アルグン
| アルグン ارغون خان | |
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| イルハン朝第4代イルハン | |
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| 在位 | 1284年8月11日[1] - 1291年3月10日 |
| 戴冠式 | 1284年8月11日[1] |
| 出生 |
1258年? |
| 死去 |
1291年3月10日 |
| 埋葬 | スィジャース山(ソルターニーイェ) |
| 子女 | ガザン、オルジェイトゥ他 |
| 王朝 | イルハン朝 |
| 父親 | アバカ |
| 母親 | カイミシュ・ハトゥン |
| 宗教 | 仏教 |
アルグン(ارغون خان Arγun, Arghun, 1258年? - 1291年3月10日[2])は、イルハン朝の第4代君主(イル・カン、イルハン、在位:1284年8月11日[1] - 1291年3月10日)。
第2代君主・アバカの長男。アバカの側室の一人カイミシュ・ハトゥン(エゲチ)の息子。第5代君主・ガイハトゥの異母兄で、第7代君主・ガザン・ハン、第8代君主・オルジェイトゥの父。『元史』の漢字表記では阿魯渾大王、『集史』などのペルシア語表記ではアルグーン・ハーン(ارغون خان Arghāūn khān)[注釈 1]と書かれる。
生涯
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および彼に抱き上げられている孫の幼児ガザン。
生まれ
[編集]イルハン朝の第2代イルハンであるアバカ・ハンとその女奴隷の一人カーイトミシュ・エゲチとの間に長男として生まれた[3]。
マジュド・アル=ムルクにそそのかされる
[編集]1279年3月、アバカはタブリーズ市を出発してホラーサーン州に向かった[4]。息子のアルグンがアバカに会いにカズヴィーン市に来たので、マジュド・アル=ムルクはアルグンの宮廷官を通じてアルグンにお目通りすることに成功した[4]。そこでマジュドはアルグンに宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーがマムルーク朝と内通しており、その弟アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーも謀反を企んでいると嘘をついた[5]。アルグンはこの話を父アバカにもっていくと、アバカは内緒にするよう言った[5]。
アバカ・ハンの崩御
[編集]1282年、アバカ・ハンが崩御したため、マラーゲ市に居合わせたハトゥン、親族の王侯および諸将軍はアバカに対する葬礼とその後嗣を選出する審議をするために会議(クリルタイ)を開いた[6]。これより先、アバカから召されていた息子アルグンはその途中で父の崩御の知らせを聞き、マラーゲ市に赴いた[6]。この地でハトゥンたちや親族の諸王侯は慣習に従ってアルグンに杯を献じた[6]。アルグンに忠誠をつくしている将軍ブカはアバカ家の将校たちに対してアルグンに仕えるよう命じた[6]。やがてアバカの弟であるテグデルはグルジア王国から葬礼の場所に到着した[6]。葬礼が終わったのち、集会に参加した人々はジャガトゥに赴いた[6]。会議は三派に分かれ、フレグの子であるアジャイ、コンクルタイ、フラジュウの3人、フレグの次男ジュムクル(ジョムクル)の子である王侯ジュシカブ、キンシュウは将軍シクトル、スウンジャク、アラブ、カラ・ブカと共にテグデルを推挙した[7]。将軍ブカ、アルク、アク・ブカおよびアバカ家の将軍たちはアルグンを推挙した[7]。フレグの妃でアバカの妃となったオルジェイ・ハトゥンはアバカの弟モンケ・ティムール(モンケ・テムル)を推挙した[7]。しかし、まもなくモンケ・ティムールが死去したのでオルジェイ・ハトゥンはクトイ・ハトゥンと同じく、アルグン側についた[7]。しかしながら、チンギス・カンのヤサによれば、カン(ハン)位を継承すべき者は王室の年長者であったため、テグデルの方が優勢であった[7]。アルグンの重臣の一人であるシーシー・バクシーはテグデルが軍の諸将の大多数に支持されているのを見て、アルグンに自発的に譲歩するよう勧め、アルグンがこれを承諾するやいなや、1282年5月6日に満場一致でテグデルは第3代カン(イルハン)に推戴された[7]。アルグンのもとに留まっていた宰相(サーヒブ・ディーワーン)のシャムスッディーン・ジュヴァイニーはテグデルのもとに呼ばれた[8]。6月21日、親族の諸王侯と諸将がテグデルに忠誠を尽くすという誓いを立てた後、テグテルは王侯コンクルタイとノヤン・シクトルによって玉座へ案内された[8]。テグデルはすでにイスラーム教を信奉していたので、スルターン・アフマドと称した[8]。スルターン・アフマドは即位の祝典を挙行し、シャフゥ・タラに保存されていた宝物を選ばせ、これを王侯、王妃、将校たち、および軍隊に分配した[8]。兵士はそれぞれ102ディーナールをもらった[8]。そうこうしている間にアルグンが遅れてやってきたが、自分を待ってくれなかったことを怨んだ[8]。スルターン・アフマドはアルグンに多大の敬意を表し、アルグンのために保留しておいた黄金20バーリシュ[注釈 2]を手渡した[8]。
マジュド・アル=ムルクが死刑となる
[編集]スルターン・アフマドは自分の副官としてノヤン・スウンジャクを選び、財務庁(ディーワーン)を引き続きシャムスッディーン・ジュヴァイニーに委ねた[9]。アルグンが出発した後、スルターン・アフマドは1282年7月4日にスィヤー・クーの地を去り、マジュド・アル=ムルクと投獄中のアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーを自分の元へ出頭させるよう、ハマダーン市に命令を送った[9]。両名が宮廷へ到着すると、マジュド・アル=ムルクはシャムスッディーン・ジュヴァイニーに対する陰謀と中傷を再開し、財政収入の徴税請負全権をまたも入手しようとした[10]。しかし、シャムスッディーンはスルターン・アフマドの妃でコンギラト部出身のアルマニ・ハトゥンの庇護により、アフマドの恩寵を得ていたので、マジュドを破滅させようとした[10]。シャムスッディーンは自分に対し、あらゆる非難をしてきたマジュドのことをアフマドに訴えた[10]。マジュドはアルグンに書を送って「シャムスッディーンはあなたの父上に毒をもって殺し、今私の生命を奪おうとしています」と伝えた[10]。しかし、シャムスッディーンはマジュドの甥であるサアドゥッディーンを使ってこのアルグンとの密通を告発させることに成功した[10]。これによってスルターン・アフマドはまず、アラーウッディーンが没収されていたものをすべて彼に返還し、スウンジャクとアルクに命じて、マジュドの罪状を調査させた[11]。二人が彼の家宅捜査していた時に、彼の衣服のなかから黄色と紅色で未知の文字が書かれた1枚のライオンの皮を発見した[11]。これによってマジュドは有罪判決を受けたが、スウンジャクは死刑を科すことは欲しなかった[11]。しかし、シャムスッディーンは友人のアブド・アル=ラフマーンを使ってスウンジャクに対して強硬な態度で迫ったため、マジュドの死刑が決定した[11]。1282年8月1日、スルターン・アフマドはマジュドをシャムスッディーンのもとへ引き渡す命令を交付すると、多数の人々が剣と小刀を帯びて牢獄の前に集まった[11]。シャムスッディーンはマジュドの生命を助けようと思っていたが、アラーウッディーンとハールーンが反対したため、牢獄から放たれたマジュドは群衆によって一瞬のうちに殺され、ばらばらにされた[11]。マジュドの四肢は各州に送られ、彼の首はバグダード市内に懸けられた[12]。アラーウッディーンは自分の財産を取り戻し、スルターン・アフマドによってふたたびバグダード長官に任命された[12]。アフマドは彼に御衣の一襲を着せ、免税特許状(パイザ)を下付し、これら恩寵を与えることによってアラーウッディーンが政務から引退しようとしていたのを阻止した[12]。
アルグンの反乱
[編集]アルグンは将校たちにそそのかされてハン位を簒奪しようと決心し、バグダード市で冬営していたときに父アバカの親衛軍の一部であったカラウナス万戸と出会ったため、将軍タガチャルの指揮下に置いた[13]。アルグンはタガチャルに万戸長(トゥメン・ノヤン)の称号と旗鼓を与えた[13]。この軍隊はタガチャルの下でアルグンの弟ガイハトゥ、従弟のバイドゥならびにジャウクル、ジャンクトル、ドラダイの諸将およびアバカの旧将と旧臣のすべてと同じくアルグンに忠誠を誓っていた集団であった[13]。アルグンはバグダードの長官アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーのすべての財産を没収し、この総括徴税請負人の属吏が州の課税を一切徴収できないように命じ、アラーウッディーンの代官たちに報復をおこなった[14]。アルグンは彼らの金庫の中にあったすべてのものを奪い、拷問によって数年間に遡る延滞金を取り立てるという名目で莫大な金額を強制的に支払わせた[14]。シーシー・バクシー、ボロト・ティムール、タガチャルは熱心にアルグンを助けた[14]。1283年3月6日、アラーウッディーンはこのことを聞き、脳卒中で倒れて死去した[14]。バグダードの長官は弟のハールーンが就任した[14]。
スルターン・アフマドはアルグンの謀反とそれにルームの王侯コンクルタイが合流しようとしているという情報を聞き、用心深く軍の一部をディヤールバクルに駐屯させた[15]。アフマドは勇猛で知られたグルジアの長官アリナクに命じてアルグンの元へ行ってクリルタイに出席するよう伝えさせた[15]。しかし、アリナクはアルグンに買収され、クリルタイには出席できないと返答してきた[16]。宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーはアリナクがアルグンに買収されたのを知り、それをアフマドに伝えた[16]。アフマドはアリナクに自分の娘スルターン・クチュクを娶らせ、彼を高い地位にすることによってこちら側に引き付けようとした[16]。しばらくしてアルグンはジュウシをアフマドの宮廷へ派遣し、シャムスッディーンへの中傷を伝えた[16]。これにアフマドは「宰相シャムスッディーンは政務から離すことはできないし、彼の代わりとなる者はいない」と返答した[16]。
春になってアルグンはイラーク・アジャミーに向けて出発し、ライ市の長官に棒刑を加え、これをロバに載せてアフマドの宮廷に送り付けた[17]。アルグンはアフマドに抵抗するための軍隊の増強に必要な財源をあらゆる手段で手に入れようと、ホラーサーン州の宰相ワジーフッディーン・ザンギーを逮捕し、500トゥメンの金額を取り上げた[18]。その後、彼を釈放し、ホラーサーンの行政に復帰させた[17]。さらにアルグンはアフマドにシャムスッディーンの身柄を要求した[19]。
アルグンは父アバカから封地として受けたホラーサーンの領有に満足せず、アフマドにイラークとファールスにおけるハン領地を要求してきた[19]。それに対しアフマドは「まずはクリルタイに出席するべきである」と返答し、「出席すれば恩恵を施すし、反抗するなら軍隊を差し向ける」と言った[20]。
コンクルタイの処刑
[編集]アフマドはクリルタイ開催を口実として王侯コンクルタイに対し、自分に会いに来るよう通知した[20]。コンクルタイはアラタクに赴き、アルグンにルーム産の珍品を贈り物として送り届け、アルグンは返礼として豹の首輪をコンクルタイに送った[20]。この二人の親密な連携はアフマドの疑惑をかきたてていたのである[20]。
1284年1月18日、アフマドは二人が宴会の日にアフマドを捕らえようとしている計画を察知したため、将軍アリナクにコンクルタイを捕らえさせ、背骨を折って殺害した[21]。同時にディヤールバクルに駐屯していた軍隊にはバグダード州でアルグンの将校・属吏たちを捕らえさせた[21]。将軍タガチャル、ジャウクル、ドラダイ、イルチ、スナタイ・ノヤンの子アバイ、ジュウシらは厳重な護衛のもとにタブリーズ市へ連れていかれ、牢獄に入れられた[21]。しかし、王侯ガイハトゥ、将軍バトマジとその他の将校はうまく逃れてホラーサーンへ走った[21]。大ルルのアタベク・ユースフシャー(ユースフ・シャー1世)にその国の国境をよく警備し、その軍隊を率いてスルターン・アフマドの軍に合流せよとの命令が下された[21]。アフマドは圧倒的な兵力を集め、宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーは戦争の準備に忙殺された[21]。1月29日、総司令官のアリナクは1万人以上の前衛部隊を率いて出発した[21]。
アルグンがアク・ホージャ平原で敗北
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一方、アルグンはその使節が帰ってくると、アフマドの意図について知らされ、ガイハトゥからもことの一部始終を聞き、武力で訴えることを覚悟した[22]。アルグンはホラーサーン、マーザンダラーンに駐屯している軍隊を集め、自分が支配しているすべての場所で国庫金を奪って得た金銀を彼らに分配した[22]。アルグンはダームガーン市においてアリナクがカズヴィーン市の付近に到着し、ライ地方を荒掠してアルグンの私領であるラールのサライを破壊したこと、その属民すべてを捕らえてアーザルバーイジャーンへ送ろうとしたことを聞き、怒りのあまり、アリナクに復讐しようと誓った[22]。アルグンはその部隊を3つに分け、自らは後軍を指揮し、シーシー・バクシーには後方で輜重を守らせ、将軍ノウルーズにカラウナス万戸(トゥメン)1万5千を率いて進軍させ、アリナク軍とはライ市とカズヴィーン市の中間に位置するハイル・イ・ブズルグ村で遭遇した[22]。アリナクはアルグンの間諜を捕らえて敵の位置と兵力を入手し、5月4日にカズヴィーン付近のアク・ホージャ平原でアルグンを発見し、夕暮れまで戦闘になった[22]。アルグンの左翼は潰走したが、右翼は反撃し、アリナクの左翼を追撃したものの、アルグンはかなわないと悟ってフィールーズクー路を経て300騎を率いて退却した[22]。残されたアルグンの兵は四散し、その途中でダームガーン市とその周辺を掠奪した[22]。アフマドはアルグンに対し、戦争を中止して信頼して自分に会いに来るよう勧めた[23]。アルグンは時間を稼ぐため、ノヤン・クトルグシャーとレグズィーをアフマドの元へ派遣し、服従すると伝えた[23]。
アルグンが降伏する
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1284年4月26日、アフマドはトダイ・ハトゥンとの結婚式を挙げた後、モンゴル軍、ムスリム軍、アルメニア軍、グルジア軍合わせて8万騎を率いてムーガーンを出発した[23]。アルグンの2人の使節はアク・ホージャ平原でアフマドに謁見した[23]。二人はアルグンからの伝言をアフマドに差し出した[24]。伝言では「自分は陛下と戦うつもりはなく、アリナクが攻撃したから自分を守ったまでです」と言っていた[24]。アフマドの諸将はアフマドにアルグンを許して作戦を終えるよう諫めたが、アフマドは耳を傾けなかった[24]。そこで占星術者はこの遠征はアフマドになんの有利な状況を示していないと明言すると、アフマドは怒った[24]。アルグンの使者レグズィーはアフマドに対し、「和睦しなければアルグンとカラウナスが合流し、取り返しのつかないことになるぞ」と脅した[24]。6月1日、アルグンの子ガザン、ネグデル・オグルの子オマル・オグルが多数の将校を伴ってスィームナーン地方の1村落で和睦を求めてきた[24]。3日後、アフマドは王侯トガ・ティムールとスケイを将軍ブカ、ドラダイ・ヤルグチとともに派遣し、アルグンに対して「服従を証明するには自ら自分のもとへ来見するべきである」と通告させた[25]。6月20日、アフマドはハルカーンにてガザンと別れた[25]。
アク・ホージャの戦いの後、将軍アリナクはアルグンが少数の部下を連れて退却したことを知り、トゥメンを率いてアルグンを追跡した[26]。アルグンはトゥース市の東北にあるカラート・クー堡塞のなかに立てこもったが、この堡塞の塁壁は大半が破壊されていた[26]。彼の将軍の多くはアルグンが失敗したと思い、アフマドの陣営へ移った[26]。ノウルーズのみはアルグンに忠誠をつづけ、アルグンにジャイフーン(アム)川を渡って退却することを勧めたが、アルグンが従わなかった[26]。
アルグンがカラート・クー堡塞に入ってから3日後にアリナクがその前衛部隊を率いて現れた[27]。アルグンはひとり外へ出て大きな声でアリナクを呼んだ[27]。アリナクは1人進み出て跪き、スルターン・アフマドが会うことを欲していると告げた[27]。アリナクはアルグンに1頭の白馬を献上した[27]。二人は一緒に堡塞の中へ入って長い話をし、アリナクはアルグンに降伏するよう説得した[27]。6月29日、ついにアルグンは降伏することを決意し、アリナクと共にウージャーンのアフマドの幕営へ到着した[27]。アルグンは左側から案内され、その帯をはずされた[27]。アルグンはただちにアフマドの幕帳に入れず、灼熱の炎天下のもとで待たされた[27]。その際、アフマドのもとにいたアルグンの姉であるトガンが傘を持って行ってアルグンにかけてやった[28]。先にアルグンの妃ブルガン・ハトゥンが王幕のなかへ案内され、アフマドは彼女を歓迎し、酒杯を送った[28]。その後アフマドは外へ出て狩猟をしてから戻り、アルグンを幕張へ案内した[28]。アルグンは膝を曲げ、モンゴル人の慣例の礼式で臣従を誓った[28]。アフマドはアルグンを抱擁し、二人は涙を流して喜び合った[28]。アフマドは引き続きアルグンのホラーサーン封地を認めつつ、ブカの弟アルクの監視を置いた[28]。アフマドは母のクトイ・ハトゥンと会うまでアルグンの訴訟を審理することを欲していなかった[28]。アリナクはこの日の夜にアルグンを殺害するようアフマドに勧めたが、アフマドは従わなかった[28]。翌日アフマドは愛妃トダイ・ハトゥンに会うため帰路につき、アリナクにはアルグンを厳重に監視するよう委任し、軍の指揮を親族の諸王侯に委ねた[29]。
ブカがアルグンを救出
[編集]将軍ブカはもともとアルグンと親密な関係にあったが、スルターン・アフマド即位の時以来アフマドのもとにいた[29]。しかし、最近ではアフマドはブカよりもカラ・ブカという将校の方を重用するようになっていたため、ブカはアルグンを救出することを決意し、7月4日、数人の将軍に連絡して「アフマドはかつてその腹心スケイ、カラ・ブカ、アリナク、エブゲンとともにイスファラーイン市付近でなんじらを殺そうとしていた」と言い、あることないことを吹き込んだ[30]。これにそそのかされた王侯ジュシカブ、フラジュウと諸将はブカに従い、その夜アルグンが軟禁されている幕営に入り、アルグンを救い出した[31]。その後、彼らは甲冑をつけてアリナクの幕営を襲ってアリナクを粉々にして殺した[31]。その他の者は殺されるか臣従した[31]。カラ・ブカ、バヤン、クトブは逮捕されて翌日死刑となった[32]。
アフマドを逮捕する
[編集]しばらくしてブラから得た通報に基づいて進軍を開始したカラウナス部隊がアフマドのオルドに到着し、婦人の天幕の中に入って衣服と宝石を掠奪した[33]。王幕にあった絨毯、金銀、衣服、布帛なども略奪され、クトイ・ハトゥンが身に着けていたものさえも奪われた[33]。クトイ・ハトゥン、トダイ・ハトゥン、アルマニ・ハトゥンらは裸にさせられ、カラウナス人たちは想像し得るあらゆる冒涜行為を犯した[注釈 3][33]。つづいてアフマドを拘束し、衣服を奪った[33]。アルグンがムスルミー付近に到着すると、カラ・ブカとシクトルがカラウナス部隊を率いて縛り上げられたアフマドを連れてきた[34]。アルグンは「メリウ」[注釈 4]を叫びはじめ、将校たちもこれにならった[34]。彼らは酒杯をとってアフマド捕縛をほめたたえ、アルグンに祝いの言葉を述べた[34]。
アフマドを処刑
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アルグンは7月26日水曜日、ムール水を渡って次の日曜日にユズ・アガチュ付近のアブ・シュールに足を止めた[35]。将軍タガチャル、クンチャクバル、ドラダイはタブリーズ市で拘禁されていたのをアルグンによって釈放され、彼らとコンクルタイの旧臣はアフマドの尋問を任された[35]。彼らはアフマドがアフマド即位に尽力したコンクルタイ、アバカの旧将たちに忘恩の罪があると裁判した[35]。また、アルグンに対し敵意を抱いていたことも責めた[35]。アフマドは自分の過ちを告白した[35]。アルグンと諸将はクトイ・ハトゥンに免じてアフマドを助命しようと思っていたが、コンクルタイの母と諸子、親戚は復讐の声を挙げたため、アルグンはアフマドを殺す命令を下した[35]。1284年8月10日、スルターン・アフマドはコンクルタイが殺されたのと同じく、背骨を折られて処刑された[35]。
アルグンの即位
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アフマドの処刑後、ハトゥン、王侯、将軍たちはユズ・アガチュ付近のアブ・シュールに集まって満場一致でアルグンを推挙してカン(イルハン)とした[3]。アルグンは叔父のフラジュウに通知して、大ハトゥンたち将軍たちおよびノヤンたちが自分に即位するよう懇願したこと、自分はこれを拒絶できなかったこと、フラジュウは最高権に対してアルグンの協力者となってほしいことを伝えた[3]。フラジュウはアルグンと争う気はなかったので、アルグンのもとへ入朝し、アルグンはクリルタイのすべての参加者とともにクルバーン・シラに赴いた[3]。王侯ガイハトゥもまたアルグンの選出に同意するために到着した[3]。1284年8月11日、ハシトルードとクルバーン・シラの間にあるカムシウンという場所で占星学者の指示に従ってフラジュウとアンバンチがアルグンを即位させた[36][1]。ただちに参加者は帯を襟首の上へ投げかけて跪き、酒を酌み交わした[36]。王侯キンシュウとジュシカブはフラジュウの党派であり、アルグンの即位に反対していたが、即位式の3日後にアルグンに宣誓し、臣従を誓った[36]。アルグンはアフマドに忠誠を誓っていた数人の将校を殺し、勅令を発してアフマドに仕えていた人々に不安を与えないようにした[36]。
アルグンの初政
[編集]アルグンは王侯バイドゥにバグダードの統治権を、王侯ジュシカブにディヤールバクルの統治権を、王侯フラジュウにルームの統治権を、叔父のアジャイにはグルジアの統治権を、長男のガザンにはホラーサーン、マーザーンダラーン、ライおよびクーミス地方をそれぞれ与え、ガザンには王侯キンシュウとアルグン・アカの子アミール・ノウルーズを副官として付けた[37]。1284年9月15日、アルグンはブカにワズィール(宰相)の地位を授与し、彼の頭上に金粉を散布させた[37]。
そのころ、前宰相であったシャムスッディーン・ジュヴァイニーは混乱の最中逃げまどい、イスファハーン市にいた[38]。どういう状況になっているのか情報がつかめないまま3日滞在し、ルリスターンへ逃げ込んだ[38]。大ルルのアタベクであるユースフ・シャー1世はシャムスッディーンをアルグンにとりなした[38]。シャムスッディーンはアルグンの宮廷へ赴く途中、アルグンの派遣した将校たちから大赦をもらい、9月22日にクルバーン・シラへ到着した[39]。シャムスッディーンは旧友であるブカの家に宿泊し、翌日ブカによってアルグンに紹介された[39]。アルグンはシャムスッディーンを厚く歓迎し、ブカの代理宰相に任命した[39]。
シャムスッディーンの処刑
[編集]シャムスッディーンは多くの官吏から嫉妬を受けており、なかでもアリー・タムガーチー・ファフルッディーン・ムスタウフィーとフサームッディーン・ハージブは彼を陥れようと考えた[40]。彼らはブカにシャムスッディーンの脅威を言葉巧みに説き伏せた[40]。ブカは彼らの話に動かされ、同じ話をアルグンにし、シャムスッディーンに対する怨みをかき立てた[40]。アルグンはこれまでも同様の話を別の人から聞いてはいたが、信じることはなかった[40]。しかし、最も信頼を置くブカからの進言だとしたら、ためらいなく二人の裁判官カダガイとウゲデイに命じてシャムスッディーンの訊問を始め、罪状を調査させた[40]。モンゴルの風習に従ってシャムスッディーンの手が縛られ、杖刑に処された[41]。また、シャムスッディーンには国庫に二千金トゥメンの支払い命令があったが支払うことはできないと固辞したため、1284年11月16日アブハル市外のアブハル河畔の処刑場で手足を縛られた状態で高い場所から3回地面に落とされ、さらに足で踏みつけられて絶命した[42]。最後に死刑執行人たちはシャムスッディーンの首を斬り落とした[42]。彼の死はペルシア全土において歎き悲しまれた[42]。
ホージャ・ハールーンの死
[編集]ブカはアミール・アリー・タムガーチーをタブリーズ市に派遣してシャムスッディーンの財産を没収させた[43]。彼の子のひとりヤフヤーはこの都市で死刑に処された[43]。しばらくしてイラーク・アラビーで王侯バイドゥのもとに軍隊を指揮していた将軍アルクは富豪マジュドゥッディーン・アシールからバグダード州の租税収入の莫大な額を横領しているのではないかと指摘されており、そのマジュドゥッディーンと、シャムスッディーンの別子でこの地方の徴税官であったホージャ・ハールーンが内通しているという疑いがあったため、君主の命令なしに二人の首をはねた[43]。
クビライ・カアンより封冊される
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1286年2月24日[注釈 5]、将軍オルドカヤがクビライ・カアンの勅書を奉じて元朝より到着した[45]。クビライはアルグンにカン(ハン)の称号を与え、その父アバカの王位継承を追認し、ブカにはチン・サン(丞相)という中国風の称号を与えた[44]。4月7日、これによりアルグンは改めて即位式と祝宴をおこなった[44]。アルグンは勅令によってブカにほぼ無制限の大権を授与し、9つの大罪を犯さない限りハン自身にしか訊問できないこと、ハンの勅令はブカの印璽(アル・タムガ)が押印されていない限り執行できないこと、ブカの命令はハンの裁量を必要としないことを決定された[44]。
ファールスの采邑問題
[編集]シーラーズ市の著名なサイード族のひとりで、アバカ・ハンの時代にアルグンに仕えていたファフルッディーン・ハサンはアルグンに対してシーラーズ地方にある多くの土地はブワイフ朝のスルターン・アズド・アッ=ダウラの娘から継承した自分の祖父で大法官のサイード・シャラフッディーンに属していること、ファールスの王侯アタベク・アブー・バクルがこれらの地所を国庫へ没収し、これによってサイード・シャラフッディーンの子孫を不正にも踏み倒したものであることを何度も進言した[46]。ファフルッディーンはその苦情申し立ての証拠としてアズド・アッ=ダウラの時代の勅令、法官(カーディー)たちによって証明され、有力者たちの証言する不動産登記証書などの公正証書を提出し、アルグンにこの地所を国庫から分離し、これをアルグンの采邑(インチュウ)へ合併する命令をアバカ・ハンから求めてほしいと懇願した[46]。アバカはこれに同意し、自分の将校のひとりをサイードとともに派遣し、シーラーズ市へ行ってこの財産譲渡を行わせようとした[46]。この都市へ着いて、彼らは峻厳な手段に訴えて、税務官庁の主な役人に問題の地所を彼らの所有へ移すよう強制しようとした[46]。しかし、ムハンマド・ベイならびに他のモンゴル司令官たちはこれらの税務官を庇護し、もたらされた命令を執行することに反対したのでこの計画は失敗した[47]。サイード・ファフルッディーンはアルグンのもとへ帰り、隠忍自重した[47]。その後、アルグンが即位すると、彼は勅令を出してファフルッディーン家の地所をその手に残ってる証書に基づき、国庫から回収しようとした[47]。将校サイードはこの時オルドにいたファールスの財務官吏たちを集め、これらの地所とさらには最近数年間の収入の返済を彼らに要求した[47]。ブカはかつてこの問題に関して道理にかなった意見をアルグンに進言していた[47]。しかし、アルグンはこの地所を分離させようとしており、ブカの反対を受け入れず、ブカにはこの件には一切口出ししてはならぬと命じた[47]。同時に全国におけるこれら私有地の管理はノヤン・タガチャルに委ねられた[47]。サイード・ファフルッディーンはアルグン・アカの子ユル・クトルグとともにシーラーズ市へ赴いて、横領された地所を占有すべしとの命令を受けた[47]。長官(マリク)、法官(カーディー)たちの誰も法律または慣習に当然基づいている手段と食い違ったことを主張できなかったので、この二人の委員はその好きなように行動する自由をもって私有地のためにファールス全州において村落、田畑、園林、賦役、河渠、水磨の四分の一を占有し、これら私有地の収入は毎年、60ディーナールで請け負われることになった[47]。多くの地所に関して多くの家族の間で100年以来、相続あるいはその他の方法で取得されてきた財産に対する権利があると異議申し立てがされたが、それらも同じく私有地に併合された[47]。しかしながらサイード・ファフルッディーンはシーラーズ到着後18日で死んだ[48]。ユル・クトルグはその子サイード・クトブッディーンに作業の完遂を委ねた[48]。
ブカの陰謀
[編集]この事件はブカを怒らせ、彼の敵の筆頭にはクーヒスターン州の長官タラガイの子トガンがおり、トガンはアルグンの懇意な人々のなかでも最も親密な関係にあった[48]。トガンはアルグン・ハンと二人きりになった時「ブカは絶大な権限を行使して親族の諸王侯、ハトゥンたち、アミールたちに大きな影響力を及ぼしているので、もし彼が悪巧みを抱いたならばきわめて恐ろしいことになるでしょう」と進言した[48]。アルグンはこの話を話半分で聞いていた[48]。ある日、アルグンがアタラクに住んでいた時、ブカとタクナはアルグンのいるところで酒を飲んだ後、酔って喧嘩を始めたが、アルグンはタクナの常軌を逸した振る舞いをまったく叱責しなかった[48]。このことはアルグンに対するブカの怨恨の一つとなった[48]。その後、タガチャルとその取り巻きがブカに対する敵意を表しはじめたため、ブカはリウマチと偽ってしばらく宮廷への出仕を欠席した[49]。その間に、王侯フラジュウ、ジュシカブ、カラ・ブカ、キンシュウ、トガ・ティムール、ガバルチン、アミール・アルク、クルミシ、マチュウ、トグルク、カラウナス、グルジア王デメトレ2世、その他の人々と次々と盟約を結び、行動を起こす機会を待った[49]。ケユゥニュクレミシ[注釈 6]と呼ばれるモンゴル人の新年の日に際し、ジュシカブは朝賀に来た際にアルグンにブカの計画を暴露した[49]。アルグンはブカを信用していたので、証拠を出すよう要求した[49]。そこでジュシカブは盟約書(ムチェルガ)を提出するとアルグンはようやく信じて憤慨した[49]。
ブカを逮捕・処刑
[編集]アルグンの命令によって3人の将校、スルターン・イダージー、ドラダイ、トガンはその夜、軍隊を率いてブカを逮捕するためクル河畔に向かった[50]。彼らは夜明けにブカの天幕を襲撃したが、ブカはいなかった[50]。ブカは事前に察知し、クル川を渡ってオルジェイ・ハトゥンの幕営に逃れていた[50]。オルジェイ・ハトゥンがブカを受け入れるのを拒否したので、ハトゥンの厩吏ザンギーの天幕のなかに宿泊した[50]。ドラダイとトガンはここにも探しに来てようやくブカを逮捕した[50]。1289年1月6日、ブカがアルグンのもとに連れてこられると、将軍シクトルがブカを問い詰め、ブカは否認するばかりだったが、ジュシカブが盟約書を見せると気絶した[50]。アルグンは即座にブカの処刑を命じた[50]。人々はブカを天幕の外の処刑場に引きずっていき、トガンがブカの胸を蹴り、「なんじは君主になろうとした。ここがなんじの席である」と言い、首をはねた[50]。軍隊はブカの幕営を掠奪すべしとの命令を受け、ブカの共謀者たちは訊問され、処刑された[50]。
ブカの弟アルクも処刑
[編集]ブカの弟アルクはバグダード、メソポタミア、ディヤールバクル諸州の総督であり、当時、ディヤールバクル地方で冬営していたが、アルクを逮捕するため、ムーガーン地方からバイトミシュという将校が派遣された[51]。バイトミシュはアーミド市付近に到着してこの地方に駐屯していたモンゴル軍を動員し、アルクを包囲した[51]。アルクが何が起きたかわかっていなかったため、バイトミシュはブカが処刑されたことと逮捕状が出ていることを伝えた[51]。アルクは鎖につながれて逮捕されると、1289年2月22日に処刑された[51]。アルクの首級とブカの首級はチョガン橋上にさらされた[51]。
盟約書にサインしていたグルジア王デメトレ2世もクル河畔で処刑され、アルグンによってヴァフタング2世が新たなグルジア王に即位した[51]。
ジュシカブも処刑
[編集]アルグンはジュシカブに感謝の意を示し、ジュシカブはその領地に帰った[52]。しばらくしてのち、アルグンはジュシカブが自分に対して誠意を持っていないということを聞いて、アルカスン・ノヤンに騎兵の一隊を率いてジュシカブを逮捕するために派遣した[52]。アルカスン・ノヤンはアルザーンとマイヤーファーリキーン両市間のカラマン水のほとりでジュシカブを捕らえると、アルグンのもとへ連れて帰った[52]。1289年6月2日、ジュシカブもまた処刑された[52]。
ジャラールッディーンも処刑
[編集]スィムナーン出身の財務長官ジャラールッディーン・スィムナーニーはブカと共謀があったことを告発されたが、ひとりのバクシーのとりなしのおかげで生命を保つことができた[53]。しかし、彼は宮廷へ参内することを禁じられた[53]。ジャラールッディーンは1289年6月に罷免され、代わってユダヤ人のサアド・アッ=ダウラが財務長官に就任した[53]。ある人がアルグンにジャラールッディーンはアルグンがひとりのユダヤ人を任用するために不公平にも自分を罷免したと言っていると讒言した[53]。これによってアルグンは8月7日ジャラールッディーンも処刑した[53]。
新宰相サアド・アッ=ダウラ
[編集]1289年6月、アルグンは新たな財務長官(サーヒブ・ディーワーン)としてサアド・アッ=ダウラを任命した[54]。サアド・アッ=ダウラは全権を握って自分の親族に徴税請負権を割り当てた[55]。すなわち、サアド・アッ=ダウラはイラーク・アラビーの請負権を弟のファフル・アッ=ダウラに、ディヤールバクルとディヤール・ラビアーの請負権を弟のアミーン・アッ=ダウラに、ファールスの請負権をシャムス・アッ=ダウラに、タブリーズの請負権を従弟の医師アブー・マンスールに、アゼルバイジャンの請負権をアビー・ラビーの子ラービドにそれぞれ与えた[56]。ホラーサーンとルームはアルグンの子ガザンとガイハトゥの采邑だったので、サアド・アッ=ダウラの親族には割り当てれなかった[57]。サアド・アッ=ダウラはシクトル、タガチャル、サマカル、クンチャクバルら諸将、その他の人々の影響力を恐れていたので、彼は慎重に自分の身を守ろうと計った[57]。サアド・アッ=ダウラはもう一人の財務長官としてオルドカヤを抜擢し、ジュウシとクチャンをその副官とし、ジュウシはシーラーズの軍事総監の職となり、クチャンはタブリーズの軍事総監となった[57]。サアド・アッ=ダウラは他の将軍たちから行政事項におけるすべての影響力を奪ったので、人々はサアド・アッ=ダウラとその同役たちにしか要求や苦情を申し立てることができなくなった[57]。サアド・アッ=ダウラは他人に相談することなく政務を決定する権限が与えられていたのである[57]。
サアド・アッ=ダウラが宰相(ワズィール)の地位に昇進したとき、シャムスッディーン・ジュヴァイニーの孫であるマフムードとアリー[注釈 7]は自分たちの窮状をアルグン・ハンにイラーク・アラビーにおける彼らの父の地所の一部を返還するよう訴え、その許可をもらった[58]。しかし、サアド・アッ=ダウラ派の代官たちが「この返還は国庫収入を著しく減らすことになります」と進言したため、アルグン・ハンはシャムスッディーン・ジュヴァイニーの諸子すべてを殺すよう命じた[58]。5人のうち4人が殺され、末の子だけが逃れることができた[58]。
マムルーク朝のエジプト人ファラジュ・アッラーという者がサアド・アッ=ダウラの弟でディヤールバクルの知事代理であったタージュッディーン・イブン・モクタズの汚職を告発した[59]。サアド・アッ=ダウラは彼に前言撤回を強要し、ファラジュ・アッラーの虚言であったことにすると、アルグン・ハンによって死刑が下ったので、ファラジュ・アッラーは処刑された[59]。
1291年、サアド・アッ=ダウラはアルグン・ハンより絶対的な信任をもらっており、この2年間の政策により、1000トゥメンの黄金を国庫の中に積むことができた[60]。一方で寵臣トガンの憎悪をまねいており、彼は2年前にサアド・アッ=ダウラの厳格な処罰を受けていた恨みから、同じようにサアド・アッ=ダウラの改革に不満を持ったモンゴル貴族、将軍たちを集めてサアド・アッ=ダウラ打倒をもくろんだ[61]。
アルグン・ハンとサアド・アッ=ダウラがメッカのカーバ神殿を偶像崇拝に変え、イスラム教徒を強制的に異教徒に変えようとする噂が流れた[62]。
ジョチ・ウルスの侵入
[編集]1290年3月26日、アルグンはジョチ・ウルスのモンケ・テムル・ハンがデルベントを経由して侵入したことを聞き、ただちにこの方面軍を進軍させ、自らはシャーバラーンという地まで前進し、4月27日にこの地に到着した[63]。すでにタガチャル、クンチャクバル、トグルルジャらの前衛軍がカラスゥ河畔で1万の敵を破っており、敵は300人の死者と若干の捕虜を出して退却した[63]。
アミール・ノウルーズの反乱
[編集]1289年1月16日、ブカが謀反を起こして処刑されると、2月22日にその弟アルクが処刑された[64]。これらを目の当たりにしてアミール・ノウルーズは自分も同じようになることを恐れ、自分の軍隊の演習と称してメルヴにおいてガザンと別れた[65]。しかし、ガザンのもとには妻のトガンジュク、母のサルミシュ、弟のオルダイ・ガーザーン、ナリン・ハッジーをとどめておいた[66]。春、ガザンには足の病と言い続けており、一方で自分の軍隊にはガザンが自分らをブカの共謀者として殺そうとしていることを伝えた[66]。また、ヘラートにいた王侯キンシュウはノウルーズの妹を娶っていたため、彼も仲間に加えた[66]。ガザンのもとに置いておいた家族にはノウルーズの娘の婚礼に参加するという名目でガザンのもとを去らせた[66]。3月の末にガザンはトゥースへ赴くためノウルーズを召すため一人の将校を送った[66]。ついに自分を殺しに来たと思ったノウルーズはこの将校を捕らえて拷問にかけたが、この将校は何も知らない様子だった[67]。しかし、ノウルーズはこの将校を抑留したままガザンに対し公然と反旗を翻した[67]。ノウルーズはクシャ―フ河畔のガザンの幕営を突然急襲したが、ガザンは事前に察知してマーザンダラーンに避難できた[67]。ノウルーズに加担したとされるルームの長官フラジュウと王侯カラ・ブカは処刑されたが、ノウルーズは逃走した[67]。ノウルーズはジュルマガーンまで進軍したが、兵力不足と思って引き返した[68]。その後、部下数人とともにサブザワール市方面へとかろうじて逃れ、酷暑中の砂漠を渡った[68]。
1290年、ノウルーズはバダクシャンを経由してトルキスタンのカイドゥの宮廷に赴いた[68]。ノウルーズはカイドゥにことのいきさつを話し、自分が無実であると訴えた。これに対してカイドゥは「それならどうして逃げ出したのか?」と聞くと、「正直な人間はお伽話のなかのある狐に傚わざるをえないからである。すなわち、狐が一目散に駆けていると、一匹の山犬が狐にそのわけを聞いた。狐は答えて、国王が野生の驢馬を狩していたからであると言った。しかし、汝は野生驢馬ではないと山犬は問い返した。狐は即答して私が野生驢馬ではないことが確認される前に、私は負傷するであろうと言い返した」と言うと、カイドゥは笑って彼を保護することにした[69]。しかし、ノウルーズは絶対的な権力と王侯並みの豪華さをもって30年間ホラーサーンを統治したアルグン・アカの邸宅の中で育ち、その財産と権力を継承していたので、不幸にも傲慢な性格を持っていたため、カイドゥの将校たちと衝突し、しばしば彼らから侮辱を受けた[69]。その間にノウルーズはカイドゥから王侯エブゲンとウズベク・ティムール指揮下の3万の援軍を得てホラーサーンに進軍した[69]。
1291年、ガザンはトゥース近郊でカイドゥの支援を受けたノウルーズと対峙したが、敵軍のほうが多かったため退却を余儀なくされた。その後、ノウルーズが引き連れてきた部隊によってホラーサーンは殺戮と掠奪をうけた[70]。
アルグン・ハンの病とサアド・アッ=ダウラの死
[編集]アルグン・ハンはバクシーたちを非常に尊敬し、彼らの能力と学問に多大の信頼をよせていたため、インドからやってきたラマ僧の寿命を延長させる薬、すなわち硫黄と水銀を混ぜた練薬を8か月間服用し、その後バクシーたちの勧めでタブリーズの砦に40日間閉じこもり、そこから出て間もなくアッラーンの冬営地で体調が崩れた[71]。アルグン医師団に治療によって一時回復したものの、またバクシーに謎の3杯の水薬を飲まされるとさらに病状が悪化し、麻痺を引き起こした[71]。この病についてカム(巫述師)が占うと、魔法の呪いが原因で、その首謀者は妃妾のトガンジュクであるとされ、トガンジュク妃は1291年1月に処刑された[71]。
アルグン・ハンの病はサアド・アッ=ダウラにとって憂慮であった。それは最大の庇護者であったアルグンの死後、自分の身に訪れるであろう危機を感じたためである[72]。そこでサアド・アッ=ダウラは慈善事業に力を入れ、虐げられた人を救済し、貧困者に物を与え、囚人を釈放し、バグダードの滞納金を延長し、シーラーズの貧困者に1万ディナールを分配した[72]。
臨終の際、アルグン・ハンの帳幕にはサアド・アッ=ダウラとジュウシしか入ることを許されていなかった[73]。サアド・アッ=ダウラは次のハンとして王子のガザンを即位させるため、彼に使者を送った[73]。ガザンなら自分と財産を守ってくれると考えたからである[73]。トガンが集めた諸将タガチャル、クンチャクバル、トガル、イルチダイらはアルグン・ハンの死期が近いことを察知し、急いでアルグンの寵臣の殺害にかかった[73]。まずはジュウシとオルドカヤが宴席に呼ばれて殺害された[73]。続いてサアド・アッ=ダウラは逮捕され、タガチャルの幕営に連れて行かれた[73]。翌日の1291年2月29日、サアド・アッ=ダウラは首をはねられた[73]。
アルグンの崩御
[編集]アルグンは病を患ってから5か月後の1291年3月10日、バグチェ・イ・アッラーンの宮殿で崩御した[74]。アルグンの遺骸はスィジャースの山上に埋葬された[74]。この山をモンゴル人はアヴィザと呼んだ[74]。アルグンの禁衛の十人長たちはモンゴルの慣習に従ってアルグンの霊に対して食事を3日間捧げた[74]。
後継者は王子であるガザン、アルグンの異母弟であるガイハトゥが候補となったが、将軍のタガチャルらは自分の地位が脅かされることを恐れてアルグンの従弟であるバイドゥをイル・カン(イルハン)位に推戴した[75]。しかし、バイドゥ自身が辞退したためガイハトゥが第5代ハンに即位した[76]。
ヨーロッパへの使節派遣
[編集]

アルグンの治世にはマムルーク朝対策のため、ヨーロッパの勢力に使者を交していたことが知られている。主にローマ教皇庁とフランス王国へのものが有名である。1288年、ネストリウス派の「カタイとオング諸都市の首都大主教」バール・サウマらがローマへ派遣され、教皇ニコラウス4世に謁見して国書を手渡した。ニコラウス4世はこれを大いに歓迎してキリスト教徒の君主であるアルグンを称讃し、返書では「聖地エルサレムをキリスト教徒側に奪還してエルサレム王国の解放は遠からず容易に達成するであろう」とアルグンのエルサレム入城を進言している。またエラダク、トクダンのふたりのモンゴル王妃がカトリックに改宗したと聞き、両妃にも別途に書簡を送って言祝いだと伝えられる(前者はエラダクはアルグンと妃ウルク・ハトゥンとの娘オルジェイ・ハトゥンあたりかと考えられ、後者のトクダンは弟ガイハトゥの母后トクダン・ハトゥンと考えられる)。
また1289年にはアルグンの側近でジェノヴァ人ブスカレッロ・ド・ジスルフがローマにたどり着き、先に教皇からの返書に同意して聖地エルサレムの攻略案を了承する旨アルグンからの声明を伝え、さらにイングランド国王エドワード1世とフランス国王フィリップ4世にも同様にシリア・パレスティナ遠征の提案を了承する書簡をラテン語による注釈付きで届けたと言う。1291年1月にはこれらの書簡がフランス、イングランドに届き、8月には教皇ニコラウスはエドワード1世宛の親書でアルグンが自らの愛子にニコラウスという洗礼名を与えたことを引いて、アルグンからの書簡の紹介と十字軍への参加を要請している。しかし、この周到に錬られたシリア遠征計画も、フランスに達した2ヶ月後には、当のアルグンが病没してしまい事実上頓挫した。アルグンがこれらヨーロッパの教皇と君主たちへ発した勅書の内、ニコラウス4世とフィリップ4世宛の、朱印入りのウイグル文字モンゴル語国書がそれぞれバチカン図書館とフランス国立図書館に現在でも伝存している。
宗室
[編集]『集史』「アルグン・ハン紀」によると、アルグンには男子は4人、女子も4人いたという。
父母
[編集]- 父 アバカ
- 母 カイミシュ・エゲチ
兄弟・姉妹
[編集]后妃
[編集]- クトルク・ハトゥン [注釈 8] - 大ハトゥン。四男ヒタイ・オグルの母
- オルジェイ・ハトゥン[注釈 9]
- ウルク・ハトゥン[注釈 10] - 次男イェス・テムル、三男オルジェイトゥ、長女オルジェタイ、次女オルジェ・テムル、三女クトルグ・テムルの母
- セルジューク・ハトゥン[注釈 11]
- (大)ブルガン・ハトゥン[注釈 12] - 父アバカの妃。四女ダランチの母
- ブルガン・ハトゥン[注釈 13]
- トデイ・ハトゥン[注釈 14] - 父アバカの側室。前君主テグデルの妃。
側室
[編集]- コルタク・エゲチ - 長男ガザンの母
- クトイ
- エルケ・エゲチ
子女
[編集]男子
[編集]女子
[編集]- 長女 オルジェタイ - 母ウルク・ハトゥン。アミール・アリナクに降嫁。タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグの母。
- 次女 オルジェ・テムル - 母ウルク・ハトゥン。大アミール・イリンジンに降嫁。
- 三女 クトルグ・テムル - 母ウルク・ハトゥン。ディヤール・バクルのアミール・ブラジュに降嫁。
- 四女 ダランチ - 母ブルガン・ハトゥン。ギレイ・バウルチの息子ジャンダンに降嫁。
アルグンの貨幣
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ ペルシア語発音だと「ハーン Khān」と長母音発音だが、日本語(モンゴル語)表記では「ハン Khan」と短母音にするのが正しい。
- ↑ 金バーリシュは75金ディーナールと同じ[8]。
- ↑ 元来、チンギス・カンのヤサでは内乱中に婦女子を虐待することは禁止されていた[33]。
- ↑ モンゴル人は賞を競った時に勝者が掌を打ち、「メリウ」を叫ぶのが慣例であった[34]。
- ↑ Arendsは1284年2月23日とし、K.Jahnは1284年2月3日としている[44]。
- ↑ モンゴル語で「新年」「新年宴会」の意。語尾の「ミシ」はテュルク語形である[49]。
- ↑ ムハンマドとアリーはシャムスッディーン・ジュヴァイニーの子でサーヒブ・ディーワーンであったバハー・ウッディーン・ムハンマド・ジュヴァイニーの子である。
- ↑ オイラト部族出身。オイラト首長家のクドカ・ベキの親族で、アバカの臨終に立ち会ったテンギズ・キュレゲンの娘。テンギズはグユクの皇女を娶りクトルグを儲けたため、彼女はグユクの外孫にあたる。
- ↑ ベスト部族出身のイラン駐留軍司令バイジュ・ノヤンの孫スラミシュの娘。クトルク・ハトゥンの死後、その地位を受け継ぐ。
- ↑ ケレイト部族出身。祖父フレグの大ハトゥンドクズ・ハトゥンの兄弟サリジャの娘で、オン・ハンの曾孫にあたる。
- ↑ ルーム・セルジューク朝の第14代君主スルターン・クルチ・アルスラーン4世の娘。
- ↑ バヤウト部族の有力部将ノカイ・ヤルグチの姪。父アバカに最も寵愛されたの正妃。大ブルガン・ハトゥンとも。
- ↑ コンギラト首長家当主デイ・セチェンの遠縁アバタイ・ノヤン(ヒンドゥスターン・カシュミール鎮守府軍中軍千戸長)の息子ウトマンの娘。父アバカの正妃ブルガン・ハトゥンと同名異人。彼女の死後その地位を受け継ぐ。アルグンの死後は弟ガイハトゥが受継ぎ、ガイハトゥの三男チン・プーラードを産む。
- ↑ コンギラト部族出身。父アバカの側室のひとりで王女ユル・クトルグ、ノカイを産む。アバカの正妃ミリタイ・ハトゥン亡き後その地位を継承する。後にテグデルに受け継がれ、テグデルの大ハトゥン位を最後に継いで、その死後はアルグンの妃となった。
出典
[編集]- 1 2 3 4 杉山 2016, p. 254.
- ↑ ドーソン『モンゴル帝国史 5』、239頁
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- 1 2 3 4 佐口 1976, p. 201.
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- 1 2 佐口 1976, p. 224.
- ↑ ドーソン 1976, p. 205-207.
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- ↑ 佐口 1976, p. 244.
- ↑ 佐口 1976, p. 245-246.
参考文献
[編集]- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 5巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫298〉、1976年12月。ISBN 4582802982。
- 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説 イル汗国の中核部族』東京大学出版会、1995年。ISBN 978-4-13-026112-8。
- 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』講談社〈講談社学術文庫 2352 興亡の世界史〉、2016年4月12日。ISBN 978-4062923521。
関連項目
[編集]外部リンク
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