ジーン・ティアニー
| ジーン・ティアニー Gene Tierney | |||||
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1946年の宣伝写真 | |||||
| 本名 |
ジーン・イライザ・ティアニー 英: Gene Eliza Tierney | ||||
| 生年月日 | 1920年11月19日 | ||||
| 没年月日 | 1991年11月6日(70歳没) | ||||
| 出生地 |
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| 死没地 |
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| 職業 | 俳優 | ||||
| 活動期間 | 1938年 – 1980年 | ||||
| 配偶者 | |||||
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| 署名 | |||||
ジーン・イライザ・ティアニー(英: Gene Eliza Tierney、1920年11月19日〜1991年11月6日[1])は、アメリカ合衆国出身の舞台・映画女優である。その美貌からハリウッド黄金時代を通じて名高い主演女優であり続けた[2][3]。1944年にはオットー・プレミンジャー監督のフィルム・ノワール映画『ローラ殺人事件』でタイトル・ロールのローラ・ハントを演じ、翌1945年にはジョン・M・スタール監督の映画『哀愁の湖』でアカデミー主演女優賞にノミネートされた[4][5]。20世紀フォックスの共同創業者であるダリル・F・ザナックは、ティアニーは「紛れもなく、映画史において最も美しい女性である」("unquestionably, the most beautiful woman in movie history") と評した[5]。
ティアニーは20世紀フォックスとの契約俳優で、出演作のほとんどが同社製作作品である。20世紀フォックスの興行的成功作にいくつも出演し、その出演作には『地獄への逆襲』(1940年、映画デビュー作)、『タバコ・ロード』(1941年)、『激闘』(1942年)、『天国は待ってくれる』(1943年)、『アダノの鐘』(1945年)、『剃刀の刃』(1946年)、『幽霊と未亡人』(1947年)、『鉄のカーテン』(1948年)、1950年の『疑惑の渦巻』と『街の野獣』、1951年の『メイティング・シーズン』(原題)と『南仏夜話 夫(ハズ)は偽者』、『エジプト人』(1954年)、『レフト・ハンド・オブ・ゴッド』(原題、1955年)、『マドリードで乾杯』(1964年、最後の劇場公開映画出演作)などが挙げられる。ハリウッドでのキャリアに陰りが見え始めてからは、散発的にテレビ番組に出演した。最後の出演作は1980年のミニシリーズ『スクループルズ』である。
私生活では2度の結婚を経験し、オレグ・カッシーニとの最初の結婚で儲けた第1子は先天性風疹症候群に苦しんだ。この一件はアガサ・クリスティの長編小説『鏡は横にひび割れて』に影響を与えたと言われている。
幼少期
[編集]ジーン・イライザ・ティアニーは、1920年11月19日に、父ハワード・シャーウッド・ティアニー、母ベル・ラヴィニア・テイラーの第2子として(英: Howard Sherwood Tierney, Belle Lavinia Taylor)、ニューヨーク市ブルックリン区で生まれた。彼女の名前は若くして亡くなったおじに因んで名付けられた[4]:25。ティアニーは3人きょうだいの真ん中で、兄と妹がいた。保険ブローカーとして成功を収めていた父は父方にアイルランド系のルーツを持ち、ティアニーの母は元々体育教師をしていた[4]。
彼女は1926年に一家でコネチカット州に移住し、コネチカット州ウォーターバリーの聖マーガレット女子学校(英: St. Margaret's School for Girls、後にチェイス・カリジェット・スクールへ編入されて現在に至る)、同じくコネチカット州フェアフィールドのアンクォワ・スクールに学んだ[6]。その後2年をヨーロッパで過ごし、スイス・ローザンヌのブリリアントモント・インターナショナル・スクールに通って流暢なフランス語を身に着けた。アメリカ合衆国へは1936年に帰国し、ファーミントン (コネチカット州)のミス・ポーターズ・スクールに通った[6]。西海岸への家族旅行の際に、彼女はワーナー・ブラザースのスタジオを訪れて、母のいとこで歴史短編映画のプロデューサーとして働いていたゴードン・ホリングシェッド(英: Gordon Hollingshead)と出会う。映画監督のアナトール・リトヴァクは、17歳だったティアニーに会って、君は女優になるべきだと話したという。ワーナーは彼女との契約を望んだが、娘に社交界での地位も望んでいた両親は、提示された給料が低すぎると言って辞退するように助言した[4]:11–13。
ティアニーの社交界デビューは、17歳だった1938年9月24日である[4]:14。彼女は社交界生活へすぐに飽きて、演技の道を追い求めようと決めた。ティアニーの父は、「もしもジーンが女優になるなら、正統劇に出ないと」(英: "If Gene is to be an actress, it should be in the legitimate theatre.")と言って、彼女を定期的に演劇へ連れて行った[7]。彼女はニューヨーク・グリニッジ・ヴィレッジにある小さな演技スタジオで、ブロードウェイ俳優・監督のベンノ・シュナイダー(英: Benno Schneider)と共に演技を学んだ[8]。また、ブロードウェイのプロデューサー・監督ジョージ・アボットのメンタリングを受けた[7][9]。
キャリア
[編集]ブロードウェイ
[編集]ティアニーの最初の仕事はブロードウェイに始まり、1938年の "What A Life!" で、舞台上を横切ってバケツの水を運ぶ女性を演じた。『バラエティ』誌の批評家は、「ミス・ティアニーは今まで観た中で1番美しい水運びだった!」(英: "Miss Tierney is certainly the most beautiful water carrier I've ever seen!")と表した。同じ年には "The Primrose Path" でアンダースタディとなった。
翌1939年、ティアニーはブロードウェイ作品 "Mrs. O'Brien Entertains" でモリー・オーデイ役を演じる[4]:19。『ニューヨーク・タイムズ』紙の批評家ブルックス・アトキンソンは、「祖国から来たばかりのうら若きアイルランド系女性として、初舞台を踏んだジーン・ティアニーの演技は、とても可愛らしく新鮮なほど慎ましい」と書いた[注釈 1]。同じ年、"Ring Two" で演じたペギー・カー役にも好意的なレビューが寄せられた。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の演劇批評家リチャード・ワッツ・ジュニアは、「ミス・ティアニーが興味深い舞台キャリアを積めない理由が見当たらない——勿論、映画界が彼女を連れ去らない限り、だが」と述べた[注釈 2]。
同じ頃、ティアニーの父は娘の演技キャリアに資金提供して支援するため、「ベル=ティア」(Belle-Tier) という会社を興している。1939年、コロンビア ピクチャーズはティアニーと6か月の契約を結んだ。この時彼女はハワード・ヒューズと初めて出会い、後に長年の友となる。
あるカメラマンに少し体重を落とした方がよいと言われた後、彼女は『ハーパーズ バザー』誌にダイエットに関する連載を始め、25年にわたって続けた。ティアニーは当初『緑園の天使』(1944年)の主役に予定されていたが、製作スケジュールが遅れてしまった[4]:23。コロンビアピクチャーズはティアニーの降板を決め、彼女はブロードウェイに戻って舞台『男性』(1940年)のパトリシア・スタンリー役で興行的にも批評家からも大成功を収める。『ニューヨーク・タイムズ』紙のブルックス・アトキンソンは。「ティアニーはこれまでで1番の演技で、活き活きと活力に溢れている」[注釈 3]と評した。20歳の誕生日前にブロードウェイで大成功を収め、『男性』での好演は『ライフ』誌に特集され[7]、その他『ハーパーズ バザー』誌、『ヴォーグ』誌、『コリアーズ・ウィークリー』誌でも彼女の写真特集が組まれた[4]:38。
『男性』の開演から2週間後、20世紀フォックスのトップであるダリル・F・ザナックが観劇しに来たという噂が流れた。彼は観劇中アシスタントにティアニーの名前を書き留めておくよう伝えた。同じ夜、マンハッタンのナイトクラブストーク・クラブに立ち寄ったザナックは、ダンスフロアにいる若い女性を見つけて、アシスタントに「劇の女の子は忘れて、あの子と契約できるか確認してこい」(英: "Forget the girl from the play. See if you can sign that one.")と囁いた。ザナックは劇で観た女性だとつゆほども思わなかったが、この女性こそがティアニーだった。ティアニーは後に、「いつもいくつかの異なる『ルックス』を持っていて、それが自分のキャリアに有用だったと証明された」(英: "I always had several different 'looks', a quality that proved useful in my career.")と回想している[4]:38[9]。
映画キャリア
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ティアニーは20世紀フォックスと契約し[4]:39、1940年のフリッツ・ラング監督映画『地獄への逆襲』(西部劇)でのエレナー・ストーン役が映画デビュー作となった(この作品ではヘンリー・フォンダと共演した)。翌1941年には5本の映画に出演した。まず『ハドソンズ・ベイ』(原題)の端役でポール・ムニと共演し、次いでジョン・フォード監督のコメディ『タバコ・ロード』でメインキャストのエリー・メイ・レスターを演じると、『ベル・スター』ではタイトル・ロールのベル・スターを演じてランドルフ・スコットと共演した。この年には更に『砂丘の敵』、『上海ジェスチャー』にも出演している。1942年には『激闘』でイヴ役を演じた後、ルーベン・マムーリアン監督のスクリューボール・コメディ映画『リングス・オン・ハー・フィンガーズ』(原題)でスーザン・ミラーとリンダ・ワーシントンの2役を演じ、また『大空の戦士 サンダーバード』、『チャイナガール』にも出演した。
エルンスト・ルビッチ監督のコメディ映画『天国は待ってくれる』(1943年)で主役を張り、ティアニーのキャリアはうなぎ登りとなる。この作品の製作を振り返ってティアニーは次のように述べている。
ルビッチはセットでは暴君で、最も要求の厳しい監督だった。正午から5時までかかった1シーンの後、ルビッチが自分を叱責する声を聞いて泣きそうになっていた。翌日彼を探し出して、彼の目を見ながら『ルビッチさん、最善を尽くしたいと思っていますが、あなたがずっと私に怒鳴り続けているならば、もうこの作品には出られません』と言った。『自分は君に怒鳴るために給料をもらっている』と彼は声を荒げた。『はい』と私は答え、『私もそれに耐えるために給料をもらっていますが——充分じゃなくて』と答えた。しばし緊張に満ちた沈黙があった後、ルビッチは突然笑い出して、その瞬間から我々は意気投合した。[注釈 4]
1944年には、オットー・プレミンジャー監督のフィルム・ノワール映画『ローラ殺人事件』でタイトル・ロールを演じ、後に彼女の代表作となった[5]。この作品ではダナ・アンドリュースと共演した(アンドリュースとは、『鉄のカーテン』(1948年)、同じくプレミンジャー監督作品の『歩道の終わる所』(1950年)でも共演している)。

1945年、『アダノの鐘』でティナ・トマシーノ役を演じた後、彼女は映画『哀愁の湖』で嫉妬深くナルシストなファム・ファタール、エレン・ベレント・ハーランド役を演じた[5]。この作品はベン・エイムズ・ウィリアムズによる同名の人気小説を映画化したものである。この作品ではコーネル・ワイルド、ジーン・クレイン、ヴィンセント・プライスらと共演し、ティアニーの演技は同年の第18回アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。作品は20世紀フォックススタジオにとって1940年代最大のヒット作となった。映画監督のマーティン・スコセッシはこの作品をお気に入りのひとつに挙げ、ティアニーを評してハリウッド黄金時代の女優で最も過小評価されているひとりだと述べている[10]。
1946年、ティアニーは映画『呪われた城』でミランダ・ウェルズ役を演じ、ウォルター・ヒューストン、ヴィンセント・プライスと共演した。この作品はジョーゼフ・L・マンキーウィッツの監督デビュー映画である。同年、彼女はタイロン・パワーと共に『剃刀の刃』に出演し、イザベル・ブラッドリー役を演じた。この作品はサマセット・モームによる同名小説を映画化したものである。

1947年には同じくマンキーウィッツ監督作品の『幽霊と未亡人』でルーシー・ムーア役を演じ、レックス・ハリソンと共演した[11]。翌年にはタイロン・パワーと再共演し、大成功したスクリューボール・コメディ映画『ザット・ワンダフル・アージ』(原題)でサラ・ファーリー役を演じた。1940年代終わりには、『ローラ殺人事件』の監督プレミンジャーと再度手を組み、古典的フィルム・ノワール映画『疑惑の渦巻』(1950年)に出演した(この作品にはリチャード・コンテ、ホセ・フェラーも出演した)。その他、1950年にはジュールズ・ダッシン監督の『街の野獣』(ロンドンで撮影)、プレミンジャー監督作品の『歩道の終わる所』と更に2本のフィルム・ノワール映画に出演している。後者ではダナ・アンドリュースと5本目の共演となった。
この後パラマウント・ピクチャーズに貸し出されたティアニーは、ミッチェル・ライゼン監督のアンサンブル笑劇『メイティング・シーズン』(原題)でマギー・カールトン役を演じ、ジョン・ランド、ミリアム・ホプキンス、セルマ・リッターらとコミカルな役に挑戦した[4]。1951年にはワーナー・ブラザース映画『クロース・トゥ・マイ・ハート』(原題)でレイ・ミランドと共演し、打って変わって柔和な演技を見せた。この作品はカップルが子どもを養子縁組しようという筋書である[4]。ミランドとは後にテレビ映画『生きている墓石』でも共演した。
1952年にロリー・カルホーンと共演した『草原の追跡』出演後、20世紀フォックスとティアニーの契約は終了した。同じ年、彼女はメトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) 製作の『プリマス・アドベンチャー』(原題)でドロシー・ブラッドフォード役を演じた。この作品で共演したスペンサー・トレイシーと、ティアニーはごく短期間だが交際した[12]。1953年にはイングランドで撮影された映画『哀愁のロシア』でマリヤ・ラマーキナ役を演じ、クラーク・ゲーブルと共演した[4]。
1940年代、ティアニーは美貌の主演女優として人気絶頂となり、「同業の妖婦リタ・ヘイワース、ラナ・ターナー、エヴァ・ガードナー」(英: "fellow sirens Rita Hayworth, Lana Turner and Ava Gardner")と肩を並べた、と評された[2]。「映画史に残る最も美しい女性」(英: "the most beautiful woman in movie history")とまで評され、実際に1940年代の出演作の多くは名作映画となっている[3][5]。
ティアニーはしばらくヨーロッパに滞在し、1953年にはユナイテッド・アーティスツの映画『憧れの小径』でケイ・バーロウ役を演じた。ヨーロッパ滞在中、ティアニーはイスマーイール派のサイイドであるアリ・ハーンと浮名を流したが、婚約したもののアリの父であるアーガー・ハーン3世に猛反対されて結婚できなかった[13](アリはこの直前にリタ・ヘイワースと離婚したばかりだった)。1953年はじめ、ティアニーはアメリカ合衆国へ戻り、フィルム・ノワール映画『意外な犯行』のアイリス・デンヴァー役でジンジャー・ロジャース、ヴァン・ヘフリンと共演している。
健康問題
[編集]ティアニーは、最初の映画出演の後、自分の声が「怒ったミニーマウスみたい」("like an angry Minnie Mouse") と感じ、声を低くしようとして喫煙を始めたと報じられている[14]。次第に彼女はヘビースモーカーになった[14]。

ティアニーは長年にわたって双極性障害に苦しみ続けた。1943年には第1子ダリアが生まれたが、彼女は先天性風疹症候群のため、全聾かつ重度の精神発達遅滞を負っていた[5][15]。1953年には集中力を欠いて、いくつかの映画出演に影響が出た。同年の映画『モガンボ』でクラーク・ゲーブルの相手役を演じるはずだったが、ティアニーの病状が原因でグレース・ケリーに変更された[16]。1955年にハンフリー・ボガートと共演した映画『レフト・ハンド・オブ・ゴッド』(原題)の最中にも症状がぶり返した。ボガートの妹フランシス(愛称パット)も精神疾患に苦しんでいたことから、ボガートはティアニーに同情し、撮影中にはティアニーの台詞のきっかけを作ったり、手助けを求めていいと励ましていた[4]。
ティアニーはその後精神科医を受診し、ニューヨークのハークネス・パビリオン (Harkness Pavilion) に入院した。その後はコネチカット州ハートフォードのインスティテュート・オブ・リヴィングに通院した。うつ状態の緩和を目的に27回の電気けいれん療法が行われた後、ティアニーはこの施設から脱走したが、発見されて連れ戻された。後に彼女は自著の中で、この治療が自分の記憶の大部分を破壊したと主張し、電気けいれん療法に公然と反対した[17]。
1957年12月末、マンハッタンにある母のアパートメントに滞在していたティアニーは、地上14階にある張り出し棚に20分留まって、自殺未遂と見なされた[18]。警察に通報した後、ティアニーの家族はカンザス州トピカのメニンガー・クリニックに彼女を入院させる手はずを整えた。翌年、うつ状態の治療を経てティアニーは退院した。退院後彼女は社会復帰を望みながら、地元の衣料品店で売り子として働いた[18]。トピーカの地元新聞が彼女の就労状況を報じると、州内だけでなく全国的な関心を呼んだ[19]。
1958年後半、20世紀フォックスはティアニーへ映画『リオの若い恋人たち』(1959年)の主役をオファーしたが、ストレス過多のため数日で降板し、メニンガー・クリニックへ戻っている[18]。
カムバック
[編集]ティアニーは1962年のオットー・プレミンジャー監督映画『野望の系列』でスクリーン・カムバックを果たした[4]。直後、リリアン・ヘルマンの戯曲を基にした映画『欲望の家』でアルバータイン・プライン役を演じた。同年にはダン・デイリーらと共演して国際製作映画『フォー・ナイツ・オブ・ザ・フル・ムーン』(原題、西: "Las cuatro noches de la luna llena)にも出演したが、この作品はフィルム紛失により失われた映画となっている。
1964年には映画『マドリードで乾杯』でジェーン・バートン役を演じ、性格俳優として堅実なキャリアを歩み始めたと思われたが、その矢先に突然引退状態となった。1969年にテレビ映画『生きている墓石』に出演したのが映画としては最終で、最後の演技作品は1980年のテレビミニシリーズ『スクループルズ』(原題)だった[4]。
私生活
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ティアニーは2度結婚している。最初の夫でファッションデザイナーのオレグ・カッシーニとは、ティアニー20歳、カッシーニ28歳の1941年6月1日に駆け落ちしている。ティアニーの両親は、フランス生まれでロシア・イタリア系の家庭出身のカッシーニとの結婚に猛反対していた[18]。ティアニーとカッシーニの間には、アントワネット・ダリア・カッシーニ(英: Antoinette Daria Cassini、1943年10月15日 – 2010年9月11日)[20]、クリスティナ・"ティナ"・カッシーニ(英: Christina "Tina" Cassini、1948年11月19日 – 2015年3月31日)[21][22][23]と2人の娘が生まれた。
1943年6月、第1子ダリアを妊娠中だったティアニーは風疹に感染したが、これは彼女のファンだった罹患者に移されたものと推定されている[18]。ダリアはワシントンD.C.で3ポンド2オンス (1.4 kg)しかない早産・極低出生体重児として生まれ、生まれてすぐに全血輸血を要した。先天性風疹症候群のため、ダリアは全聾、白内障による弱視、また重度の精神発達遅滞を負っており、その人生の大半を養護施設で過ごすことになった[18]。一連の出来事は、1962年にアガサ・クリスティが発表した長編小説『鏡は横にひび割れて』(ミス・マープルシリーズ)の筋書きに影響を与えたと言われ、クリスティ公式財団のウェブサイトには次のように書かれている。
「筋書きは、障害を持って生まれた子どもに対するひとりの母の感情に触れたアガサ・クリスティの反応に端を発するもので、クリスティがアメリカの女優ジーン・ティアニーの実際の悲劇に影響されたことは少しの疑問もない」
"The plot was inspired by Agatha Christie's reflections on a mother's feelings for a child born with disabilities and there can be little doubt that Christie was influenced by the real-life tragedy of American actress Gene Tierney."[24]
ティアニーの長年の盟友だったハワード・ヒューズは、ダリアの医療費を負担して彼女が最高の治療を受けられるように計らい、ティアニーはこの恩を決して忘れなかったと自伝に書き記している[4]。ダリアは2010年9月11日に66歳で亡くなった。第2子クリスティナを通じて、ティアニーには4人の孫と6人の曾孫がいる[21][25]。
ティアニーとカッシーニは1946年10月20日に別離し、11月10日に財産分与契約を結んだ[26]。同時期のマスメディアでは、ティアニーとチャールズ・K・フェルドマンの交際が報じられている[27][28]。カッシーニとの離婚は1948年3月に成立する予定だったが、両者はこれより早く合意に達した。夫妻は1952年に離婚したものの、1991年11月にティアニーが亡くなるまで友人であり続けた[29]。離婚合意書には、カッシーニの死後、財産の半分が2人の娘たちに渡るとあった[23]。
カッシーニが2006年に亡くなった後、ダリアに50万アメリカ合衆国ドル、クリスティナに100万ドルが信託相続された[30]。クリスティナは、カッシーニと極秘結婚していた未亡人マリアン・ネスター (Marianne Nestor) に対して、ティアニーとの離婚調停書に基づいて父の資産の1/4を請求する裁判を起こしたが、ネスターはこの離婚調停書は遺言によって無効になると真っ向から反発した[31]。ネスターは60年以上前に結ばれた調停書であるため、条項自体執行不能であると主張した[32]。ニューヨーク遺言検認裁判所はクリスティナに有利な判決を出したが[23]、クリスティナは相続分を受け取れないまま貧困に喘ぎながら2015年に没した[33]。
カッシーニと破局した後、ティアニーは映画『呪われた城』(1946年)の撮影中に、第二次世界大戦の若き帰還兵ジョン・F・ケネディと出会った。ふたりは恋に落ちたが、翌年ケネディから政治的野心のために結婚できないと告げられて破局する[12]。1960年、大統領選挙に勝利したケネディにティアニーは祝辞を送っている。また、元夫のカッシーニも、大統領夫人ジャクリーンの服装を手掛けて有名になる[29]。
1952年、新聞各社はティアニーとカーク・ダグラスの恋仲を報じた[34]。その後、ヨーロッパで映画『憧れの小径』を撮影中に、彼女はアリ・ハーンと恋人関係になった[13]。ハーンとリタ・ヘイワースの離婚手続が進行中にふたりは婚約したが[35]、ハーンの父であるアーガー・ハーン3世の大反対を受けて結婚はできなかった[13]。
1958年、ティアニーはテキサス州の石油王W・ハワード・リー(英: W. Howard Lee)と出会った。リーは1953年に女優で発明家のヘディ・ラマーと結婚していたが、アリモニー(離婚後に元配偶者へ支払われる生活費支援)を巡る長い法廷闘争の末、1960年に離婚した[36]。リーとティアニーは1960年7月11日にアスペン (コロラド州)で結婚し、最初はテキサス州ヒューストン、次いでフロリダ州デルレイビーチにて、1981年にリーが亡くなるまで静かに暮らした[18][36]。
テキサスで自主的にキャリアから離れた生活を送ったものの、ティアニーはカムバックを期してハリウッドからのオファーをいくつか受けている。1960年11月にはテレビ番組『ジェネラル・エレクトリック・シアター』に出演し、前後して妊娠が発覚している。直後、20世紀フォックスは映画『青春の旅情』(1961年公開)でティアニーが主演を務めると発表したが、流産したことが元で降板した。
ティアニーは生涯を通じて共和党員で、リチャード・ニクソン、ロナルド・レーガンの大統領選挙を支援した[37]。
後半生と死
[編集]1979年、自伝 "Self-Portrait" が出版され、この中でティアニーは自身の人生やキャリア、容姿や精神疾患との闘いについて赤裸々に述べている[5]。
1986年には、スペイン最大の映画祭サン・セバスティアン国際映画祭にて、グレゴリー・ペックと共に同年創設されたばかりのドノスティア賞(生涯功労賞、名誉賞)に選ばれたが[38]、ティアニーはスペインでの授賞式には出席しなかった[39]。
1960年2月8日には、ハリウッド・ブールバード6125番地にティアニーのハリウッド・ウォーク・オブ・フェームが設置された。
生涯を通じた愛煙家だったティアニーは、71歳の誕生日をわずか13日後に控えた1991年11月6日に、肺気腫のためテキサス州ヒューストンで亡くなった[1]。彼女はヒューストンのグレンウッド墓地に埋葬されている。ティアニーの映画出演作に関する資料、個人的書簡などはウェズリアン大学のシネマ・アーカイブスに保管されているが、一般公開はされていない[40]。
出演作品
[編集]ブロードウェイ作品
[編集]いずれもオリジナル脚本作品。
| 年 | 作品名 | ジャンル | 役名 | 演出家 |
|---|---|---|---|---|
| 1938年 | What A Life! | コメディ | 通行人、水を運ぶ人 | ジョージ・アボット |
| The Primrose Path | ドラマ・コメディ | アンダースタディ | ジョージ・アボット | |
| 1939年 | Mrs O'Brien Entertains | コメディ | モリー・オーデイ (Molly O'Day) | ジョージ・アボット |
| Ring Two | ペギー・カー (Peggy Carr) | ジョージ・アボット | ||
| 1940年 | 男性 The Male Animal | パトリシア・スタンリー (Patricia Stanley) | ハーマン・シャムリン |
映画
[編集]| 年 | 作品名(邦題/原題) | 役名 | 監督 | その他のキャスト | 注釈 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1940年 | 地獄への逆襲 The Return of Frank James |
エレナー・ストーン Eleanor Stone |
フリッツ・ラング | ヘンリー・フォンダ | テクニカラー作品 |
| 1941年 | ハドソンズ・ベイ(原題) Hudson's Bay |
バーバラ・ホール Barbara Hall |
アーヴィング・ピシェル | ||
| タバコ・ロード Tobacco Road |
エリー・メイ・レスター Ellie Mae Lester |
ジョン・フォード | |||
| ベル・スター Belle Starr |
ベル・スター Belle Starr |
アーヴィング・カミングス |
|
テクニカラー作品 | |
| 砂丘の敵 Sundown |
ジア Zia |
ヘンリー・ハサウェイ | ブルース・キャボット | ||
| 上海ジェスチャー The Shanghai Gesture |
ヴィクトリア・チャートリス、またの名をポピー・スミス Victoria Charteris a.k.a. Poppy Smith |
ジョセフ・フォン・スタンバーグ | ウォルター・ヒューストン | ||
| 1942年 | 激闘 Son of Fury: The Story of Benjamin Blake |
イヴ Eve |
ジョン・クロムウェル | タイロン・パワー | セピア調 |
| リングス・オン・ハー・フィンガーズ(原題) Rings on Her Fingers |
スーザン・ミラー(別名リンダ・ワーシントン) Susan Miller (aka Linda Worthington) |
ルーベン・マムーリアン | ヘンリー・フォンダ | ||
| 大空の戦士 サンダーバード Thunder Birds |
ケイ・サンダース Kay Saunders |
ウィリアム・A・ウェルマン | テクニカラー作品 | ||
| チャイナガール China Girl |
ハオリ・ヤング Miss Haoli Young |
ヘンリー・ハサウェイ | ジョージ・モンゴメリー | ||
| 1943年 | 天国は待ってくれる Heaven Can Wait |
マーサ・スターベル・ヴァン・クリーヴ Martha Strabel Van Cleve |
エルンスト・ルビッチ | ドン・アメチー | テクニカラー作品 |
| 1944年 | ローラ殺人事件 Laura |
ローラ・ハント Laura Hunt |
オットー・プレミンジャー |
|
|
| 1945年 | アダノの鐘 A Bell for Adano |
ティナ・トマシーノ Tina Tomasino |
ヘンリー・キング | ジョン・ホディアック | |
| 哀愁の湖 Leave Her to Heaven |
エレン・ベレント・ハーランド Ellen Berent Harland |
ジョン・M・スタール | アカデミー主演女優賞ノミネート テクニカラー作品 | ||
| 1946年 | 呪われた城 Dragonwyck |
ミランダ・ウェルズ・ヴァン・リン Miranda Wells Van Ryn |
ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ |
|
|
| 剃刀の刃 The Razor's Edge |
イザベル・ブラッドリー・マテュリン Isabel Bradley Maturin |
エドマンド・グールディング | |||
| 1947年 | 幽霊と未亡人 The Ghost and Mrs. Muir |
ルーシー・ムーア Lucy Muir |
ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ | ||
| 1948年 | 鉄のカーテン The Iron Curtain |
アンナ・グーゼンコ Anna Gouzenko |
ウィリアム・A・ウェルマン | ダナ・アンドリュース | |
| ザット・ワンダフル・アージ(原題) That Wonderful Urge |
サラ・ファーリー Sara Farley |
ロバート・B・シンクレア | タイロン・パワー | ||
| 1950年 | 疑惑の渦巻 Whirlpool |
アン・サットン Ann Sutton |
オットー・プレミンジャー | ||
| 街の野獣 Night and the City |
メアリー・ブリストル Mary Bristol |
ジュールズ・ダッシン | リチャード・ウィドマーク | ||
| 歩道の終わる所 Where the Sidewalk Ends |
モーガン・テイラー Morgan Taylor (Payne) |
オットー・プレミンジャー | ダナ・アンドリュース | ||
| 1951年 | メイティング・シーズン(原題) The Mating Season |
マギー・カールトン・マクナルティ Maggie Carleton McNulty |
ミッチェル・ライゼン | ||
| 南仏夜話 夫(ハズ)は偽者 On the Riviera |
リリ・デュラン Lili Duran |
ウォルター・ラング | ダニー・ケイ | テクニカラー作品 | |
| 脱獄者の秘密 The Secret of Convict Lake |
マーシャ・ストッダード Marcia Stoddard |
マイケル・ゴードン | グレン・フォード | ||
| クロース・トゥ・マイ・ハート(原題) Close to My Heart |
ミッジ・シェリダン Midge Sheridan |
ウィリアム・キーリー | レイ・ミランド | ||
| 1952年 | 草原の追跡 Way of a Gaucho |
テレサ・チャベス Teresa Chavez |
ジャック・ターナー | ロリー・カルホーン | テクニカラー作品 |
| プリマス・アドベンチャー(原題) Plymouth Adventure |
ドロシー・ブラッドフォード Dorothy Bradford |
クラレンス・ブラウン | テクニカラー作品 | ||
| 1953年 | 哀愁のロシア Never Let Me Go |
マリヤ・ラマーキナ Marya Lamarkina |
デルマー・デイヴィス | クラーク・ゲーブル | |
| 憧れの小径 Personal Affair |
ケイ・バーロウ Kay Barlow |
アンソニー・ペリシエ | |||
| 1954年 | 意外な犯行 Black Widow |
アイリス・デンヴァー Iris Denver |
ナナリー・ジョンソン | シネマスコープ、デラックスカラー | |
| エジプト人 The Egyptian |
バケタモン Baketamon |
マイケル・カーティス | シネマスコープ、デラックスカラー | ||
| 1955年 | レフト・ハンド・オブ・ゴッド(原題) The Left Hand of God |
アン・スコット Anne Scott |
エドワード・ドミトリク | ハンフリー・ボガート | シネマスコープ、デラックスカラー |
| 1962年 | 野望の系列 Advise & Consent |
ドリー・ハリソン Dolly Harrison |
オットー・プレミンジャー |
|
パナビジョン |
| 1963年 | 欲望の家 Toys in the Attic |
アルバータイン・プライン Albertine Prine |
ジョージ・ロイ・ヒル | ||
| フォー・ナイツ・オブ・ザ・フル・ムーン(原題) |
役名不明 | ソービー・マーティン | ダン・デイリー | フィルム紛失、失われた映画 | |
| 1964年 | マドリードで乾杯 The Pleasure Seekers |
ジェーン・バートン Jane Barton |
ジーン・ネグレスコ | シネマスコープ、デラックスカラー |
テレビ番組
[編集]| 年 | 番組名 | 役名 | その他の出演者 | 注釈 |
|---|---|---|---|---|
| 1947年 | The Sir Charles Mendl Show | 本人として | ホスト:サー・チャールズ・メンドル | |
| 1953年 | トースト・オブ・ザ・タウン oast of the Town |
ホスト:エド・サリヴァン | エピソード#6.33、『エド・サリヴァン・ショー』の前身番組 | |
| 1954年 | 第26回アカデミー賞 26th Academy Awards |
司会:ドナルド・オコーナー、フレドリック・マーチ | 衣裳デザイン賞プレゼンター | |
| 1957年 | ホワッツ・マイ・ライン?(原題) What's My Line? |
司会:ジョン・チャールズ・デイリー | 8月25日回、ミステリー・ゲスト[41] | |
| 1960年 | ジェネラル・エレクトリック・シアター General Electric Theater |
エレン・ギャロウェイ Ellen Galloway |
ホスト:ロナルド・レーガン | エピソード:"Journey to a Wedding" |
| 1969年 | FBIアメリカ連邦警察 The F.B.I. |
フェイ・シンプソン Faye Simpson |
エフレム・ジンバリスト・ジュニア Efrem Zimbalist Jr. |
エピソード:S4E23 "Conspiracy of Silence" |
| 生きている墓石 Daughter of the Mind |
レノア・コンステイブル Lenore Constable |
レイ・ミランド | テレビ映画 | |
| 1974年 | マーヴ・グリフィン・ショー The Merv Griffin Show |
本人として | ホスト:マーヴ・グリフィン | |
| 1979年 | ||||
| 1980年 | ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン The Tonight Show Starring Johnny Carson |
ホスト:ジョニー・カーソン | ||
| マイク・ダグラス・ショー The Mike Douglas Show |
ホスト:マイク・ダグラス | |||
| ダイナ! Dinah! |
ホスト:ダイナ・ショア | |||
| スクループルズ Scruples |
ハリエット・トッピントン Harriet Toppington |
リンゼイ・ワグナー | テレビミニシリーズ | |
| 1999年 | バイオグラフィー Biography - 'Gene Tierney: A Shattered Portrait' |
本人(アーカイブ映像) | ホスト:ピーター・グレイブス | 3月26日放送、伝記的ドキュメンタリー |
ラジオ番組
[編集]| 年 | 番組名 | エピソード・出典 |
|---|---|---|
| 1945年 | Old Gold Comedy Theatre | A Lady Takes a Chance[42] |
| 1946年 | ラックス・ラジオ・シアター Lux Radio Theatre |
『呪われた城』Dragonwyck[43] |
| ハリウッド・スター・タイム Hollywood Star Time |
『ベデリア』Bedelia[44] |
受賞とノミネート
[編集]| 年 | 映画賞 | 対象作品 | 部門 | 結果 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1946年 | 第18回アカデミー賞 | 哀愁の湖 | 主演女優賞 | ノミネート | [45] |
| 1960年 | ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム | N/A | 映画スター | 名誉賞 | [46] |
| 1986年 | サン・セバスティアン国際映画祭 | N/A | ドノスティア賞 | 受賞 | [47] |
カルチャーへの影響
[編集]- 2006年に『プルミエール・マガジン』が発表した「100人の最もセクシーなオールタイム映画スター」"The 100 Sexiest Movie Stars of All Time" でティアニーは71位に選出された[48]。
- ディーン・マーティンとジェリー・ルイスによるお笑いコンビ「底抜けコンビ」は、ボクシングショーツとギアを付けたルイスが、ジーン・ティアニーと闘ってやるんだと息巻くネタを作った[38]。これは1926年から1928年までプロボクシング世界ヘビー級王者だったジーン・タニーが、ティアニーのフルネームと酷似していることに引っかけている。
- 『マッシュ』第3シーズンのエピソード "House Arrest" では、登場人物が『哀愁の湖』に登場するティアニーの姿を観ている。相手役のコーネル・ワイルドが熱情的にティアニーにキスするシーンで、ホークアイ・ピアースは「もしやつがあの出っ歯を真っ直ぐにしたら、あいつを殺してやる」"If he straightens out that overbite, I'll kill him." と息巻く。
- キャスリン・ハイゼンフェルト (Kathryn Heisenfelt) は1947年の小説 "Gene Tierney and the Invisible Wedding Gift"(意味:ジーン・ティアニーと見えない結婚祝)で、彼女をヒロインに据えている[49]。
- アガサ・クリスティが1962年に発表したミス・マープルシリーズの長編小説『鏡は横にひび割れて』は、妊娠中に風疹に罹患したティアニーとその娘の実話を基にしていると指摘されている。
- オフ・ブロードウェイミュージカル『VIOLET』には、何回かティアニーへの言及がある。メインキャラクターのヴァイオレットは、幼少期に父が関与した不慮の事故で顔に傷を負っており、「ジーン・ティアニーの眼」があればと願う。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 原文:"As an Irish maiden fresh from the old country, Gene Tierney in her first stage performance is very pretty and refreshingly modest."[4]:21
- ↑ 原文:"I see no reason why Miss Tierney should not have an interesting theatrical career – that is, if cinema does not kidnap her away."[4]:36
- ↑ 原文:"Tierney blazes with animation in the best performance she has yet given".[4]
- ↑ 原文:Lubitsch was a tyrant on the set, the most demanding of directors. After one scene, which took from noon until five to get, I was almost in tears from listening to Lubitsch shout at me. The next day I sought him out, looked him in the eye, and said, 'Mr. Lubitsch, I'm willing to do my best but I just can't go on working on this picture if you're going to keep shouting at me.' 'I'm paid to shout at you', he bellowed. 'Yes', I said, 'and I'm paid to take it – but not enough.' After a tense pause, Lubitsch broke out laughing. From then on we got along famously.[4]
出典
[編集]- 1 2 Severo, Richard (1991年11月8日). “Gene Tierney, 70, Star of 'Laura' And 'Leave Her to Heaven', Dies”. The New York Times 2007年11月21日閲覧。
- 1 2 “Gene Tierney Biography”. Turner Classic Movies. 2011年8月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月20日閲覧。 “Tierney emerged as a leading lady of equal beauty and depth...Tierney attained a strata of celebrity that put her on par with fellow sirens Rita Hayworth, Lana Turner and Ava Gardner"”
- 1 2 Vogel, Michelle (2009). Gene Tierney: A Biography. McFarland. ISBN 978-0786458325. "Called the most beautiful woman in movie history, Gene Tierney starred in a number of 1940s classics, including Laura, Leave Her to Heaven and The Ghost and Mrs. Muir."
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 Tierney, Gene; Herskowitz, Mickey (1979). Self-Portrait. Wyden Books. pp. 1, 9–10, 14, 18, 19, 21, 23, 25–26, 27, 33, 36, 38, 65–66, 91, 97, 101, 119, 131, 133, 141–42, 144, 150–51, 164–65, 192–192, 207. ISBN 978-0-8832-6152-1
- 1 2 3 4 5 6 7 Newland, Christina (2024年4月17日). “Gene Tierney and the pitfalls of being 'the most beautiful woman in movie history'” 2024年4月29日閲覧。
- 1 2 “Gene Tierney”. Turner Classic Movies. 2011年8月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年8月2日閲覧。
- 1 2 3 “Debutante Gene Tierney Makes Her Entrance In A Broadway Success”. Life 8 (8): p. 25. (1940年2月19日) 2025年4月9日閲覧。
- ↑ Goldstein, Malcolm. The Political Stage. (Oxford University Press, 1974). 45. ISBN 978-0-1950-1745-8; and Nahshon, Edna, ed. New York's Yiddish Theater: From the Bowery to Broadway. (New York: Columbia University Press, 2016). 179–86. ISBN 978-0-2315-4107-7
- 1 2 Gene Tierney: A Shattered Portrait, The Biography Channel, March 26, 1999, interview with Gene Tierney's sister Patricia.
- ↑ Martin Scorsese discusses Leave Her to Heaven at the 45th New York Film Festival - YouTube
- ↑ Gene Tierney: A Shattered Portrait.Biography. March 26, 1999. Interview with film scholar Jeanine Basinger.
- 1 2 Sarvady, Andrea Cornell (March 30, 2006). Leading Ladies: The 50 Most Unforgettable Actresses of the Studio Era. Chronicle Books. pp. 193–195. ISBN 978-0-8118-5248-7
- 1 2 3 Self-Portrait. Tierney and Herskowitz (1979). Wyden Books. pp. 179–193.
- 1 2 “Biography”. Gene Tierney The Official Web Site. 2012年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年2月1日閲覧。
- ↑ Kuperberg, Clara and Julia (2016年). “Gene Tierney - Hollywood's Vergessener Star” (ドイツ語). Arte. 2024年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年2月27日閲覧。
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- 1 2 3 4 5 6 7 Demaret, Kent (1979年5月7日). “Gene Tierney Began Her Trip Back from Madness on a Ledge 14 Floors Above the Street”. People. オリジナルの2017年1月18日時点におけるアーカイブ。 2017年1月18日閲覧。
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- ↑ “The Mirror Crack'd from Side to Side”. The Home of Agatha Christie. agathachristie.com. 2022年4月8日閲覧。
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- ↑ “Radio's Golden Age”. Nostalgia Digest 38 (3): 40–41. (Summer 2012).
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- ↑ “The 18th Academy Awards | 1946” (英語). www.oscars.org (2024年4月9日). 2025年8月28日閲覧。
- ↑ Chad (2019年10月25日). “Gene Tierney” (英語). Hollywood Walk of Fame. 2025年8月28日閲覧。
- ↑ “Awards, Honors, & Nominations” (英語). GeneTierneyOnline (2017年9月16日). 2025年8月28日閲覧。
- ↑ “The 100 Sexiest Movie Stars of All Time – 71. Gene Tierney”. premiere.com. 2009年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月6日閲覧。 “Tierney, a classic beauty, may at first seem too elegant to be a sex symbol, but her Oscar-nominated performance as the femme fatale in Leave Her to Heaven firmly established her sexy cred. Plus, Tierney owned her look. She didn't let studio executives mess with her hair color or length, and refused to fix a slight overbite, earning extra sexy points for confidence.”(紹介文日本語訳「古典的な美人であるティアニーは、当初セックスシンボルになるには上品すぎると考えられていたが、オスカーへのノミネートを得た『哀愁の湖』でのファム・ファタール役で、セクシーさの信用を揺るぎないものにした。加えてティアニーは自分の見た目に責任を持っていた。スタジオの重役に、自分の髪色や長さを損なわせず、少し出っ歯なのを直すことを拒み、自信を持って追加のセクシーポイントを勝ち得たのだ」)
- ↑ “Whitman Movie Star Authorized Editions”. Whitman Publishing. 2025年4月9日閲覧。
参考文献
[編集]- Cassini, Oleg (1987). In My Own Fashion: An Autobiography. Simon & Schuster. ISBN 0-671-62640-X
- Devillers, Marceau (1987). Gene Tierney: A Biography. Pygmalion/G.Watelel. ISBN 2-85704-230-2
- Mérigeau, Pascal (1987). Gene Tierney: A Biography. Paris: Edilig. ISBN 2-85601-174-8
- Tierney, Gene; Herskowitz, Mickey (1979). Self-Portrait. Wyden Books. ISBN 0-88326-152-9
- Vogel, Michelle (2005). Gene Tierney: A Biography. McFarland & Company. ISBN 0-7864-2035-9
外部リンク
[編集]- Gene Tierney at The Biography Channel .co.uk
- 写真
- Gene Tierney at aenigma-images.com
- Photos of Gene Tierney in 'The Shanghai Gesture' by Ned Scott
- メタデータ