8. トガチャクの母であるキンシュウの娘。
  9. アミール・アリナクへ降嫁。
  10. 大アミール・イリンジンへ降嫁。
  11. ディヤール・バクルのアミール・ブラジュへ降嫁。
  12. ギレイ・バウルチの息子ジャンダンへ降嫁。
  13. ウルク・ハトゥンのオルドの家人(エヴ・オグラン)であったカラチャへ降嫁。
  14. 母コンコルジン。万戸長シャディヘ降嫁。

出典

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 佐口 1976, p. 130.
  2. 1 2 佐口 1976, p. 140.
  3. 1 2 3 4 5 6 佐口 1976, p. 131.
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 佐口 1976, p. 132.
  5. 1 2 佐口 1976, p. 133.
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  7. 1 2 3 4 5 佐口 1976, p. 136.
  8. 1 2 3 4 5 6 佐口 1976, p. 137.
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  10. 1 2 3 4 5 6 7 佐口 1976, p. 139.
  11. 1 2 3 4 5 佐口 1976, p. 141.
  12. 佐口 1976, p. 153.
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参考文献

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  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 5巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫298〉、1976年12月。ISBN 4582802982 
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説 イル汗国の中核部族東京大学出版会、1995年。ISBN 978-4-13-026112-8 

関連項目

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先代
アバカ
イルハン朝イルハン
第3代
1282年 - 1284年
次代
アルグン