シナトラ・ドクトリン

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シナトラ・ドクトリン(Sinatra Doctrine)とは、ミハイル・ゴルバチョフソ連政府が、近隣のワルシャワ条約機構諸国に国内問題を自ら解決できるようにした政策を冗談めかして表現した名称である。この名称はフランク・シナトラの歌「マイ・ウェイ」にちなんでいた(つまりソビエト連邦は周辺国にそれぞれ「自らの道」を進むことを認めた)。

このことは、衛星国の国内問題がソ連政府により厳しく管理されていた従来の制限主権論ブレジネフ・ドクトリンからの大きな転換であった。制限主権論は、1956年のハンガリー動乱と1968年のチェコスロバキア侵攻英語版の正当化に、さらに1979年にはワルシャワ条約機構非加盟国であるアフガニスタンへの侵攻を正当化するのにも用いられた。1980年代後半になると、ソ連体制の構造的な欠陥や拡大する経済問題、反共感情の隆盛、アフガニスタン戦争の影響によって、ソビエト連邦が自分の意志を近隣諸国に押し付けることがますます難しくなっていた。

この表現は外務省スポークスマン、ゲンナディ・ゲラシモフ英語版により1989年10月25日に作られた。彼はソ連の外務大臣エドゥアルド・シェワルナゼが2日前に行った演説についてヘルシンキで記者会見を行なっていた。シェワルナゼは他のすべての国、特にワルシャワ条約機構加盟国の選択の自由をソ連は承認すると語っていた。ゲラシモフはインタビューアーに「今やソ連にはフランク・シナトラ・ドクトリンがあります。彼にはI Did It My Wayという歌があります。そのようにすべての国は、どの道を取るか自ら決めるのです」と語った。そして、ソ連ブロック内の国が共産党を排除することをソ連政府が認めることもあるのか、と質問されると「そのとおりです・・・政治構造はその国に住む人々が決定するべきです」と答えた。

この「シナトラ・ドクトリン」は、ソ連政府が同盟国に自身の未来を決定することを認めるものと見なされた。実際、ソ連の同盟国はすでに大きな行動の自由を得ていたので、これは遡及的な方針であった。ゲラシモフの発言の1か月前、すでにポーランドには1940年代以降初の非共産党政権ができていた(ポーランド民主化運動)。

また独自に改革を進めるハンガリー政府は1989年5月にオーストリア国境の鉄条網を撤去、8月19日の汎ヨーロッパ・ピクニックを経て9月11日に東ドイツ人の西側出国を公認した。ハンガリーは東ドイツ人が出国できる数少ない国のひとつだったため、このルートを通り多くの東ドイツ人が西側に出国することとなった。

この展開は東ドイツ指導者エーリッヒ・ホーネッカーなどの厳格な共産主義者を大いに当惑させた。彼は伝統的なソ連ブロックの「社会主義的統一」の終焉を非難し、ハンガリーを制御するようソ連政府に求めた。ホーネッカーは自国内でも高まる危機に直面した。ライプツィヒなどの東ドイツの都市で大規模な反政府デモが起きたのである。新しい方針に関するシェワルナゼの演説やゲラシモフの注目すべき発言は、ホーネッカーの訴えに対する却下と同義であった。

「シナトラ・ドクトリン」の声明は、ソ連ブロック全体に大きな影響を及ぼした。四面楚歌の東ドイツ政府は、東ドイツなどで共産主義を防衛するソ連の介入を望んでいた。しかし「シナトラ・ドクトリン」の公言は、ソビエト連邦が東ドイツの共産主義者を援助しないというしるしであった。数週間後、東ドイツやチェコスロバキアブルガリアの共産党政権は倒れ、2か月後にはルーマニアの共産党指導部も同じ運命をたどり、冷戦とヨーロッパの分断の終結を示した。

関連項目[編集]

参照[編集]

  • "'Sinatra Doctrine' at Work in Warsaw Pact, Soviet Says", Los Angeles Times, 1989-10-25