シナトラ・ドクトリン

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シナトラ・ドクトリン(Sinatra Doctrine)とは、ミハイル・ゴルバチョフソ連政府が近隣のワルシャワ条約機構諸国が自国の国内問題を解決できるようにする政策を表現するのに冗談めかして用いた名前であった。この名称はフランク・シナトラの歌「マイ・ウェイ」に遠まわしに触れた(ソビエト連邦はこの国々に自身の道を進むことを認めていた)。

このことは、衛星国の国内問題がモスクワによりきつく管理されていた従来の制限主権論ブレジネフ・ドクトリンの大きな転換であった。制限主権論は、1968年のチェコスロバキア侵攻英語版と同様に、1979年のワルシャワ条約機構非加盟国であるアフガニスタンへの侵攻を正当化するのにも用いられた。1980年代後半までにソ連体制の構造的な欠陥や拡大する経済問題、反共感情の隆盛、アフガニスタン戦争の影響は、自分の意志を近隣諸国に押し付けるソビエト連邦にとって益々扱い切れない問題となった。

この句は外務省スポークスマン、ゲンナディ・ゲラシモフ英語版により1989年10月25日に作られた。ソ連の外務大臣エドゥアルド・シェワルナゼが2日前に行った演説について話すためにアメリカ合衆国の大衆テレビ番組グッド・モーニング・アメリカに出演した。後者は特に他のワルシャワ条約機構加盟国を含めあらゆる国の選択の自由の権利をソ連は承認すると言っていた。ゲラシモフはインタビューアーに「私達は今フランク・シナトラ・ドクトリンがある。I Did It My Wayという歌がある。それであらゆる国は、選択したい道を自ら決めるのです。」と語った。ソ連ブロックの共産党を拒否することは、モスクワでもあり得るのかと聞かれた時のことである。「確かに・・・政治構造はそこに住む人々により決定されなければなりません」と答えた。

「シナトラ・ドクトリン」はモスクワが同盟国に自身の未来を決定することを許すものと見られていた。事実、ソ連の同盟国が既に行動の大きな自由を得ていたので、遡及的な政策であった。ゲラシモフの声明の1か月前、ポーランドにおいては1940年代以降初の非共産党政権ができていた(ポーランド民主化運動)。

また独自に改革を進めるハンガリー政府は1989年5月にオーストリア国境の鉄条網を撤去、8月19日の汎ヨーロッパ・ピクニックを経て9月11日に東ドイツ人の西側出国を公認した。ハンガリーは東ドイツ人のバカンスが可能な外国であり、このルートを通り多くの東ドイツ人が西側に出国することとなった。

この展開は伝統的なソ連ブロックの「社会主義共同体」の終焉を非難しハンガリーを制御するようモスクワに求めた東ドイツ指導者エーリッヒ・ホーネッカーのような厳格な共産主義者を大いに当惑させた。ホーネッカーはライプツィヒなどの東ドイツの都市の大規模な反政府デモとともに国内で高まる危機に直面した。新政策に関するシェワルナゼの演説やゲラシモフの注目すべき説明は、ホーネッカーの求める妨害という結果になった。そのメッセージとは「自分の問題で我々を困らせないでくれ。自分で解決してくれ。」であった。

「シナトラ・ドクトリン」の声明は、ソ連ブロックを通じて大いなる影響があった。四面楚歌の東ドイツ政府は、東ドイツなどで共産主義を防衛するソ連の介入を望んでいた。しかし「シナトラ・ドクトリン」の言ったことは、ソビエト連邦は東ドイツの共産主義者を援助しないという信号であった。数週間後、東ドイツやチェコスロバキアブルガリアの共産党政権は、排除され、2か月後、冷戦とヨーロッパの分断に対する終焉を示しながら、ルーマニアの共産党指導部は、同じ運命を辿った。

関連項目[編集]

参照[編集]

  • "'Sinatra Doctrine' at Work in Warsaw Pact, Soviet Says", Los Angeles Times, 1989-10-25