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ジャーマンフラッツへの攻撃

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ジャーマンフラッツへの攻撃
FortHerkimer1776.gif
ハーキマー砦の地図、おそらくベンソン・ジョン・ロッシング英語版
戦争アメリカ独立戦争
年月日1778年9月17日
場所:現在のニューヨーク州ハーキマー英語版
結果:イギリス軍の勝利
交戦勢力
 アメリカ合衆国  グレートブリテン
ロイヤリスト
イロコイ連邦
指導者・指揮官
アメリカ合衆国 ピーター・ベリンジャー英語版 グレートブリテン王国 ジョセフ・ブラント
グレートブリテン王国 ウィリアム・コールドウェル英語版
戦力
トライアン郡民兵英語版 イロコイ族152名
ロイヤリスト200-300名
損害
戦死3名
家屋喪失719人
報告無し
アメリカ独立戦争

ジャーマンフラッツへの攻撃(ジャーマンフラッツへのこうげき、英語: Attack on German Flatts)は、アメリカ独立戦争中の1778年9月17日イギリス軍を支持するロイヤリストイロコイ連邦インディアンの混成部隊がジャーマンフラッツ英語版前線開拓地(現在のニューヨーク州ハーキマー英語版も含む)を攻撃した戦闘である。攻撃はロイヤリストイロコイ連邦の混成軍によって行われ、全体の指揮はモホーク族指導者ジョセフ・ブラントが執った。彼ら家屋や納屋を破壊し、作物を傷め、家畜は自分たちで使うために連れ帰った。開拓者たちはアダム・ヘルマー英語版が勇敢にも急報したことで、地元の砦に逃げ込むことができたが、軍事的に脆弱だったため襲撃を止めることはできなかった。

このブラントの攻撃は、彼自身あるいはロイヤリストやセネカ族英語版の指導者が指揮し、ニューヨーク西部やペンシルベニア北部フロンティアに対して行った一連の攻撃の1つだった。これに対してアメリカ側の指導層は、イロコイ族領内にあるブラントの前進基地を破壊する遠征を命じた英語版

背景[編集]

1777年10月のサラトガの戦いイギリス軍将軍ジョン・バーゴインが敗北、ハドソン川流域の支配を巡って展開していたサラトガ方面作戦が失敗に終わると[1]、イギリスは1778年1月に13植民地との和解を提案したが拒否された[2]仏米同盟条約締結直後の1778年3月17日、イギリスはフランスに宣戦布告した[2]。これにより戦線が拡大したため、その後のアップステート・ニューヨークにおける戦争は大規模な会戦ではなく、いわゆるフロンティア戦争となった[注 1][1]ケベック植民地英語版のイギリス軍当局はフロンティア戦争の一環として、ロイヤリストとインディアンのゲリラ戦士に物資や武器を与えて支援した[3]。1777年から1778年にかけての冬、ジョセフ・ブラントなどイギリス軍と同盟したインディアンはニューヨークとペンシルベニアのフロンティアにある開拓地攻撃の作戦を立てた[4]。1778年2月、ブラントはオナカガ英語版(現ニューヨーク州ウィンザー英語版)に作戦基地を設立した。イロコイ族やロイヤリストの混成部隊を徴募し、5月に行動を始めたときは総勢200ないし300名になっていたと推計されている[5][6][7]。ブラントの目的の1つは部隊の食料を確保することであり、またサスケハナ河谷での作戦展開を計画していたロイヤリストのジョン・バトラー英語版の部隊にも食料を供給することだった[8]。ブラントは5月遅くにコブルスキル英語版襲撃することでその作戦を開始し、夏の間フロンティアの集落に対する襲撃を続けた[9]

ニューヨークのフロンティアを示す地図。赤点はモホーク川両岸にある2つの砦で、青点はインディアンの集落ユナディラ英語版オナカガ英語版

ブラントは7月にスプリングフィールド英語版とアンドラスタウン(現ジョーダンヴィル英語版)を襲撃したとき、生き残った者に、間もなくジャーマンフラッツを攻撃することになると警告した[10][11]。ジャーマンフラッツの開拓地は1723年にドイツプファルツ地方からの移民(プファルツ人英語版)によって設立されていた[12](1788年に行われた測量の誤りにより、現在のモホーク川南岸にあるジャーマンフラッツ英語版と北岸のハーキマーが入れ替わって登録されてしまった[13])。この地域はピーター・ベリンジャー英語版大佐が指揮する地元民兵連隊が防衛にあたっていた。モホーク川の両岸にデイトン砦英語版ハーキマー砦英語版の2つがあった[14]

前哨戦[編集]

ブラントは9月よりも前にジャーマンフラッツ襲撃を計画していたが、ジョン・バトラーが居なかったので遅れた。バトラーは7月にワイオミング・バレーの町への攻撃を行った後、ナイアガラ砦英語版に戻っていた。このとき、バトラーズ・レンジャーズ英語版と呼ばれていた部隊のために兵士を徴兵するため、ウィリアム・コールドウェル英語版大尉をオナカガに派遣していた[15]。9月初旬、バトラーが戻ってこないことが明らかになったので、ブラントとコールドウェルはその時の軍勢だけで遠征を始めた[16]。インディアン集落でオナカガ近くのユナディラ英語版を発ったときの正確な部隊構成は不明である。複数の史料では主にモホーク族で構成されるイロコイ族が152名いたことでは一致しているが、ロイヤリスト(コールドウェルのレンジャー部隊とブラントの志願兵英語版)は200名から300名となっている[17][18][19]

ベリンジャー大佐は、ブラントが攻撃を計画しているという警告を受け取っていたので、情報を集めるためにユナディラの方向に斥候を放っていた[20]。9月16日、ブラントの中隊が9人の斥候部隊を打ち破り、数人を殺し、残りは追い散らした[21]。生き残った者の中にアダム・ヘルマー英語版という者が居り、ジャーマンフラッツに警告を伝えるために26マイルを走りとおした。ベリンジャー大佐は連隊の招集を行い、ジェイコブ・クロック英語版大佐には援軍を要請する急使を走らせ、一方で開拓者には砦の中に避難させた[22]

襲撃[編集]

ヘルマーが警告を伝えた9月16日夜からそれほど経っていない時刻に、コールドウェル、ブラントとその部隊がジャーマンフラッツに到着し、翌朝に攻撃を始めた[14]。開拓者が砦に避難していたので、この襲撃隊が捕虜をとったり、人を殺したりする機会は無かった。砦の前で示威行動を行ったが、重火器が無かったので攻撃を仕掛けることは出来なかった[18]。代わりにモホーク川両岸にある集落を暴れまわり、63軒の家屋とほぼ同数の納屋、3軒の粉挽き場、1軒の製材所を破壊した[23]。多数の馬、牛、羊を追い出し、連れて行けない家畜は殺した。無傷で残っている建物は、砦、1軒の納屋、教会、牧師館および数軒のロイヤリスト家屋だった。その破壊で700人以上が家を無くした。ヘルマーの警告があったので、開拓者の中で殺されたのは3人だけだった。コールドウェル大尉はその部下に「ジャーマンフラッツの住人が斥候の一人から我が軍が来ていることを知らされなければ、砦に入っていなかったであろう。それならば住人の大半を殺すこともできた」と記していた[24]

襲撃の後[編集]

襲撃隊が去った後になってクロック大佐の連隊が到着した。その民兵隊は襲撃隊を追跡したが、追いつくことはできなかった。しかし、アメリカ側に友好的なオナイダ族英語版タスカローラ族英語版が、ブラントの留守に付け込んでユナディラを襲撃、ブラントがジャーマンフラッツに行く途中で捕まえていた捕虜を解放した[24]

アメリカ側は10月初旬に報復のための襲撃を敢行英語版し、ユナディラとオナカガの集落を破壊した。ジョン・バトラーの息子ウォルター・バトラー英語版とブラントはチェリーバレー英語版に対する報復遠征を行い、11月に虐殺を行った[25]。ブラントとバトラーが行ったこの虐殺やほかの敵対行動があったので、大陸会議大陸軍によるイロコイ領土への本格的な遠征を承認した[26]。1779年、ジョン・サリバン将軍とジェイムズ・クリントン将軍が指揮したサリバン遠征では、イギリス軍のために戦っているイロコイ族の集落を組織的に破壊したが、フロンティア戦争を止めさせるまでには至らなかった[27]。特にジャーマンフラッツ地域は繰り返し襲撃の標的となった[28]

ウォルター・D・エドモンズ英語版が1936年に著した小説『Drums Along the Mohawk英語版』は、アダム・ヘルマーが走って警告を伝えた話を伝え、川沿いのドイツ系開拓地の概要を伝えている。この小説をもとにジョン・フォード監督が1939年に『モホークの太鼓』という映画を制作した[29]

脚注[編集]

  1. ^ フロンティア戦争とは、植民地の辺境にある開拓地の植民地人と原住民(アメリカの場合はインディアン)の間の戦闘である。

出典[編集]

  1. ^ a b Graymont, pp. 155-156
  2. ^ a b Perspective On The French-American Alliance”. Xenophongroup.com. 2018年1月5日閲覧。
  3. ^ Kelsay, p. 212
  4. ^ Graymont, p. 160
  5. ^ Barr, p. 150
  6. ^ Kelsay, p. 216
  7. ^ Graymont, p. 165
  8. ^ Halsey, p. 207
  9. ^ Graymont, pp. 165-167
  10. ^ Graymont, p. 175
  11. ^ Kelsay, p. 224
  12. ^ Hanson, p. 2
  13. ^ Perkins and Hopson, p. 7
  14. ^ a b Halsey, p. 226
  15. ^ Kelsay, p. 222
  16. ^ Kelsay, p. 225
  17. ^ Graymont, p. 178
  18. ^ a b Barr, p. 151
  19. ^ Fryer, p. 244
  20. ^ Halsey, pp. 224-225
  21. ^ Kelsay, p. 226
  22. ^ Mintz, p. 66
  23. ^ Barr, p. 152
  24. ^ a b Graymont, p. 179
  25. ^ Graymont, pp. 181-190
  26. ^ Graymont, p. 167
  27. ^ Graymont, pp. 194-223
  28. ^ Benton, pp. 89-106
  29. ^ Rollins and O'Connor, pp. 45-53

参考文献[編集]

関連図書[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯43度1分34秒 西経74度59分25秒 / 北緯43.02611度 西経74.99028度 / 43.02611; -74.99028